「昭和」が終わって三十数年。あなた自身が「昭和人間」の場合も、身近な「昭和人間」についても、取り扱い方にはちょっとしたコツが必要です。「昭和人間」ならではの持ち味や真価を存分に発揮したりさせたり、インストールされているOSの弱点をカバーしたりするために、有効で安全なトリセツを考えてみましょう。今回は何かと話題の「不適切」について。

 テレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)が人気と話題を集めています。絵に描いたような“昭和人間”の主人公が、昭和61年から現代にタイムスリップ。昭和の価値観に基づいた発言や行動を繰り返して、コンプライアンス意識でがんじがらめになっている現代の人たちと衝突したり戸惑わせたりします。

 昭和人間としては、ドラマを見て激しくうなずきながら大笑いせずにいられません。ただ同時に、微妙な後ろめたさや、たとえば働き方改革にせよコミュニケーションの取り方にせよ、自分の中で「正解」が見つからないモヤモヤも覚えてしまいます。

 このドラマは、けっして「昔はよかった」と言おうとしているわけではないし、昭和の価値観や昭和人間を礼賛しているわけでもありません。令和の時代に生きる私たち昭和人間は、自分たちの感覚と現代の「常識」とのあいだで、どうバランスを取っていけばいいのか。そんな大事な課題を突き付けられていると言えるでしょう。

昭和人間は、自分たちの感覚と現代の「常識」とのあいだにいる(写真:Hiroyoshi Kushino/stock.adobe.com)
昭和人間は、自分たちの感覚と現代の「常識」とのあいだにいる(写真:Hiroyoshi Kushino/stock.adobe.com)
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 「ふてほど」が昭和人間に限らず幅広い世代から注目されているのは、昨今の世の中にあふれている「不適切よばわり」に対して、おそらく多くの人が疑問を覚えているから。もちろん、昭和人間も世の中の変化をすべて否定したいわけではありません。「昔はよかった。今は世知辛い世の中になった」と、息を吐くように言える残念な昭和人間に対しては、心の中で石をぶつけていただいてもかまいません。

 しかし、なんでもかんでも「それは不適切だ」「それはコンプラ的に問題がある」「それは○○ハラスメントだ」と言われると、激しい違和感を覚えてしまいます。その発言が本当に問題があるのかを考えることなく、流行りの価値観に乗っかって「今はそういうのダメなんですよねー」と言える令和の若者と、何の引っかかりもなく「昔はよかった」と言える昭和人間とは、同じ種類のダメさを抱えた似た者同士です。

「お利口さん」にならざるを得ないプレッシャー

 テレビ番組つながりで、少し前に昭和人間の一部(多く?)が「『不適切よばわり』にもほどがある!」と感じたのは、2024年春でレギュラー放送が終了すると発表された「ブラタモリ」(NHK)に対する批判でしょうか。

 ある大学の先生が、番組についてXに〈よい企画だったと思うが、「高齢男性が若い女性に蘊蓄(うんちく)を垂れる」という「マンスプレイニング」の構図が、ずっと気になっていた。次は、女性が男性にこんこんと説教する番組をやったらいいと思う〉と投稿しました。

 ちなみに「マンスプレイニング」とは、強い立場にある男性がおもに女性など弱い立場の人に対して知識を披露したり説教をしたりすること。どんな感想を持つのも、それは番組を見る側の自由です。そして、自分の思ったことをSNSに投稿するのも自由です。いっぽうで、その意見を目にした側が「それは違うんじゃないの?」と疑問を抱いたり、「なんでもかんでも『不適切よばわり』かよ!」と反発を覚えたりするのも自由です。

 もちろん、「よくぞ言ってくれた!」と拍手した人もいるでしょう。「そうかなあ?」と引っかかりを覚えつつも、「今はそう言われちゃうよね」と自分を納得させた人もいるでしょう。どの感想もどの受け止め方も、正誤はないし貴賤(きせん)もありません。

 いろいろな意見が飛び交うのは、大いにけっこうなことです。昭和人間が気にかかるのは、それぞれの意見によって「言いやすさ」の違いがあるところ。「マンスプレイニングだ!」といった意見に対して、「私も前からそう思っていた」と賛意を表明するのは簡単ですが、「自分はそうは思わない」と異を唱えるのはちょっと勇気がいります。今回の件では実名で異論を表明している方の記事もちらほら目にしましたが、そういう意見をメディアが取り上げたのは、もしかしたら「ふてほど」効果かもしれません。

 令和が抱えているもっとも深刻な問題点は、誰もが「お利口さん」にならざるを得ないプレッシャーがまん延しているところにあると言えるでしょう。ネットやSNSが発達して、お互いに鵜の目鷹の目で「批判できる対象」を探し合っている状況では、「ちょっとぐらい不適切でもいいじゃないか」「多少はお互い様なんじゃないの」といった意見を表明すると、どこから攻撃の矢が飛んでくるかわかりません。

 結果として、無難な“正論”ばかりがあふれることになり、たとえそれに違和感を覚えてもほとんどの人は口をつぐんでしまいます。それはSNSやネットだけでなく、実生活でも同じ。後ろ指を指されることを気にして、コンプライアンス様のご意向を従順に受け入れている傾向は、誰の心の中にもあるのではないでしょうか。

 そんなことばっかりやっていると、自分で考えることをやめて、世の中の風向きに合わせて出した結論こそが「自分の考え」だと思ってしまいそうです。お見受けしたところ、その時々の風向きを内面化している人は少なくありません。令和においては、そう思い込めることこそが、出世するビジネスパーソンの必須条件になっている節があります。

「髪切ったんだね」は本当にセクハラか

 世の中全体をトータルに見れば、昭和よりも令和のほうが多くの人にとって「快適な社会」になっていると言っていいでしょう。理不尽さの少ない社会と言ってもいいかもしれません。個人的な事情を加味すれば、そうは言えない人もいるでしょうけど。

 せっかくの変化を台無しにしないためにも、「行き過ぎでは?」と感じる部分については、昔の良さもダメさも知っている昭和人間が、積極的に疑問を呈していきたいところ。クラスの風紀委員みたいな人(これも昭和な例え?)の声ばかりが大きく響いて、おかげで“校則”がどんどん細かく厳しくなっていく状況は、明らかに健全ではありません。

「髪切ったんだね。似合うよ」

「仕事で一人前になりたなら若いうちに頑張らなくてどうするんだ」

 これらのセリフをセクハラやパワハラだと言いたい人は、本気でそう思っているのでしょうか。世間の風潮に合わせて、わかりやすい「不適切」を叩くことで、「自分は正しい側ですよ。責めないでください」と言いたいだけではないでしょうか。その昔、世間の“常識”に異を唱える人に「非国民」というレッテルを貼った善男善女のように。

 そりゃ、髪型や仕事への取り組み方をあれこれ言われたら、不快に感じることもあるでしょう。人と人との関係において、たまにマイナスの感情が芽生えるのは仕方ありません。言った側の昭和人間だって、若者の言葉によって傷つくことはままあります。

 そんなときは「このオヤジ、しょうがないな」と、心の中で苦笑いなり舌打ちなりをすればいいだけの話。露骨にムッとして不快感を示してもいいでしょう。自分でカタを付けられないからといって、「コンプラの威を借る被害者」になるのはいかがなものでしょうか。そんなズルをする癖がついたら、どんどん人間関係が苦手になりそうです。

 なんて言うと「権力勾配が」といった専門用語を持ち出してきたり、極端なケースを想定して「こういう場合も同じことが言えるのか」と詰め寄ってきたりする人がいるかもしれません。こちらが何を言いたいかはさておき、とにかく「不適切よばわり」しないと満足できないわけですね。その姿勢は十分に尊重しつつ、他山の石とさせていただきます。

 あれやれこれやと暴論にも“ほどがある”主張で、たいへん失礼いたしました。

昭和人間(自分を含む)との付き合い上の注意――今回のポイント
  • 行き過ぎだと感じる「不適切よばわり」には異を唱えよう
  • 「コンプラの威を借る被害者」になるのはちょっとズルい
  • ドラマ「不適切にもほどがある!」は面白くてためになる

文/石原壮一郎