世界最高レベルの安全基準を持つ生物学研究所から、病原体の漏出は何度も起きている。ヒューマンエラーは避けられないが、漏出が必ず報告されているわけではない。この状態でウイルスを意図的に操作して改変するのは、核のボタンで遊ぶのと同じだ。『THE COMING WAVE AIを封じ込めよ DeepMind創業者の警告』(ムスタファ・スレイマン、マイケル・バスカー著/上杉隼人訳)から抜粋・再構成してお届けする。
病原体の実験が起こしたパンデミック
世界で最も安全とされるある研究所で、研究者グループが極めて危険な病原体の実験を行っていた。その後何が起こったか、誰にも分からない。今に至るまで、研究の詳細は闇に包まれている。
確かなことは、秘密主義と政府の強い統制で知られる国で、奇妙な新しい病気が発生したことだ。
まもなくイギリス、アメリカほか、世界中にその病気が広まった。不思議なことに、この病気は自然発生したとは思えなかった。この病気に見られる特徴が科学界に警鐘を鳴らし、これが発生した研究室で何かひどくおかしなことが起きたと示唆された。
この病気による死者数はたちまち増加した。世界で最も安全とされるその研究所は、どうやらそんなに安全ではなかったようだ。
どこかで聞いたような話に思えるかもしれないが、おそらくあなたが考えている病気でない。
これは1977年に流行したソ連かぜとして知られるインフルエンザだ。まず中国で発見され、続いてソ連で検出され、たちまち世界に蔓延(まんえん)し、70万人もの死者を出したと言われる。
このH1N1型が異常だったのは、1950年代に流行したインフルエンザに酷似していたことだ。1977年のソ連かぜが若者に重症感染者を多く出したことは、数十年前から生きている人々より当時の若者のほうがこのインフルエンザに対する免疫が弱いためと考えられた。
何が起こったのか、さまざまな説がある。永久凍土から何かが溶け出したのか? それともソ連の謎に包まれた大規模な生物兵器開発計画の一部か? だが、今日、最も信憑(しんぴょう)性が高いのは、ある研究所から漏れ出したという説だ。
研究所でのワクチン製造の実験時に何らかの理由で、1950年代に流行したウイルスが外部に漏れ出したとみられる。ソ連かぜの流行は、実は流行を防ごうとする善意の研究によって引き起こされたのだ。
北京の研究所でSARSは4度漏出した
生物学研究所は事故防止の世界基準に従う。安全性がいちばん高いのは、バイオセーフティーレベル4(BSL-4)の研究所だ。BSL-4の生物学研究所は、最も危険な病原体の取り扱いに関する最高の封じ込め基準を満たしているとされる。
施設は完全に密閉され、実験室の空気が外に漏れ出ないように陰圧になっている。すべての出入りは徹底的にチェックされる。
内部では全員、陽圧式防護服を着用し、退出時に必ずシャワーを浴びる。使用されたものはすべて最も厳格な手順に従って処分される。
手袋や防護服を突き刺す恐れのある鋭利なものは一切持ち込み禁止だ。BSL-4の生物学研究所の研究員は、人類史上最高に安全な生物学的環境を守る高度な訓練を受けている。
にもかかわらず、事故や漏出は避けられない。
1977年のソ連かぜは一例に過ぎない。わずか2年後の1979年にはソ連の秘密の生物兵器製造施設から漏出した炭疽(たんそ)菌芽胞が50キロメートル四方に広がり、少なくとも66人の命を奪った。
2007年には、BSL-4の実験室を備えていたイギリスのパーブライト生物学研究所で排水管の水漏れがあり、口蹄疫(こうていえき)が発生して1億4700万ポンドの損失を出した。
2021年、アメリカのフィラデルフィア近くにある製薬会社の研究所で、天然痘の小瓶が冷凍庫に放置されているのが見つかった。冷凍庫を片付けていた職員が偶然発見し、幸い職員はマスクと手袋を着用していたので大事に至らずにすんだ。これが漏出していたら想像を絶する被害がもたらされただろう。
天然痘は根絶されているが、それまでに20世紀だけでも推定3億人から5億人の命を奪ったのだ。実効再生産数は感染力の高いコロナ変異株と同等だが、致死率は30倍にもなる。
重症急性呼吸器症候群(SARS)のウイルスはBSL-3の施設で保管されることになっているが、シンガポール、台湾、中国のウイルス研究所から漏れ出した。考えられないことだが、北京の同じ研究所から4度も漏出している。
どれもよくあるヒューマンエラーが原因だった。シンガポールでは、SARSウイルスが保管されていることを知らなかった大学院生が漏出させた。台湾では、研究者が感染性廃棄物の取り扱いを誤った。北京では、バイオセーフティーレベルの低い研究所でSARSウイルスを十分に無害化できず、漏出につながった。
以上はすべて、世界最大のBSL-4の研究室を備え、コロナウイルス研究の中心である中国の武漢ウイルス研究所が話題になる前のことだ。
BSL-4の研究所の数は急増しているものの、グローバル・ヘルス・セキュリティ指数によれば、安全性が高いと評価されるのは、そのうちの4分の1に過ぎない。
1975年から2016年まで、感染性が高く有毒な病原体の意図的または偶発的な漏出が少なくとも71件記録されている。ほとんどは、針がすべった、ガラス瓶からこぼした、実験で小さなミスを犯したなど、最高度に訓練された人間も時折起こしてしまう些細(ささい)な事故だ。
だが、すべての漏出が把握されているとは思えない。事故をすぐに外部に報告する研究者がほとんどいないからだ。バイオセーフティー担当者に対するある調査では、担当者のほとんどが、所属機関以外に事故を報告したことはない、と答えている。2014年のアメリカのリスク評価によると、生物学研究所10機関が10年間に「大きな漏出」を犯した可能性は91%で、それがパンデミックとなる恐れは27%とされる。
何も漏出してはならない研究所から、何度も病原体が漏れ出している。最も厳格な管理手順や技術や規制をもってしても、封じ込めに失敗している。
ピペットを持つ手が震えた、プラスチックシートに穴が空いている、靴に溶液がひとしずく落ちた、どれも偶発的に、付随的に発生する具体的な封じ込め失敗例で、残念ながら周期的に起きる。
だが、合成生命の時代において、こうした事故は巨大なストレス要因であるだけでなく、未曽有の大惨事を引き起こす恐れがある。
機能獲得研究は核兵器で遊ぶのと同じ
生物学において、機能獲得研究ほど物議を醸す領域は少ない。機能獲得研究とは、簡単に言えば、病原体を意図的に致死性の高いものに、あるいは感染力の高いものに、またはその両方に変える研究だ。自然界においては通常、感染力と致死性にはトレードオフがある。
一般には感染しやすいウイルスほど、致死性が低くなる。だが、絶対にそうなる理由があるわけではない。どうしてそうなるのか、つまり致死性の高いウイルスが広く伝播(でんぱ)することはあるのか、あるとすればそれに対処するにはどうしたらいいのか。これを突き止めるひとつの方法は、実際に試してみることだ。
そこで機能獲得研究が行われることになる。病原体の潜伏期間はどのくらいか、ワクチン接種による抗体をどのように回避するか、無症状のまま人々の間で感染を広げることはできるかといったことが調査されるのだ。機能獲得研究は、エボラ出血熱、H1N1型インフルエンザ、麻疹(はしか)などを対象として行われてきた。
こうした研究は通常、信用できるし、善意の下で行われる。10年ほど前にオランダとアメリカで実施された鳥インフルエンザの研究が好例だ。鳥インフルエンザの致死率は驚くほど高かったが、感染率は幸運にもかなり低かった。研究者はこの状況がどう変わるのか、形態がどのように変化すると感染力が増すのかを突き止めようと、フェレットを使って実験してみたのだ。つまり、致死性の高い病原体を感染力の高いものにしたのだ。
だが、こうした実験が悪い方向に進む可能性は十分にある。私を含めて何人かの研究者は、このようにウイルスを意図的に操作して改変するのは、核のボタンでいたずらするようなものだ、と感じている。
核弾頭の紛失に匹敵する問題
機能獲得研究は、言うまでもなく物議を醸している。アメリカ政府は機能獲得研究に対する資金提供を一時的に凍結した。だが、ここでも封じ込めが十分に機能せず、2019年に資金提供が再開された。
新型コロナウイルスには遺伝子操作された形跡が見られることに加え、武漢ウイルス研究所の研究実績から、コロナウイルスの分子生物学的特徴に至る状況証拠が次々に挙がっていることから、新型コロナウイルスは特定の研究所から漏出し、パンデミックが発生したのではないかと示唆されている。
アメリカのFBI(連邦捜査局)とエネルギー省はこれが事実と確信するが、CIA(中央情報局)はまだ態度を明らかにしていない。これまでのウイルスの流行と異なり、人獣共通感染症であるという明確な証拠が確認できないため、生物学研究が原因で膨大な人命が奪われ、全世界の社会が麻痺(まひ)し、何兆ドルも失われたと十分に考えられる。2022年末にボストン大学で行われた国立衛生研究所(NIH)の研究では、新型コロナウイルスの致死性の高い株と、感染力の高いオミクロン変異株のスパイクタンパク質を合成する実験が進められた。多くの人が研究を中止すべきだと感じていたにもかかわらず、公的資金が投入され、研究は進められた。
パンデミックは、悪意ある者が新しいテクノロジーを兵器化しようと試みた結果ではない。人類の健康を改善しようとした善良な者の意図しない結果だ。強力なツールの増殖がどのように誤った方向に進むのか、どのような間違いが生じるか、どのような報復効果(リベンジ・エフェクト)が展開するか、テクノロジーが現実と衝突することでどれほど予想も計算もつかない混乱が生じるか、パンデミックは示している。設計・理論段階から離れれば、最善の意図をもって実装しても「封じ込めできないテクノロジー」の主要課題は変わらない。
機能獲得研究は人類の安全を守ることを目的としている。だが、研究が行われるのは、研究所から危険物質が漏出し、パンデミックが起こるような欠陥のある世界だ。武漢で実際に何が起こったかに関係なく、コロナウイルスの機能獲得研究が行われ、ウイルスが漏れ出した可能性があると残念ながら考えられる。いくつもの研究所からウイルスが漏出してきた歴史的な記録を見過ごすわけにはいかない。
機能獲得研究と、研究所からのウイルスの漏出が鮮明に示すのは、来たるべき波によってどれほど恐ろしい報復効果(リベンジ・エフェクト)や不注意による障害がもたらされるかということだ。もし安全基準を半分程度しか満たさない研究所や無計画なバイオハッカーが機能獲得研究に取り組めるようになるなら、悲劇は避けられない。
どんなテクノロジーも威力を増して普及するにつれて、障害発生時の影響も拡大していく。1機の飛行機が墜落すれば、大変な悲劇だ。だが、航空隊が丸ごと墜落すれば、さらに恐ろしいことになる。
再度強調するが、こうしたリスクは悪意から生じるものではない。社会の中核システムに広く取り入れられた、史上最も高性能な最先端テクノロジーから生じる。
研究所からの漏出は意図しない結果の一例である。封じ込め問題の核心であり、原子炉のメルトダウンや核弾頭の紛失に匹敵する問題だ。このような事故によってまた新たな予測不可能なストレス要因が生まれ、システム内にさらに亀裂が生じる。
ムスタファ・スレイマン、マイケル・バスカー著/上杉隼人訳/日本経済新聞出版/2420円(税込み)

