長時間労働や上司の理不尽な叱責も鳴りを潜め、すっかり様相の変わった令和の職場。ただ、昭和人間の一部は「これでいいの?」と少しばかり違和感を覚えずにはいられません。ややこしくもデリケートな昭和人間の生態を描いた新刊 『昭和人間のトリセツ』 著者の石原壮一郎さんに伺いました。

「がむしゃらに働く」という昭和人間の原体験

 「24時間戦えますか」。栄養ドリンク「リゲイン」のCMで使われたこのフレーズが流行したのは、バブル絶頂期で昭和の価値観が色濃く残っていた平成元年。CMソングも大ヒットし、「24時間戦えますか」は、当時の流行語大賞で銅賞を受賞しました。

 働き方改革なんて言葉もまだない時代に、昼夜問わず働く日本のビジネスマンを鼓舞する応援歌でしたが、令和の今、「24時間戦えますか」と後輩や部下に問いかけようものなら、即「ブラック」職場、パワハラ上司として認定されかねません。

 いや、当時もさすがに毎日そんな働き方をしていたわけではありませんが、オフィス街のビルには毎晩遅くまで明かりが灯り、私のいた雑誌業界でも締め切り間近になると徹夜で作業をしたり、深夜22時以降に会議や打ち合わせをしたりする光景も珍しいものではありませんでした。

 時が流れ、昨今では就業時間内に会議を終えるのが当たり前。職場環境が健全になり、さまざまな事情を抱えた人たちが働きやすくなったことは素晴らしいことです。ただ、昭和人間の一人として、令和の職場事情を見るとなんだか少しばかり違和感を覚えてしまうのも否定できないところです。

 前期・後期ともに、多くの昭和人間は、「猛烈に働く時期」を経ている世代です。そのなかで達成感や喜びを味わい、成功体験を積んできた人も少なくないでしょう。失敗もたくさんしたけれど、がむしゃらに頑張った経験が、その後の自分を支える財産になっていたりします。

 その目線で、今の働き方を見ていると、「これでいいのか」と思ってしまうのが正直なところ。なかには、もっと仕事をしたい人もいるのではないかなと思うのです。時には、「この仕事は徹夜をしてでもやり遂げたい」「今が頑張り時だから納得するまで突き詰めたい」など、それぞれの事情だってあるはず。それなのに、「そのやり方は間違っている」「今はそういう時代じゃない」と一律に禁じて、働きたい人が声を上げづらい風潮には、なんだか違和感を覚えてしまいます。

 もちろん昭和の働き方を賞賛するわけでも、令和に持ち込むべきと言うつもりも全くありません。ただ、「若いうちに猛烈に働くことの大切さ」を実感している昭和人間としては、若い人に対して「今、頑張らないともったいないよ」とつい余計なアドバイスをしたくなってしまうところがあります。

「理不尽に対処する力」が失われやすい時代

 昔は、目上の人や上司の言うことは絶対でしたから、大半の人が、大なり小なり理不尽な経験をしてきているのではないかと思います。私自身、せっかく書いた原稿が上司の「やり直し」の一言でゴミ箱に捨てられ、情けない気持ちでいっぱいになったこともありました。まあ、それは理不尽というより、力不足の自分に対する愛のムチだったわけですが。

「昭和人間の大半は、大なり小なり理不尽な経験をしてきていると思います」
「昭和人間の大半は、大なり小なり理不尽な経験をしてきていると思います」
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 現代では、上司の側もパワハラ認定されないように、発言には細心の注意を払い、部下にミスを指摘するのも一苦労だと聞きます。ただ、正直言って、少々過保護ではないか? と感じてしまうのも事実です。

 生きている以上、さまざまな理不尽は降りかかるもの。それらをすべて避けて歩いていくことはできません。でこぼこ道を回避し、整備された道だけを突き進んでいると、「理不尽に対応する力」がどんどんなくなっていく気がするのです。荒波の海を泳いでいると、丸太や岩、木の枝などの障害物が流れてくるけれど、それらをあらかじめ排除してもらってばかりいると、いざというときにどうしていいか分からずに溺れてしまう。果たしてそれで、向こう岸にたどり着けるのだろうかと心配になります。

 若い世代を見ていて感じるのは、失敗を受け止めるのが苦手なのでは、ということです。うまくいかないと、周りや環境のせいにして殻に閉じこもってしまう。アドバイスをしようにもパワハラだと誤解されても困るし、言葉選びにも気を使います。一方、何も言わずにいると、「教えてくれなかった」「見てもらえていない」と思われてしまう。実際、後輩や部下と接している昭和人間たちからは、そんな声も聞こえてきます。

仕事は教えてもらえないのが当たり前だった

 もちろん若者だけを責めているつもりはありません。環境の問題もあれば、職場の年長者である昭和人間側の問題も大いにあると思います。

 例えば、今と昔では、失敗に対する世の中の許容度が違います。昔は、「若手にはどんどん失敗させろ」くらいの空気があって、失敗しても比較的おおらかに受け止めてもらえたし、「次」の機会がちゃんとあった。だからこそ恐れずにバッターボックスに立つことができました。

 私がまだ駆け出しの編集者だった頃の話です。上司の命令で、多摩川グラウンドに巨人の選手の取材に行きました。今考えれば、自分から挨拶をして取材を進めるべきだったのですが、新人で勝手が分からず、遠くから練習風景を見ていたら、いつのまにか選手が帰ってしまった。取材しに行ったはずなのに、これでは一体何をしに行ったのか分かりませんよね。とんだ大失態です。でも、それで評価が下がったり、その後仕事を任せてもらえなかったりすることもなかったのです。おおらかなものでした。

 そもそも考えてみると、きちんと仕事のやり方を指導されたことがありません。一定以上の年代の昭和人間にとって、「仕事は教わるものではなく、先輩のやり方を見て自ら盗むもの」という感覚があるのではないでしょうか。「背中を見て学べ」という風潮も残っていました。一概には言えませんが、決して手取り足取り教えてもらえるような環境ではなかったはずです。

注意されたくない若者と注意できない中高年

 上司や先輩から厳しい洗礼を受け、時に理不尽なことにも耐えてきた昭和人間。上司に叱責されると、当時は、「気分に任せて怒っているのでは?」などと思ったこともありましたが、いざ自分が指導する年代になって、部下や後輩を注意するという行為が、実はものすごくエネルギーが必要なのだと痛感しました。

 振り返って今、我々昭和人間は、その役割を果たすことができているでしょうか。自分が「悪者」になることを恐れ、及び腰になってはいないでしょうか。現代の風潮に対して、釈然としないものを感じながらも、じゃあどうすればいいのかと提案をしたり、きちんと向き合わないまま、話が通じるところだけで愚痴を言ったりしているだけでは、あまり格好のいいものではありません。

 一方で、若者は「昭和の感覚は悪」とばかり、アドバイスに耳をふさぐ。注意されたくない若者と、注意することができない現代の中高年。このままでは、世代間の断絶が進んでしまい、日本の将来は大丈夫だろうかと不安になります。どうすればうまくやっていけるのか。年長者である昭和人間には、時代のせいばかりにせず、その答えを見つけていく責任があると思うのです。

構成/西尾英子 写真/鈴木愛子

日経プレミアシリーズ『 昭和人間のトリセツ
ややこしくもデリケートな「昭和生まれ」の深淵に切り込む本邦初? の書籍

なぜ10年前の出来事を最近のことのように語ってしまうのか? LINEが無意味に長文になる理由は? ――仕事観やジェンダー観など多様な切り口から「昭和生まれの人間」の不可解な生態に肉薄し、その恥部をも詳らかにする日本初の書籍。「【注】知っておかなくても構わない昭和・平成用語集」も収録。

石原壮一郎著/日本経済新聞出版/990円(税込み)