2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」の主人公・蔦屋重三郎(蔦重)。蔦重が活躍した背景には、田沼意次(おきつぐ)の存在がありました。禄高(ろくだか)600石の旗本から一代で、田沼時代を築き上げることができたのはなぜだったのか、『田沼意次 汚名を着せられた改革者』(日経ビジネス人文庫)、『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)著者で歴史家の安藤優一郎さんに聞きました。

1回目 「 リスクヘッジもばっちり 手堅い経営者 蔦屋重三郎の素顔 」から読む

蔦屋重三郎(蔦重)が活躍した田沼時代の立役者、田沼意次(おきつぐ)は大名でもない600石の旗本の生まれでした。なぜ、このような力を持つことができたのでしょうか?

 田沼意次の父・意行(おきゆき)は浪人でしたが、徳川吉宗が越前・葛野藩主だった頃に召し出され、仕えるようになります。その後、紀州藩主となっていた吉宗の兄の綱教(つなのり)、頼職(よりもと)が相次いで死去、吉宗が紀州藩主となり、意行も吉宗の身辺の警護にあたる奥小姓(おくこしょう)となります。

 幕府の将軍は家綱、綱吉、家宣、家継と3代将軍家光の子孫が継いでいましたが、家継が8歳で死去、家光の子孫が絶えます。その結果、紀州藩主だった吉宗が8代将軍となります。意行も紀州藩士から幕臣(直参旗本)に転じ、将軍の小姓、さらに食事や衣食住など身辺の世話係の責任者・小納戸頭取(こなんどとうどり)に抜てきされます。禄高(ろくだか)600石の旗本でしたが、位階は従五位下 主殿頭(とのものかみ)と、数万石クラスの大名と同等の待遇を受けるまでになりました。

部屋住みの立場にして次期将軍の側近に

 意次が江戸で生まれたのは意行が旗本となってから3年後の1719年。田沼家は紀州藩士としても幕臣としても「新参者」でしたが意次は16歳で、吉宗の子で次期将軍(世子=せいし)家重の小姓となります。これは父・意行への吉宗の信頼のたまもので、家督を継ぐどころか、元服すらしていない部屋住みの立場にして、次期将軍の側近くに仕えるという順風満帆のキャリアを歩み始めます。意行はその後、間もなく亡くなりますが、意次の立場が揺らぐことはなく、19歳で従五位下主殿頭という父と同じ官位・官職になります。

 1745(延享2)年、吉宗は将軍職を家重に譲り、意次は引き続き家重の小姓を務め、2年後に御側御用取次(おそばごようとりつぎ)見習、その後「見習」の文字が取れ、御側御用取次となります。御側御用取次は、吉宗が将軍となった時に設置された役職で将軍側近の筆頭格。それまでは大名が務める側用人(そばようにん)が筆頭格でした。

 5代将軍綱吉、家宣、家継の時代は側用人が権勢を振るいましたが、吉宗は側用人を廃止します(のち復活するが常に設置される役職ではなくなる)。代わりに設けられたのが、御側御用取次でした。旗本が就くこともある役職ではありますが、何せ将軍の側近中の側近、はるかに格上のはずの老中からの上申を、将軍に取り次ぐ際に、自身の意見を伝えたり、取次を拒否したりすることさえあったといいます。

仕事ぶりはどうだったのでしょう?

 家重は病弱で言語不明瞭なところがあり、唯一、彼が言っていることを理解できたのが大岡忠光だったといわれています。家重が信頼し、コミュニケーションを取ることができる家臣は少なく、そんななかで家重が意次へ寄せる信頼は忠光とともに非常に厚かったようです。

 この頃、美濃・郡上(ぐじょう)藩で起こった百姓一揆がきっかけとなって、老中や若年寄、大目付など幕府首脳を巻き込んだ一大疑獄事件が発覚します。家重は意次を、この事件について幕府の評定所で行う吟味に加わるよう命じます。通常、評定所とは幕府の三奉行(寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行)や、大きな事件の場合は大目付や目付が参加するもので、御側御用取次である意次が出る幕はありません。
 家重がいかにこの事件を深刻にとらえていたかも分かりますし、意次への信任の厚さがうかがえます。ここで意次は見事な活躍をし、さらに注目を集めることになります。

 藤田覚氏の『 田沼意次-御不審を蒙ること、身に覚えなし 』(ミネルヴァ書房)にも書かれていますが、この時の吟味書類からも、意次の優れた事務処理能力や判断力、人を使う力量などの才能がよく分かります。1758(宝暦8)年、意次は評定所への出座を契機に、5000石を加増され、遠江・相良(さがら)1万石の大名となります。

相良藩主時代の田沼意次 (提供:牧之原市史料館)
相良藩主時代の田沼意次 (提供:牧之原市史料館)

「表」と「奥」の壁を超え、老中と側用人を兼任

大名になると見える景色が変わりますね。

 当時、意次は働き盛りの40歳。将軍家重の信頼も厚い陰の実力者として、幕府での存在感も高まります。しかし、2年後、意次を引き立ててきた家重が病気のため、将軍を辞任、長男の家治(いえはる)が10代将軍となります。

 通常、将軍が交代すると側近たちは入れ替わります。徳川綱吉の側近として権勢を振るった柳沢吉保が、将軍交代の際に辞職したのが典型的な例です。通常なら、意次も家重が移った二の丸御殿に出仕、世子のころから仕えてきた家重のところで働くのが一般的ですが、そのまま新将軍・家治の御側御用取次として留任します。幕府の正史『徳川実紀』にも、家重が家治に残した「意次は正直者で律義者であるから家治の時代になっても引き立てて召し使うように」という言葉が記されています。親孝行な家治は、その言いつけを守り、意次もその期待に応えました。

 その後も意次は将軍の側近として活躍、49歳で再び設置されるようになっていた側用人、1769(明和6)年には幕政を主導する政治職である老中格となります。「格」とついていますが、これは老中には3万石以上の譜代大名が任じられるのが通例で、意次は当時2万5000石の大名だったからです。これまで小姓、御側御用取次、側用人と一貫して側近畑のキャリアを歩んできましたが、幕閣の中心で政治を取り仕切る立場になったのです。秘書官から、内閣の主要閣僚になったというイメージでしょうか。その後もさらに加増を受け、1795(天明5)年、相良藩5万7000石の大名になります。

 注目すべきは、意次が老中となっても、事実上側用人を兼任し、将軍が生活する中奥(なかおく)に出入りすることが可能だったことです。老中は政治向きの決裁を仰ぐ際、直接将軍に拝謁できません。将軍は側用人や御側御用取次を老中がいる部屋に派遣し、その意思を伝えていました。しかし、側用人と老中を同一人物が務めることで、政治を思うままに動かせることが可能だったのです。

田沼意次の政治はどのような特徴がありましたか?

 当時は年貢米に依存した幕府の財政構造が限界に来ていました。幕府の経済・金融・財政政策の司令塔が勘定所(かんじょうしょ)です。現在でいうなら財務省と経産省を兼ね備えたような組織ですが、意次が勘定所とともに取り組んだのは、幅広く商品生産や流通に課税し、金融からも利益を引き出すという画期的な財政政策でした。

 具体的には株仲間の結成を積極的に推進し、営業税・営業免許税にあたる運上(うんじょう)・冥加金(みょうがきん)を賦課する対象を拡大し、歳入の増加を図りました。商業活動への課税を強化する一方で、商品経済の発展を支えてきた金融業を本格的に展開、幕府の公金を元手にした「公金貸付」に力を入れました。

 そのほか、輸入に依存していた砂糖や朝鮮ニンジンなどの産物の国産化や、銅座などの専売制の実施、銅山など鉱山の開発にも力を入れました。鉱山開発は民間に奨励しましたが、民間からの提案も積極的に採用しました。工藤平助の『赤蝦夷風説考』を受けて企画された蝦夷地の開発、印旛沼や手賀沼の干拓など大規模な新規事業にも積極的でした。

 田沼時代は民間との距離が近く、従来の慣例にとらわれず自由な発想で事業にチャレンジし、問題解決しようとする時代でした。意次と、蔦重こと蔦屋重三郎に接点があったという記録はありませんが、この時代、蔦重が活躍し、新たな才能を持つ作家や絵師が相次いで登場したのは、間違いなく田沼時代が生み出した時代の空気があったからといえるでしょう。ただ、この新参者かつ、民間の意見を積極的に活用するという姿勢は、田沼政治の魅力であり、弱みでもあったのでした。
(次回へ続く)

田沼意次が分かる4冊

『田沼意次 汚名を着せられた改革者』(安藤優一郎著、日経ビジネス人文庫)
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『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(安藤優一郎著、PHP新書)
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『田沼意次-御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
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『田沼時代』(辻善之助著、岩波文庫)
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取材・文/市川史樹(日経BOOKプラス編集)  写真/鈴木愛子