江戸文化研究家の田中優子さんが選ぶ「江戸と江戸時代を深く知るための本」。4冊目は、『「鎖国」という外交』。江戸時代は、朝鮮通信使や琉球使節、東インド会社などを通じて世界中の文化が流入し、庶民レベルでの交流も盛んに行われていました。「鎖国」というイメージとはほど遠かったことを論証します。
江戸時代は本当に「鎖国」していたのか
江戸時代といえば鎖国、というイメージは相変わらず根強いと思います。国を閉ざしたからこそ独自の文化が栄え、同時に西洋から大幅に立ち遅れた、と語られることは少なくありません。
しかし、それは大きな間違いです。例えば、私は江戸時代の着物について調べていますが、実はインドとの関係が非常に深かったことが分かっています。他にも、さまざまなモノや文化が、アジアと西欧から多大な影響を受けていた。そういう痕跡は数多く残されています。その関係性に着目すれば、当時の日本についてより深く理解できるはずです。
ところが、「江戸時代は閉じていた」という前提に立ってしまうと、そこで思考が止まります。実際、当時の諸外国との関わりについての研究は多くありません。これは大変残念な話だと思います。
その風潮に一石を投じてくれたのが、『 「鎖国」という外交 』(ロナルド・トビ著/小学館)です。当時の日本は決して鎖国状態ではなく、むしろ一定の制限下で積極的な外交を行っていたことを論証しています。全16巻の全集「日本の歴史」の1冊に加えられたのですが、そのこと自体が画期的でしょう。
「朝鮮通信使」が日本にもたらしたもの
著者のロナルド・トビさんはアメリカの歴史学者で、ご専門は日本や東アジアの近世・近代史。この本は、特に朝鮮国王が徳川幕府に派遣した使節団「朝鮮通信使」の記述に重点を置いています。
彼らは計12回訪れていますが、双方の政治的意図はともかく、興味深いのはその道中です。海路で対馬・壱岐を経由して瀬戸内海に入ると、大坂から淀川を北上して京都に入り、そこから陸路(東海道)で江戸を目指しました。また、独立国だった琉球の国王も、計18回にわたって幕府に「琉球使節」を派遣していますが、やはり同じようなルートで江戸に入っています。
朝鮮通信使一行の総勢は300~500人だったとのこと。もちろん、今と違って何日もかかるので、先々で宿泊する必要があります。その場で少なからぬ日本人と交流していたことは間違いありません。彼らは当時の中国王朝である清朝と朝貢外交をする関係にあり、北京から贈られたり交易によって得たりした文物を日本にもたらすことが可能でした。つまり日本人は、庶民のレベルで朝鮮人や琉球人と接触し、彼らを通じて大国中国の文明にも触れていたわけです。
また、外交ではありませんが、長崎の出島にオランダ東インド会社の商館があったことは有名です。ただし、彼らは出島にとどまらず、毎年のように江戸まで来ていました。その一行のなかには、ドイツ人やノルウェー人も混じっていた。やはり道中では、日本人と交わる機会があったはずです。
東南アジア各地に拠点を持つ彼らは、日本が支払う銀と引き換えに、ヨーロッパをはじめインド、東南アジア、それに中国などの多様な物品を日本にもたらしました。さながら当時の総合商社であるとともに、国際運送業者でもありました。彼らのおかげで、日本には少なからぬ“輸入品”が存在していたわけです。その貿易の規模を考えれば、とても「鎖国」と呼べる状態ではありませんでした。
民間主導で進められた「国産化」
ただし、輸入品をそのまま売ったわけではありません。第3回「 田中優子 親切で明るく好奇心旺盛 外国人が驚嘆した江戸文明 」でも申し上げましたが、当時は、海外の技術を拝借して、日本人の生活や文化になじむように作り替えるのが常でした。つまり、国産化を進めたのです。これには、輸入が増えて国内の銀が不足したという事情もあります。
その典型が、最大の輸入品だった生糸です。朝鮮半島から輸入していましたが、供給が減っても需要は旺盛だったので、必然的に値段が上がります。それほど高く売れるのならと、各地の農民が生産を始めました。やがて品質は向上し、生産量も増え、明治以降は日本を代表する輸出品に成長します。その状態は第2次世界大戦直前まで続き、日本の殖産興業を支えました。
また、朝鮮人参や砂糖、陶磁器、ガラス製品、スペイン製の金唐革(きんからかわ)を模した金唐紙(きんからかみ)なども同様。それぞれ海外の技術に独自の工夫を加えて付加価値の高い製品に仕上げ、やがて輸出品にまで成長させました。いずれも主な作り手となったのは農村の女性たち。つまり当時の農村は、農業とともに工業も担っていたわけです。
ちなみに本書では触れていませんが、当時の日本の技術力を示すものに和時計があります。時計そのものは、戦国時代にヨーロッパから伝わったといわれています。徳川家康もスペインから寄贈されています。しかし、日本の時刻制度は太陽に合わせて日中を6等分する「不定時法」だったため、夏と冬とでは単位時間の長さが違いました。つまり、ヨーロッパの「定時法」による時計は、そのままでは使えませんでした。
同じ不定時法だった中国では、ヨーロッパから時計が入ってきても使われませんでした。しかし、日本では、中の歯車を改造して使えるようにしました。それが和時計です。この技術は、やがてからくり人形や回り舞台の装置にも応用されていきました。
国産化の流れは8代将軍・徳川吉宗の登場によって加速します。いわゆる「漢訳洋書輸入の禁の緩和」を推し進め、農学や医学、天文学、暦学などの知識・技術が日本にもたらされました。これにより、例えば朝鮮人参の人工栽培は幕府主導型で成功しています。
その多くは民間主導でした。例えば有名な『解体新書』にしても、オランダ語の原本を買ったのは小浜藩ですが、それを懇願したのは藩医の杉田玄白で、前野良沢など他の共訳者は別の藩の医師・蘭学者でした。彼らは藩命ではなく、自らの意思で翻訳したわけです。
言い換えるなら、民間のレベルで外国の文化や技術に刺激を受け、自分たちの血肉にしようと奮闘した人が少なからずいたということです。本書から、こうした日本人のたくましさを読み取ることができるでしょう。
朝鮮半島との関係を見つめ直すきっかけに
もう一つ、この本を通じて分かるのは、朝鮮半島と日本との関係の重要性です。江戸時代に限らず、太古から政治経済でも文化でも、善かれあしかれ影響し合ってきました。ところが近代になると、周知の通り関係性が大きく変化しました。私たちは、江戸時代までの歴史を振り返りつつ、その後の経緯について改めて検証してみる必要があるのではないでしょうか。
そして、本書の最終章は、日本のシンボルである富士山を外国人はどう見ていたか、またその評価を日本人はどう捉えていたかという、非常にユニークな論考で締めくくられています。このあたりの視点は、外国人研究者ならではでしょう。これはそのまま、今日の外国人の日本観、日本人の世界観にも通じるような気がします。
取材・文/島田栄昭 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝