「ちゃんと説明したのに、なぜできないんだろう」。部下の育成で、管理職が一度は抱く疑問かもしれません。問題は部下の資質ではなく、「ちゃんと説明したらちゃんと伝わった」と管理職が思い込んでいることにあるのかも……。人事コンサルタントの平康慶浩さんの新刊『「困った部下」は、つくられる。』から抜粋します。
育てるとは「育つための経験」を用意すること
「熱い」という言葉の意味は、熱いものに触れた経験があるから理解できる。「悔しい」という言葉は、悔しい思いをした人にだけ、本当の意味でわかる。言葉は、経験に根付いて初めて意味を持つ。経験のない言葉は、どうしても抽象的なままで理解されづらい。
この、言葉が経験に接地して初めて意味を持つという考え方を、認知科学では記号接地と呼ぶ。最近では、AIを教育する際に使われる言葉として、ご存じの方もいるだろう。
要は、転んで初めて「痛い」がわかり、大切な人と別れて初めて「寂しい」がわかる、という当たり前のことだ。言葉を先に知り、その言葉が意味することを、経験によって補完することで、人は学ぶことができる。子どもに「熱いから触っちゃだめ」と百回言うより、一度、少し熱いものに触れさせたほうが、「熱い」の意味が理解される。
職場でも同様なのだけれど、なぜか言葉だけが先行し、意味を理解させるための経験を促す仕組みがない場合が多い。
「クイックウィンを取りに行け」「潜在ニーズを掘り起こせ」「ステークホルダーをマネジメントせよ」。こうした言葉が、経験のない部下に毎日のように投げかけられる。部下は理解したふりをするか、あるいは、理解したと勘違いしているかもしれない。中には言葉を踏まえて学びを深め、行動に移せる人もいるだろう。けれども大半の部下は行動には表すことができない。言葉という記号が、経験という地面に、接地していないからだ。
だとすれば、解決の方向も見えてくる。言葉で指示するとともに、経験する機会を与えることだ。
やってみせる。
一緒にやる。
小さく試させる。
たとえば「お客様の立場に立て」を理解させたいなら、その部下を、クライアントが本音をこぼす場に同席させる。先方の担当者が「実は、上を説得するのが大変で」と漏らすその一言を、部下に直接聞かせる。それだけで、「お客様の立場」という言葉が、急に具体的に理解されるようになる。
育てるとは、教え込むことではない。人が自分で育つための経験を、先回りして用意することだ。
ここで、よくある反論に答えておきたい。「いちいち経験させる時間などない。言って覚えてもらわないと、現場が回らない」。その切実さは、よくわかる。
だが、考えてみてほしい。言葉だけで伝えようとして、半年たっても根付かず、何度も言い直し、最後には「あいつは育たない」と諦める。その総コストと、最初に一度、半日かけて経験の場を用意するコストと、どちらが高いだろうか。
私の見てきたかぎり、たいていは前者のほうが、はるかに高くつく。経験の設計は、遠回りに見えて、最短距離であることが多い。
「教える時間がない」という嘆きの多くは、「教え続ける時間」を、すでに浪費した後で出てくるのだ。
経験の浅い部下は「わかったつもり」になりやすい
問題をさらに複雑にするのは、部下自身が「わかっていない」ことに気づいていない、という事実だ。
「主体性を持って動いてほしい」と言われた部下は、頭の中で「自分から動くことが大切だ」と解釈し、「わかりました」と答える。そこに嘘はないし、本当にわかったと思っているのだろう。しかし「自分から動く」という行動が具体的に理解されているわけではないのだ。何をすれば上司に主体的と見なされるのかが、具体的に見えていない。だから次の月曜も、同じように指示を待つ。本人の中では、ちゃんと「わかった通りに」動いているのだ。
これは能力が低いから起きる問題ではない。シンプルに、自分が何を知らないかを知らないから起きる問題だ。
むしろ、わかった気になりやすいのは、知識が浅い段階の特徴ですらある。少しかじった段階が、いちばん「全体が見えた」気になる。深く学ぶほど、自分の知らなさが見えてくる。これは誰にでも起きる、人間の認知のクセだ。
上司からすれば、わかったと言っているのにわかっていない状況が繰り返されてしまう。
そうして次に同じ問題が起きたとき、上司は「またか」と感じ、部下は「なぜまた怒られるのか」と感じる。
この状態を解消するには、「わかりました」で終わらせないことだ。「じゃあ具体的に何をすればよいか、言葉にしてみよう」と問い返すだけでも問題ない。部下が自分の言葉で説明できれば、理解ができているということだし、口にした言葉が曖昧であれば行動に反映できないということだ。この一言の確認が、数週間後の「なぜ変わらないのか」を防ぐ。
ただし、試すように聞かないようにしよう。それは監視的に感じられてしまうので、「あなたの行動をサポートしたいから確認する」という姿勢で、「念のため、認識を合わせておきたいんだけど」と前置きする。それだけで、部下は試されたとは感じず、むしろ気にかけてもらえたと受け取る。確認は、信頼を壊す行為ではなく、信頼を作る行為になりうる。

ある会社の営業部長にこの方法を伝えたところ、若手の立ち上がりが目に見えて速くなったという連絡を受けた。やり方はシンプルだ。指示を出した後、必ず「今の話、自分の言葉で要約してみて」と返してもらうだけだ。対面でもオンラインでもどちらでも有効だ。
部長の指示に最初、若手たちは戸惑ったらしい。けれども続けるうちに、彼ら自身が、指示を聞きながら「これは後で要約を求められる」と身構え、能動的に意味を掴もうとするようになった。
確認の習慣は、部下の聞き方そのものを変えたのだ。受け身で聞き流す「わかりました」から、自分の言葉に翻訳しながら聞く「わかりました」へ。この変化こそが、言葉を経験に接地させる、最初の入り口になる。
平康慶浩著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)
