ポスト印象派を代表する画家で、日本で最も人気のある画家の1人、フィンセント・ファン・ゴッホ。2025年の春から秋に、日本ではファン・ゴッホをテーマにした美術展が相次いで開催されます。“ファン・ゴッホ・イヤー”ともいえる2025 年、ファン・ゴッホを学ぶための本について⻄洋美術史家・千速敏男さんに伺いました。

西洋の画家と聞いて、誰を思い浮かべるでしょうか。モネ、ルノワール、シャガール、ピカソ……。さまざまな声が聞こえてきそうですが、ポスト印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホも間違いなくその名が挙がる1人です。
2025年、日本ではファン・ゴッホをテーマにした美術展が相次いで開催されます。「ゴッホ・インパクト(仮)」(25年5月31日~、ポーラ美術館)、「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」(25年7月5日~、大阪市立美術館ほか)、「大ゴッホ展」(25年9月20日~、神戸市立博物館ほか)。
そんな“ファン・ゴッホ・イヤー”ともいえる2025年、ファン・ゴッホについて改めて学んでみてはいかがでしょう。⻄洋美術史家で成安造形⼤学名誉教授の千速敏男さんにファン・ゴッホの真の姿を知るための12冊を挙げてもらいました。1回につき4冊、全3回で紹介します。
ファン・ゴッホ研究のあり⽅を変えた1冊
画家ファン・ゴッホについて、どんなイメージをお持ちでしょうか。炎の人、狂気の天才、耳切り事件、猟奇的…。とくに「炎の人」というイメージは、1956年にカーク・ダグラス主演で映画化された『炎の人ゴッホ』によって広く定着しました。ファン・ゴッホは激動的な人物で、炎のようにカーッと燃え上がる。絵の筆致はぐちゃぐちゃで、何を描いているか分からない。そして、激情的な性格が災いし、最終的には猟奇的な耳切り事件を起こした。そうした人物像が作り上げられてしまったのです。
でも、それはメディアによって作られた誇張過多なイメージ。そんな偏ったイメージを正したのが、美術史家の高階秀爾先生が著した『ゴッホの眼』です。これは高階先生が1970年代後半に雑誌『現代思想』に連載された論文を中心にまとめたもの。初版が発行されたのは1984年です。
『 ゴッホの眼 』では、それまで「炎の人」というイメージが先行していたファン・ゴッホという画家について、研究と検証を積み上げて、客観的に分析しています。ひまわり、椅子、靴、寝室、種まく人、刈り入れる人、星月夜、麦畑、自画像。これらのファン・ゴッホの主要なモチーフは、西洋美術史のどんな系譜に位置付けられるのか。そして、そのモチーフはファン・ゴッホ自身にとってどのような意義を持っていたのか。丁寧な分析によって、ファン・ゴッホの真の姿が浮かび上がっています。
『ゴッホの眼』はファン・ゴッホ研究のあり方を変えた「脱・炎の人」といえる一冊。高階先生以降の研究者は、みんな、この本で基礎を学んでいます。今読んでも、決して古びていないし、記述に誤りもない。客観的事実だけを積み上げた名著といえます。
章ごとに明確なテーマを設定。ファン・ゴッホ初心者も楽しめる本
日本国内に所蔵されているファン・ゴッホの作品といえば、SOMPO美術館の『ひまわり』を思い浮かべる人が多いでしょう。この『ひまわり』は1987年に安田火災東郷青児記念美術館、現在のSOMPO美術館が購入した作品で、美術館の顔となり、安田火災東郷青児記念美術館は1990年代に「ゴッホとその時代展」と題して6回のシリーズものの展覧会を開催しています。
その6回の展覧会を監修されたのが千足伸行先生。当時は成城大学文芸学部の教授で、現在は同大学の名誉教授。広島県立美術館の館長も務められています。6回の展覧会の図録にはそれぞれ千⾜先⽣の論⽂が収録されていて、その論文をまとめたのが『ゴッホを旅する』です。ただし、3回目の展覧会の論文はすでに『交響する美術』(⼩学館,2011年)に収録されているため、代わりに別の論文が掲載されているという、ちょっとややこしいところがあります。その点はご容赦ください。
さて、『 ゴッホを旅する 』の内容ですが、各章にテーマを設けて、さまざまな観点からファン・ゴッホの作品の意義を解き明かしています。例えば、第1章「初期の名作《⾺鈴薯を⾷べる⼈達》とその周辺」では、農民のリアルな姿を描き農民画家と呼ばれたバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーとの関係に注目。作品を比較しながら、共通性や影響関係を明らかにしています。
参考までに、各章の題名を紹介しておきます。第2章「多彩な自画像と描かれたパイプの謎」、第3章「リアリズムの表象としてのモチーフ《古靴》」、第4章「《烏の群れ⾶ぶ⻨畑》が暗示する“心の北帰行”」、第5章「《アルルのはね橋》ほかの“橋づくし”」、第6章「魂の独白としてのゴッホのデッサン」。章ごとに明確なテーマがあり、文体も親しみやすいため、ファン・ゴッホ初心者でも楽しく読むことができます。
903通の手紙から厳選、ファン・ゴッホ研究に欠かせない
『ファン・ゴッホの手紙』全2巻 フィンセント・ファン・ゴッホ著、ゴッホ美術館編、圀府寺司訳、新潮社
ファン・ゴッホが残した⼿紙は、画家の芸術観や制作意図を探るための重要な資料であり、⽇本でも硲伊之助(はざま いのすけ)訳『ゴッホの⼿紙』(岩波書店、1955年)や⼆⾒史郎編『ファン・ゴッホの⼿紙』(みすず書房、2001年)が刊⾏され、⻑く「研究者必読の書」として親しまれてきましたが、近年、その状況は大きく変わっています。
オランダ・アムステルダムにあるファン・ゴッホ美術館では、ファン・ゴッホの⼿紙をウェブ上でデータベースとして公開しました。私⾃⾝もファン・ゴッホがフェルメールについて述べた箇所を検索し、「ファン・ゴッホの書簡にみるフェルメール」という論⽂を執筆するなど活⽤しています。このデータベースは2009 年には書籍としても刊⾏され、世界各国でその翻訳版が続きましたが、⽇本でも2020 年に、現存する903 通の⼿紙からファン・ゴッホ研究に必要不可⽋な265 通を精選し、『ファン・ゴッホの手紙』が刊行されました。翻訳を担当したのは、日本におけるファン・ゴッホ研究の第一人者である大阪大学名誉教授・圀府寺司(こうでら つかさ)先生です。
この『ファン・ゴッホの⼿紙』は、今やファン・ゴッホ研究になくてはならない重要な資料。膨⼤なボリュームで、価格も⾼めですが、熱⼼なファン・ゴッホのファンなら、ぜひ⼿に⼊れたい作品です。
最新の書簡データベースを反映させた伝記
『ファン・ゴッホ:日本の夢に懸けた画家』 圀府寺司著、角川ソフィア文庫
この本は前述した『ファン・ゴッホの手紙』の訳者でもある圀府寺司先生が執筆したファン・ゴッホの伝記です。ファン・ゴッホ美術館が公開している最新の書簡データベースの情報が反映されているので、これまでに「ファン・ゴッホに関する本を何冊か読んだことがある」という人も、新たな発見が期待できるはず。カラー図版の掲載が多いので、ファン・ゴッホ入門者にもお薦めしたいですね。
わずか37歳でこの世を去ったファン・ゴッホ。この1冊を通して、波乱に満ちた短い生涯を追いかけながら、ファン・ゴッホが日本に憧れた理由を探ってみてください。
1回目はここまで。次回もファン・ゴッホの魅力が伝わる4冊を紹介します。
取材・文/川岸 徹、構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集)、写真/木村 輝



