50代のときに「いい人間関係」を持っていた人ほど80歳でも健康で、特にパートナーと共に幸せを感じていた人は「精神的に幸せ」と答えたという調査結果があるそうです。健康社会学者・河合薫さんの新刊『「老害」と呼ばれたくない私たち』より抜粋します。

幸せの3つのボールとは

 「境界(boundaries)」という概念がある。

 これは「人生においてその人が主観的に重要と考える領域」のこと。私たちは境界の内側に「自分の人生にとって大切なもの」があるからこそ、いかなる困難や苦悩にも立ち向かい、最善を尽くすことができる。大切なものが境界内にちゃんとあることで、生きるエネルギーが満たされ、幸せへの力を高められるのだ。

 境界に何が含まれるかは人それぞれだが、一つだけ条件がある。「身近な人とのつながり(家族・友人)、社会とのつながり(仕事・ボランティア)、生命の尊さ(健康)」の3つの要因がすべて満たされていることだ。わかりやすく言い換えると、私たちは「家庭」「仕事」「健康」という3つの幸せのボールを持ち、どのボールも決して落とすことなく、ジャグリングのように回し続けてこそ、豊かな人生、幸せな人生が実現する。

 ところが、特に中高年のビジネスパーソンは、仕事に没頭するあまり、家庭や健康のボールを回すのを忘れがちだ。家庭や健康のボールがあることさえ忘れ、仕事のボールばかりを追い求める。

 セカンドキャリアという選択肢が広がる今だからこそ、仕事以外の人生を豊かにすべきときに、かえって仕事に翻弄されてしまうのだ。

 「早期退職し、妻の実家がある地方に移住し、個人事業主としてやっていくつもりです。ところが、今になって本当にこの道でいいのか? と迷いが尽きない。実は私、20代の時は某制作会社で番組のディレクターをやっていたんです。そのときフリーのディレクターが、同じ仕事をやってるのに自分より高いギャラをもらってると知り、フリーになった。ところが、30代後半になってもギャラが上がらないので、安定した方がいいからって今の会社に中途採用で入りました。結局、私は会社から逃げ、フリーから逃げ、再び、会社から逃げようとしてるだけなのかもしれません」

――廣瀬さん(仮名)55歳

 廣瀬さん(仮名)は「仕事」のボールは回し続けているけど、家庭や健康のボールの大切さにまだ気づいていない。「自分の内面」の欲求や葛藤は話してくれたが、半径3メートル世界の人の話は「妻の実家がある地方」というフレーズ以外語ることはなかった。

 もし彼が、家庭や健康の価値に気づくことができれば、これから始まる新しい生活をもっと前向きに捉えられたに違いない。また、逆に、新たな一歩(早期退職・地方移住・個人事業主)を踏み出せさえすれば、今の迷いや不安は消えるであろう。目の前の霧が晴れるように。

考えずに動いた方がいい場合も

 会社という組織の中では「考えて動く」が基本だが、セカンドキャリアはむしろ深く考えずに動いた方がいい場合もある。思い立ったが吉日。「イチ、ニのサーン」で飛び込むが勝ちだ。

 私はこれまで、「本当にこれでいいのか」と惑いつつも、とりあえず踏み出した人たちを見てきた。彼らはみな、過去の迷っていた姿と別人のように生き生きとしていた。誰一人、自分の選択を後悔している人はいなかった。新天地で彼らが本当に価値あるものと気づいたのは、他者とのつながりだった。新しい出会いはもちろんのこと、古巣の人間関係も決しておろそかにしていなかった。

 「転職先で歓迎されるなんて思ってもみなかったのに、新歓をやってくれたんですよ」
 「最初からヘマやっちゃいましてね、でも、妻が笑い飛ばしてくれて。なんか楽になった」
 「ちょっとしんどい時期に、前職の上司から『そろそろ飲み行くか?』とだけ書いたメールが届いて、どれほど支えになったか」――。

 「私」たちは案外気づいていないけど、「私」は自分が決めたことなら何が起ころうとも、「私の運命」と引き受ける強さを備えている。そのためには伴走者がいた方がいいに決まっている。そうしているうちに、身近な人とのつながり(家族・友人)=家庭のボールを回し続けることの大切さがわかっていくのだ。

 そんな中、家庭や健康という人生のボールを回し続けることの重要性を、身をもって知った人物がいる。58歳の中島さん(仮名)だ。彼はいつもどおり残業をし、行きつけの飲み屋で同僚と一杯やって帰宅した翌朝、激しい頭痛に襲われ病院に運ばれた。医師には「一歩間違えば死んでいた」と言われたという。

 「脳梗塞でした。当時は人間関係や仕事の評価などでストレスがたまっていて、暴飲暴食と睡眠不足が続いていたんです。今思えばたいしたことではないのだけど、年下にどんどん追い越されるのはしんどかった。3カ月入院して家族の存在がありがたかったし、自分がこれまで顧みてなかったことを反省しました。自分というリソースが物理的に有限で、もっと大切にしなきゃと思ったし、もっと勉強したいと思いました」

――中島さん(仮名)58歳

 私たちは健康的で、家族や友人、知人など「人とのつながり」に支えられた心豊かな人生を望んでいる。しかし、つい目の前の成果や名声に心を奪われ、本当に大切なものを見失ってしまいがちだ。そして、それらを失ったとき、初めてそのありがたみに気づく。人間とは、そんな悲しい性を持つ生き物なのだ。

半径3メートル以内の人間関係の大切さ

 「健康で幸福な人生に本当に大切なもの」を見つけることを目的に、1938年から80年以上にわたり追跡調査し続けている、ハーバード・メディカル・スクールの「グラント・スタディ(Harvard Study of Adult Development)」が明かしたのも、「私たちを幸せにするのは人間関係に尽きる」というシンプルな幸福の方程式だった。

 1972年から約40年間、研究の指揮をしてきたジョージ・バイラント教授は「幸せとは愛。以上!(Happiness is love. Full stop.)」とたった5つの単語で幸福な人生の方程式を表し、現責任者ロバート・ウォールディンガー氏らは、「健康で幸せな生活を送るには、よい人間関係が必要だ(The good life is built with good relationships.)」と研究を結論づけた。

 遺伝でもなければ出身家庭でもない、おカネでもなければ社会的成功でもない。幸せな人生の鍵は「自分の生活世界=半径3メートル世界の人々との関係性」にあった。「家族や友人、会社や趣味の仲間たちとつながりを持っている人」は健康で長生きで、経済的にも成功していたのだ。

 「身近な人たちといい関係にある人」は生活の満足度が高く、「いざというときに頼れる人がいる」という人は、幸福感が高く、脳も元気で、記憶をいつまでも鮮明に持ち続けた。

 50代のときに「いい人間関係」を持っていた人ほど、80歳でも健康だった。特にパートナーと共に幸せを感じていた人は、80代になって身体的な問題を抱えていても、「精神的には幸せ」と答えたという。

50代の頃の「いい人間関係」は80代になってからの健康や幸福にもつながっているようだ(写真:Bambi and Sunny/stock.adobe.com)
50代の頃の「いい人間関係」は80代になってからの健康や幸福にもつながっているようだ(写真:Bambi and Sunny/stock.adobe.com)

 幸せへの力は、「半径3メートル世界の他者との質のいい関係」があってこそ引き出される力だ。なぜなら、私たちが自分のものだと信じている知識や能力でさえ、他者が深く関係しているからだ。精神的・肉体的な健康も、「私」一人だけで実現できるものではない。

 人間関係はとかく面倒臭いし、「この年になってまで苦手な人と関わるの、意味ある?」などと思う人もいるかもしれない。

 しかし、「質のいい人間関係を築く=友達になる」でもなければ、「=親密になる」でもない。ただただ「敬意と共感と信頼」を示すだけでいい。「おはよう」「ありがとう」「ごめんなさい」「ご苦労さま」と声にするだけで十分だ。

 人間関係がもたらすプラスの力は、人間関係を築こうとするプロセス自体とも関連しているのだ。

何者にもなれない40代、〝ただのおじさん・おばさん〟扱いされる50代、いるだけで老害扱いの60代——令和を生きる「新世代型中高年」はなぜこんなにしんどいのか? 無意識に私たちを縛る「いい大人」の呪縛から離れ、自分自身の心の土台を再構築することで、人生後半を前向きに働くためのヒントを紹介します。

河合薫著/日本経済新聞出版/1760円(税込)