江戸文化研究家の田中優子さんが選ぶ「江戸と江戸時代を深く知るための本」。5冊目は『伝統都市・江戸』。100万都市・江戸の秩序を支えたのは、町奉行-町年寄-町名主からなる、町単位の高度な自治でした。町名主は、時には町の中のもめごとの調停も行い、裁判所の機能も担っていました。
城下町から見える江戸の名残
日本の各地には、今でも城下町が残っています。城が都市のシンボルになっていたり、城自体はなくても城址公園になっていたり、江戸城のように天守閣はなくても立派な櫓(やぐら)や門や城壁は残っていたり。パターンはさまざまですが、かつてそこに城があった痕跡はすぐに分かります。日本の場合、城があれば、そこにはたいていお堀があります。海外の城は城壁で守る発想なので、お堀はありません。また、城があってお堀があると、道路も昔を踏襲して敷かれていることが少なくありません。
つまり、城下町の構造が今日まで残っている都市が多いわけです。敷衍(ふえん)して言えば、江戸的な都市構造が全国に波及し、また時代を超えて今日まで影響を及ぼしているということでもあります。
では、そもそも江戸の城下町とはどういうものだったのか。どのようにつくられて、全国に広がったのか。それを専門的に説明してくれるのが、『 伝統都市・江戸 』(吉田伸之著/東京大学出版会)です。論文を再構成した専門書なので難しい部分もありますが、江戸時代の社会を深く知る上で欠かせない視点を提供してくれます。
町単位の自治が成り立っていた
本書は大きく3部構成で、「第Ⅰ部 城下町論」でその地理的・物理的構造について述べた後、「第Ⅱ部 名主と役」では行政のあり方について論じています。
江戸の行政を担ったのは南北の町奉行所ですが、100万都市でありながら、奉行所の役人の数は合わせて300人に満たなかったそうです。では、どうやって切り盛りしていたかといえば、町奉行の下に町年寄と呼ばれる世襲の役人がいて、さらにその下に町名主と呼ばれる役職者がいたらしい。
特に本書が着目しているのは、町名主です。当初はそれぞれの町に専業で1人ずつ、やがて複数の町を1人が束ねる形で存在し、例えば町内のもめごとの調停を担っていました。さながら地域の簡易裁判所のような役割を負っていたわけです。ちなみに、場所は町名主の屋敷の玄関が使われるので、「玄関裁き」という言い方をします。それでも解決できなければ、当事者とともに町奉行に届け出る仕組みでした。また、町触(まちぶれ)という町奉行からの通達を町に伝えることも、彼らの役割です。
また、町名主の下には、家主や家守、大家と呼ばれる、文字通り地域の家のオーナーたちによる自治の仕組みもありました。彼らは交代で自身番(じしんばん)に詰め、町を守っていました。
つまり、当時の江戸は、町単位の自治で成り立っていました。もともと農村は地域の名主を中心に運営されていましたが、都市部もまた同じような構造を持っていたわけです。それによって、江戸全体の秩序や治安はおおむね保たれていました。こういう都市は、他にあまり例がないと思います。
「熈代勝覧」からビジネスを読み解く
そして「第Ⅲ部 問屋と商人」は、当時の商売についての論考です。ここでまず参照されるのが「熈代勝覧(きだいしょうらん)」。随一の問屋街だった日本橋の大通りを、長さ12メートル以上にわたって描いた壮大な絵巻物です。1805年ごろの様子らしいのですが、作者は不明です。
そこには、三井越後屋の本店をはじめ、無数の問屋や商店、行き交う人々が描かれています。本書では、そのうちいくつかの部分を取り上げて、それぞれ何を売っていたのか、どういう商いをしていたのかを専門的な見地から考察しています。「熈代勝覧」をより深く楽しむ上でも、また、当時の経済の心臓部の息遣いを感じる上でも、一級の資料だと思います。
ところで、「熈代勝覧」は1999年に突然、ドイツのベルリンで発見されました。通りの片側しか描かれていないのは不自然なので、もしかしたら反対側を描いた絵巻物もどこかに存在しているかもしれません。
浮世絵が象徴的ですが、実は江戸時代の絵画などは、やはりヨーロッパで見つかって博物館などに所蔵されていることが少なくないのです。理由は単純で、なんらかの形で日本に来た彼らが買って持ち帰ったから。逆に言えば、当時の日本人が彼らに二束三文で売り払ってしまったということです。
したがって、まだどこかに埋もれている貴重な絵画などが、これからひょっこり発見される可能性は大きいと思います。あるいは日本の国会図書館の中にさえ、日の目を見ていない史料がたくさんあります。リストは作成されているので存在は分かっているのですが、専門家はまだ目を通していません。江戸時代に限った話ではありませんが、その意味で歴史の研究とは常に古いようで新しいわけです。
ただいずれにせよ、発見して紹介するだけでは専門家の仕事とは言えません。それを専門的な見地から解釈し、歴史の解像度を高めたり、もしくは歴史に新しい光を当てたりするまでが仕事。その観点で言えば、この本は専門的な知見に満ちています。その“すごみ”のようなものを感じてみるのも一興ではないでしょうか。
取材・文/島田栄昭 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝