あなたにはダイエットや勉強など、した方がいいと分かっているのにどうしてもできないことはありませんか? それは、怠惰だからでも、意志が弱いからでもありません。人間には、目の前にある「嫌な感情」から反射的に逃げる癖があるからなのです。新刊『 感情戦略 』から、感情がいかに私たちの成長を妨げるかについて、一部を抜粋し、紹介します。
やればプラスになることをできないのには、必ず理由がある
人生で何よりもあなたを一番抑え付けているのは、他でもないあなた自身です。あなたには、やればプラスになるのに、どうしてもできないことはありませんか? それはダイエットや勉強、夢のための努力、あるいはお酒をやめることや、誰かとの縁を切ることかもしれません。
例えば、今回こそはダイエットしようと思っているのに、ついお菓子を食べてしまい自己嫌悪に陥ったり、「今日くらいはいいか」と思ってしまったりすることには、ほぼ間違いなく自己破壊の力が作用しています。
大げさだと思われるかもしれません。しかし、努力してもなぜか無意識のうちにやめてしまったり、不快感にさいなまれたりするのであれば、自分で自分をダメにする力が働いているのです。
自己破壊的行為とは自分のためにならないようなことをなぜかしてしまったり、やらなければならないことをつい先延ばしにしたり、見ないようにしたりすることです。これは、意志の弱さの結果のように思えます。でも実際の理由は、まったく別のところにあります。あなたに、無意識下の「思い」があるからです。意志が強い、弱いという問題ではないのです。
自己破壊的行為を克服するには、心理面を深く掘り下げる作業が必要になります。トラウマとなった出来事を見つけ出し、整理されていない感情を解放し、心の知能指数や、打たれ強くあることといった基本的な能力を育てる必要もあります。
自己破壊的行為をついしてしまうなら、無意識に何かがある
精神科医のカール・ユングは子どもの頃、学校で転んで頭を地面に打ち付けてしまいました。けがをしたユングは心の中で、こっそりこうつぶやきます。「やった、これで学校に行かなくてすむかも」。
ユングは今でこそ洞察に富んだ数々の研究で知られていますが、子ども時代は学校が嫌いで、同級生にもうまくなじめませんでした。この出来事から間もなく、ユングは失神の発作を時折起こすようになりました。後にユング自身が「神経症」と診断した症状を発症していたのです。ユングはその後、あらゆる神経症は、「何かしらの合理的な苦しみの代わり」に発症すると悟ります。
失神の発作は、居心地が悪い授業に出たくない、という無意識の欲求の現れだとユングは考えるようになりました。同様に、多くの人にとって恐怖と執着は、自分でもどう対処していいか分からない深い問題が、単に症状として現れたにすぎないことが多いのです。
自己破壊的行為はただの反射的な機能
「自己破壊的行為」は、心の奥底に秘めた願いを満たしたいのに、意識がそれを拒否するときに起きます。拒否するのは、たいてい自分には無理だと思っていることが原因です。ダイエットでいうと、心の奥では痩せるのは無理だと思っているからです。または、痩せることに成功しても、別に人生が変わらないことを恐れているのかもしれません。
ダイエット以外でよくあるのは、人間関係を妨害することです。それは、本当は心が自分自身を深く知りたいと思っているのに、1人になるのが怖いというだけで、誰かと付き合っているからです。
仕事で成功するのを妨害することもあります。それは、本当は芸術的な創作活動をしたいと思っているのに、「社会的に野心がない」と思われてしまうのが嫌で仕事をしているだけだからです。心の中の自分の声に耳を傾けるのを妨害することもあります。自分を信じてしまったら、きっと自由を感じて世界に飛び出し、そのせいで危険な目に遭ってしまうかもしれません。リスクがあるのです。
ここで覚えてほしいことがあります。それは、自己破壊的行為とは多くの場合、単にうまく機能していない、「対処メカニズム」だということです。「対処メカニズム」とは、体が反射的にしてしまうことで、目の前にある嫌な感情を回避するためにやってしまうことです。それには深い考えはありません。
自己破壊的行為とは、何も考えずにすむようなラクな対処法のひとつにすぎません。ちょっと嫌だな、と思っていることを回避させているだけです。実際に問題を解決してくれるわけではなく、理性で考えていることを無駄にする行為です。単に自分の欲求をまひさせて、一時的な安堵感を味わうだけなのです。
「漠然とした恐怖」があるとき、人は別の感情に逃げる
自分にとって最も破滅的な行動を、世の中や自分自身に対してずっと抱いてきた、「根拠のない恐怖」が引き起こすこともあります。それは例えば、自分のことを太っているとか、頭が悪いとか、魅力的でないとか、嫌われているのではないかと思われる恐怖のことです。あるいは、失業する、エレベーターに乗る、1人の人ときちんとお付き合いする、など実際の行動に対する恐怖の可能性もあります。
また、もっと漠然としたことかもしれません。誰かに狙われているんじゃないかとか、誰かが自分のテリトリーに入り込んでくるんじゃないか、捕まるんじゃないか、ぬれぎぬを着せられるんじゃないか、などです。ほとんどの人にとって、捉えどころのない恐怖は、何か別の恐れが現れたものです。本物の恐れをあれこれと考えるのはあまりにも恐ろしすぎるため、私たちは実際には起きる可能性の低い問題や状況に投影するのです。
その状況が現実になる可能性が低ければ、無意識的には現実には起こらないと分かっているため、「安心」して心配できます。つまり、現実に自分を危険にさらすことなく、怖いという感情を味わえるのです。たとえその「代わり」の恐れがどれだけ不快だとしてもです。
もし助手席に乗るのがとても怖いのなら、本当の恐れは、コントロールを失うことかもしれないし、誰か他の人、あるいは他の何かに人生をコントロールされるのが怖いのかもしれません。ひょっとしたら、「前に進む」のが怖いのかもしれません。つまり走る車は、単に前に進むことを象徴しているにすぎないのです。
本当の問題が何であるかが分かれば、自分がいつもどうして主導権を手放してしまうか、なぜ受け身でいるかを考えるなど、解決に向けた努力を始められます。しかし本当の問題が分からなければ、車の助手席に座り続けながら、不安にならないように、と自分に言い聞かせ続けることになります。その間、症状はただただ悪化するばかりです。もし表面的な解決をしようとすれば、今後ずっと壁にぶち当たることになるでしょう。
訳/松丸さとみ