「無理なお願いやしつこい誘いを断れなかった」「デリカシーのない質問やマウンティングを我慢した」などの経験は、ありませんか? 『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』では、相手をいらだたせずに、自分のもやもやをそっと気づかせる方法を脳科学者の中野信子さんが解説しています。抜粋編第1回は、「論破と沈黙を使い分ける判断軸」について紹介します。

世界で活躍する人の必須スキルは、戦略的な沈黙と妥協

 論破することは、たしかに瞬間的には気持ちのいいことかもしれない。相手を傷つけかねないことをできるだけ言わずにおくというのも、ストレスが溜まることでしょう。納得できていないのにそれを相手に伝えずにいるというのは心理的に負荷が高いでしょうし、そういう感情を抑えておくのにもそもそも鍛錬と努力が必要です。つまり、論破よりも、沈黙や妥協のほうがずっと脳を使わなければならないのです。

 私たちの脳には潜在的に、戦略的な沈黙や妥協をする能力があります。けれども、それを使いこなせる人は、トレーニングを積んだごく一部の限られた人たちなのです。

 自分から見た相手の弱点をうまく使いながら、傷つけない言い方を駆使して、しかも自分の心も殺さず、本音は小出しに隠しておいて関係を保つ、というやり方はたしかに、何の鍛錬もなしにすぐ使えるものではありませんが、使うことがもし可能ならば、その人は世界のどこへ行っても通用するし、出世も期待できるだろうなと思うのです。

 もし国際的な場面なのであれば、適切な外交関係を保つために必要なスキルということにもなります。

 論破がいいのか、それとも互恵関係(お互いにお互いが持っていないところ、足りないものなどを提供し合って、どちらもが得をするwin-winの関係)がいいのかという二項対立は、一方がいつ何時でも正しく優位であるというわけでもないというのがまたおもしろくもあります。私たちがどちらの方法論も取り得る脳を持ち、時によって迷いが生じるのは、どちらのほうが得になるかということが条件によって変わってくるからです。

「論破が最適解」になる2つの条件

 本書では、互恵関係を維持し、より自身を安全側に寄せておくためのスキルとして、京都式、という形でそのやり方をおすすめしているわけですが、論破のほうが得になる場合ももちろんあります。

 それは、寿命がそれほど長くなりにくい戦時や飢饉(ききん)の長く続く時代であったり、移動が激しい地域であったりなど、人間関係が続かないことが想定される条件がそろう場合です。その人が自分と関わるのは限られた時間の中のことであって、また会うときは二度と来ない。来てもほぼ「初めまして」で、前にあったことはその後の関係にほとんど影響を与えない。そんなときは論破のほうが有利になります。

 なぜなら、一時的な関係で、長続きすることがそもそも見込めないのであれば、相手からのリベンジのリスクは極めて低くなるため、自分だけの利益を最大化するのが最適戦略になるからです。

 これはインターネット上だけの匿名性の高い間柄の関係や、相手の素性がよく分からない、そもそも探索のためのコスト(時間など)をかけられる余裕がなく素性を追うことが難しい状況であったり、東京のような人口が多く流動性が極めて高い地域、「隣は何をする人ぞ」の世界で有効な方法です。論破して、相手の恨みを買っても、逃げ切ることが可能です。その後はまったくその人と関係なく生きていける場合には、思い切りキレる姿を見せつけたり、完全に論破してしまうことがいい方法になるでしょう。

(写真:khosrork/stock.adobe.com)
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 論破のほうが有利になるのは、短期的な人間関係ばかりが見込まれる状況だけではありません。もう一つ、別の場合が想定されます。それは、自分1人で生活が成立するという状況です。誰か、他者の助けを借りなくても済み、さらにリベンジのリスクが低いという場合です。

 これは、こちらが妥協することによって誰かの好意を得るということを企図しなくてもいいわけですから、論破でいい。たとえば、ライフラインが安定的に確保できるインフラが十分に整っているとか、自分があえて依頼しなくても公的な援助が自動的に得られるようなガチッとした社会システムができているといった状況になります。

 人間関係が短期的にしか続かない、あるいはコミュニティをつくる必要がなく、互恵的な共同体を想定しないという条件が整っており、それがある程度変わらない、しかも恨みを買ってもリスクが高くならない、という見込みがあるのであれば、キレたり、論破したりするスキルを磨くのが上策でしょう。

「キレる」ことで失うものは大きい

 それでは逆に、キレたり論破したりという方略をとると、かえって損になってしまうのはどんな場合でしょうか。それは、win-winの関係を築くのでなければ、相手に無駄な害意を抱かせてしまい、潜在的なリスクを高めてしまうことが想定されるとき。長期的な人間関係が半ば強制的に続かされる環境であったり、誰かの助けを得なければ生き延びていくことが難しい条件に置かれた場合です。これは、より脳を使わなくては生き延びていけない状況といってもいいかもしれません。
 そこでは、相手を論破してしまうと、これは自分の生存が脅かされる結果につながっていくので、大変な損失を被ることになるわけです。

 ビジネススキルとして、調整能力や、相手と折り合いをつける能力が重要視されるというのは、まさにこういうことではないでしょうか。論破してしまうと相手との取引を再開するのにより多くの労力が必要となるので損失が大きい。また、引っ越すことが困難であるとか、外交(国が引っ越すことはほぼ不可能)であるとか、相手との関係をどうしても続けていかなければならない場合には、相手から害意を持たれるような水準でやり込めてしまうとそのカウンターアタックを警戒しなければなりません。これもまたコストがかかります。

 論破してしまうことのコストを考えると、最初から一定ラインの落としどころを計算し、そこで互いに手を引くことにするのが最もエレガントでコストパフォーマンスのいい方法になります。

職場や家族、ママ友、ご近所さんの言動でイヤな気持ちになったとき、どうしていますか? 言い返したいけど、関係性は壊せない。頭をよぎる不安から、つい「自分が我慢すれば」と思ってしまうことがあります。そんなとき、聞き手によってはあたたかくやわらかに聞こえる言葉で、直接NOとは言わずにNOの気持ちを伝えることができれば――。脳科学者・中野信子が脳科学と京都人のコミュニケーションから、賢く自分の思いを伝える、大人の知的戦略を解き明かします。

中野信子(著)、日経BP、1320円(税込み)