教育を費用と便益の観点から捉えることに抵抗感を感じる人々も多い。「経済学の書棚」第33回後編は、米国人がコモングッド(共益、公共善、良識)を喪失している現状を告発し、公教育の復活を求める『コモングッド』、日本の国立大学政策の変遷を追い、多くの国立大学が限界に近づいている現状を明らかにする『限界の国立大学』、世界の初等・中等教育が目指している方向を解説する『世界の教育はどこへ向かうか』を紹介する。
富や権力を求め、公共善を軽視する人々
教育を費用と便益の観点から捉える教育経済学は強力な分析装置である。内外の研究者は多くの研究成果を積み上げ、個人の行動や各国の政策にも少なからず影響を与えている。その一方で、教育を投資と見なし、主にお金の面から教育の効果を論じる経済学に対する批判は根強い。後編では、教育経済学の議論を「相対化」するのに参考になりそうな著書を紹介する。
ロバート・B・ライシュ氏は『 コモングッド 暴走する資本主義社会で倫理を語る 』(雨宮寛、今井章子訳/東洋経済新報社/2024年10月刊)で、米国人がコモングッド(共益、公共善、良識)を喪失している現状を告発し、公教育(市民教育)の復活を求めている。
著者は米国の経済学者で、ビル・クリントン政権の労働長官、バラク・オバマ政権のアドバイザーなどを務めた。原著の出版は2018年であり、第1次トランプ政権の時期にあたる。同書の主張は、第2次トランプ政権が誕生した現在の情勢にも通じるだろう。
コモングッドとは、同じ社会の一員として連帯する市民が、互いにどんな義務を負っているかを示す共有価値。人々が自発的に従おうとする規範であり、成就させたいと願う理想でもある。国家の象徴に対する義務ではなく、国家を維持するためすべての国民に「応分の負担」を求める。
コモングッドの感覚に従えば、教育は「いい仕事に就くための自己投資」ではなく、国家を賢明に統治する能力を育成するという公共善であり、機会の平等を推進する。教育は民主主義の基盤となる公共善なのである。
米国の建国の父たちは、最も良識ある人々を生み出すシステムを作ろうとしたのであり、最高の富を生み出すシステムを作ろうとしたわけではない。
しかし、1960年代半ば以降、富と権力を持つ一握りの人々が、さらに多くの富と権力を得んがために、社会に広がる「信頼」を搾取し始めたと著者はみる。1964年のトンキン湾事件以来、2010年代半ばまでに起きた数々の事件やスキャンダルを列挙し、どれもが社会のコモングッドを軽視し、富や権力を求めた結果であると断じる。
数々の事件や出来事がきっかけとなり、米国では3つの「構造的崩壊」が起きた。手段を選ばず勝つ政治、手段を選ばず利益を最大化する人々、経済を不正操作するためなら手段を選ばない人々がはびこる社会になったのである。
政党や企業や自由市場など、米国社会における政治経済の主要な組織や制度は、コモングッドへの責務を自ら放棄した。1972年から2016年の間に、平均的な勤労者の賃金は実質2%下落したが、米国全体の経済規模はほぼ倍増した。所得増分のほとんどが高所得層に向かったのだ。人種や性別や民族による差別が経済格差を悪化させ、経済的な軋轢(あつれき)がさらなる偏見を助長した。数十年にわたってずっと下りのエスカレーターに乗せられてきた多くの人々が、憎しみの政治を押し売りする扇動政治の格好の標的となったとの見方を示している。
格差拡大はデジタル技術とグローバル化が原因であり、より良い仕事に就きたいなら、もっと勉強して高いスキルを獲得する必要があるとよく指摘される。同じ潮流に直面した他の先進国の人々が米国人ほど著しい負け方をしていないことの説明がつかない、とこうした見方に反論する。
コモングッドを復活させる手立てはあるのか。著者は2つの方法を提案する。1つ目は、「真実の復活」だ。公の真実を見いだし、共有し、維持する責任を社会の一人ひとりが負えるかどうかにかかっていると強調する。この点では、科学者、研究者、教授、分析官、ジャーナリストたちが専門的な責任を負っているとみている。報道機関は劣化が激しいが、信頼を回復するための改善策を示している。
教育の目的は「責任ある市民」の育成
2つ目は市民教育への新たな取り組みだ。市民教育を児童や若者が受ける正規教育の一環とするなどの新しいやり方を求める。「子供たちには、自己実現のため、あるいは実入りの良い仕事を求める個人としてではなく、核となる共有の価値観を守る責任を携えた市民として、自身の存在を認識してもらわねばならない。この社会の主要な仕組みを尊重するだけでなく、それを適切に改善することも学んでもらわなければならない。この社会や世界にとって何が最善かということについて、他者とともに慎重に考えることができ、同時に、反対するときも礼儀正しく敬意をもって反対する術を身につけてもらわなくてはならない」と訴える。
教育が単に個人的な利益をもたらす私的投資だとすれば、「投資家」ではない誰かが学費を払う道理はない。他人の子どもの教育費、貧困家庭の子どもや、特別な指導時間や手助けを必要とする子どもの教育費を払うことを渋る人が増えるのも不思議はない。地方議会も同じことを考えているようで、公立大学の予算を削減し続けている。
教育とは若者を「責任ある市民」となるよう促す「公益」なのだという、建国の父たちが抱いた認識を復活させねばならない。そのためには学校教育でスキルの向上だけではなく、市民としての義務も教えるべきだと繰り返し強調している。
日本の公教育には何が起きているのか。朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班著『 限界の国立大学 法人化20年、何が最高学府を劣化させるのか? 』(朝日新書/2024年11月刊)は、日本の国立大学政策の変遷を追い、多くの国立大学が限界に近づいている現状を明らかにした書である。
2004年4月、全国の国立大学は国立大学法人に移行した。学長や教職員へのアンケート調査やインタビューなどを通じて、法人化から20年が経過した国立大学の現状と課題を探っている。
国立大学法人化は、2001年に発足した小泉純一郎政権が推進した行財政改革の一環である。国立大学の教員はかつて国家公務員だった。国家公務員が12万人近くいた国立大学は「官から民へ」の標的になった。ただ、当時の有力な国立大学の学長らも「世界と競い合うためには法人化が必要だ」と唱え、小泉改革の流れに乗った面もあると指摘する。
一時は独立行政法人化を検討したものの、文部科学省は国立大学法人という、似て非なる組織にこだわった。独法ではトップを大臣の権限で任命したり解任したりできるが、国立大学で同じ手法をとると「学問の自由」や「大学の自治」が脅かされることを懸念したという。
法人化に伴い、国立大学は民間の経営手法を導入する仕組みを採り入れた。地元の経済人や自治体関係者らも参加する経営協議会、経営協議会の学外委員と教育研究評議会の委員が入る学長選考会議(現在は学長選考・監察会議)を導入したのである。
国立大学法人化で教職員の意欲が低下
法人化から20年間を経た国立大学の変化をアンケート調査したところ、全国の国立大学の学長(回答者は79人)の15%が「悪い方向に進んだ」、52%が「どちらかと言えば悪い方向に進んだ」と回答した。多くの学長が問題視しているのは、国からの運営費交付金の減額だ。運営費交付金は教職員の人件費や研究費の原資で、2024年度予算では1兆784億円だった。2004年度は1兆2415億円だったが、2005年度以降、約10年間にわたり、毎年1%ずつ減り続けた。
教職員による法人化の評価も厳しい。法人化後の教職員の意欲の変化について尋ねたところ、407人の回答者のうち、47%が「低下の方向に向かっている」、35%が「どちらかと言えば低下の方向に向かっている」と回答した。教員の雇用に関しては65%が「不安定化した」、23%が「どちらかと言えば不安定化した」、教員の労働環境についても、64%が「悪い方向に向かっている」、24%が「どちらかと言えば悪い方向に向かっている」と回答した。学長、教職員ともにネガティブな回答が目立つ。
国の科学研究費補助金(科研費)などの競争的資金や、企業との共同研究、寄付といった外部資金を集めれば収入を増やせるものの、それができる大学は限られている。仮に外部資金を増やすことができたとしても、使途に制限があるのが普通だ。競争的資金を獲得するための申請作業に多大な時間をとられ、疲弊している教職員も多い。
法人化後、国は「選択と集中」政策を推進し、大学の研究開発力を高めようとしてきた。国や産業界が期待するのは、経済成長につながりそうな分野であり、そこに予算を集中投入する手法だ。
ところが、20年の間に研究力はかえって弱まったとの見方もある。「トップ10%論文(引用された数が各分野の上位10%に入る、注目度が高い論文)数」ランキングを見ると、日本の順位は2004年の4位から2024年に13位に下がった。
日本政府としては限られた予算の費用対効果を考え、予算配分にメリハリをつけることで大学間競争を促し、国際競争力を高める狙いがあったが、期待通りにはなっていない。
一部の有力大学に予算を集中させる手法に対する批判もあり、地方大学なども参加しやすい「地域中核・特色ある研究大学強化促進事業」を2023年度からスタートさせるなど、若干の軌道修正はしているものの、「選択と集中」の基本路線は変わらない。
閉鎖の危機に直面する地方国立大も
特に財務状況の悪化に苦しんでいるのは、過疎と高齢化が進む地方で、人材育成や特色ある研究に取り組んでいる大学が多い。「選択と集中」政策を続ければ、いくつもの地方国立大学が、将来的に閉鎖に追い込まれかねない。実際に閉鎖となれば多くの若者や有識者が去ってしまい、立地する地域に与える衝撃は計り知れない。その地方の衰退を決定づけてしまうだろうと警告する。
教育予算を通じて研究力を強化し、経済成長率を高めようとする「選択と集中」政策は、「教育投資を通じて将来の所得を増やす」という教育経済学の考え方にも通じるところがある。教育経済学の発祥の地は米国であり、米国の風土に合う学問分野のはずであるが、ライシュ氏は教育を投資と見なす発想に厳しい視線を注いでいる。日本の「選択と集中」政策も再点検が必要な時期であろう。
白井俊著『 世界の教育はどこへ向かうか 能力・探究・ウェルビーイング 』(中公新書/2025年2月刊)は、世界の初等・中等教育が目指している方向を解説する書だ。著者は文科省で長く教育政策に携わり、経済協力開発機構(OECD)や国連教育科学文化機関(ユネスコ)などの施策にも詳しい。
同書によると、教育は産業や医療、福祉などと並ぶ大きな社会システムの一つである。したがって世界全体がどのような方向に動いているのかという視点から、教育について俯瞰的に捉えることが重要になる。
教育にも浸透する人間重視の世界観
そこで参考になるのは、普遍的な理念となりつつある国際連合のSDGs(持続可能な開発目標)やOECD(経済協力開発機構)のウェルビーイング(良好な状態/幸せ、健康、繁栄している状況)といった考え方だ。経済成長中心の世界観から人間重視の世界観に転換する過程で登場した概念である。単に働いてお金を稼げばよいのではなく、働きがい、安心・安全な労働環境、十分な余暇の確保なども想定している。
人間重視の世界観とは、「個人の尊厳」重視と言い換えられる。教育でも、個人の尊厳を重視しなければならないが、現実には、いじめや暴力の問題が世界中で起きている。
このほか、学習に対する内発的な意欲、学校生活と余暇のバランス(スクールライフバランス)、学校運営への子どもたちの参画などの観点から、日本の教育の現状と課題を点検している。SDGsやウェルビーイングなど普遍性のある国際的な枠組みを活用しながら、学校や子どもたちの実情に即したものにしていくことが求められると主張している。
「主体性」、「能力」、「探究」という概念はいずれも教育の鍵を握るとされている。具体的には何を指しているのか、それぞれに1章を割いて分析する。
子供たちに求められる「能力」をテーマとする章では、能力を使う場面や文脈の重要性を訴えている。教育の世界では、伝統的に、論理的思考力や批判的思考力、創造性といった「認知能力」を重視してきたが、近年では、思いやりや共感性、好奇心、積極性、リーダーシップ、自己統制、自己効力感といった「非認知能力」にも注目するようになった。
ただ、非認知能力は「認知能力以外の能力」という意味であり、内容が全く異なる雑多なものを含んでいる。非認知能力の一つであるリーダーシップにしても、すでにリーダーがいるのに無理にリーダーシップを発揮しようとすれば混乱を招く。認知能力、非認知能力ともに、文脈に応じた「加減」や「塩梅」(あんばい)が重要だと注意を喚起する。
OECDは非認知能力という言葉に代えて「社会・情動的スキル」と「態度及び価値観」というカテゴリーを設定した。自分が持つ知識やスキルをどんな方向で発揮するかを左右するのが「態度及び価値観」であり、他者へのリスペクト(敬意)や責任感などは「態度」、基本的人権の尊重、地球環境の保護などは「価値観」に該当する。これらが欠如していると詐欺やテロ行為、地球環境に有害な行為などをしかねない。各国も重視するようになっているという。
教育に携わるのは教師だけではない
終章「これからの教育はどこへ向かうか」では、OECDが2019年に示した「ニュー・ノーマルの教育像」を話題にしている。教師だけではなく、多くの人が教育にかかわる「チーム学校」の考え方、プロセス重視の学習、教師と生徒が双方向で学び合う関係が柱となる。
OECDは2020年、学校の将来像に関する報告書を発表した。(1)伝統的な学校モデルが存続する、(2)民間へのアウトソーシングが進行する、(3)地域ごとの特色が鮮明になる、(4)AI(人工知能)などの技術によって学校が融解する、という4つのシナリオを描き出している。
著者は、(1)を基軸としながら、(2)~(4)の要素を一定程度織り交ぜた形がこれからの学校の姿となると予測する。
日本の教育や教育政策は、どんな方向に進むべきなのか。国内外の研究成果、世界各国の動向や国際機関の提言などを参考にするのはよいが、「国際標準」や「国際競争力」といった言葉に振り回されない姿勢も大切ではないだろうか。
写真/スタジオキャスパー



