ファン・ゴッホの作品が与えた影響は、その後の画家たちだけではなく、幅広いジャンルに及んでいます。成安造形大学名誉教授で西洋美術史家の千速敏男さんにファン・ゴッホについて学ぶための本を聞く本連載。最終回のキーワードはファン・ゴッホの「広がりゆく世界」です。
第2回 ファン・ゴッホの足跡と「作品の内面を探る旅」を読む本
第3回 天⽂学、料理本…多彩なジャンルへ広がるファン・ゴッホの世界 今はここ
わずか37年の生涯のなかで、個性と情熱にあふれた作品を数多く残したファン・ゴッホ。鮮やかで大胆な色彩とうねるような筆触による独自性の強い作品は、その後の画家たちに大きな影響を与えました。
2025年5月31日から箱根のポーラ美術館で、「ゴッホ・インパクト」(仮)展が始まります。ファン・ゴッホという存在が、その後のアーティストにどのようなインパクトを与えたのかを検証する展覧会。西洋ではアンリ・マティス、アンドレ・ドラン、モーリス・ド・ヴラマンク、日本では佐伯祐三、岸田劉生、草間彌生、森村泰昌、福田美蘭らの作品が紹介されます。
ファン・ゴッホの影響は芸術分野だけにとどまりません。天文学の分野ではファン・ゴッホが描いた星空の研究が進み、食の分野では作品に描かれた食材を使った料理を紹介するレシピ本が登場しています。今回はジャンルを超えて、今も私たちを楽しませてくれるファン・ゴッホの「広がりゆく世界」をテーマに本を紹介します。
天才物理学者が作品中の星空を再現
『ゴッホが見た星月夜 天文学者が解き明かす名画に残された謎』 ジャン=ピエール・ルミネ著、小金輝彦訳、石坂千春監修 日経ナショナル ジオグラフィック
ファン・ゴッホが好んだモチーフの1つに星空があります。有名な作品では『ローヌ川の星月夜』『星月夜』『糸杉と星の見える道』。ファン・ゴッホの手紙にはこんな一節が出てきます。「ぼくはいま、星空を描きたくてたまらない。よく思うのだが、紫や青や濃い緑に彩られた夜のほうが、昼間よりも色彩が豊かだ」。ファン・ゴッホは星空に引かれ、夜を描くことにのめり込んでいきました。
では、そうした星空は、いつ、どこで見たものなのでしょう。そもそも現実の星空なのでしょうか。そんな謎の解明に挑んだのが、天体物理学者で作家のジャン=ピエール・ルミネです。ジャンは作品の舞台へ足を運び、残された書簡を手がかりに、ファン・ゴッホが見たと思われる空を再現していきました。
そうして出来上がった星図は、ファン・ゴッホの作品に描かれた星空と、ぴたりと一致しました。ファン・ゴッホの絵に出てくる星空は空想のものでも、デフォルメされたものでもありません。ファン・ゴッホは自分が見た星空を正確に再現していたのです。
天体物理学者にしか書けないファン・ゴッホ本。科学好きにお薦めしたい1冊です。
ファン・ゴッホが「食べたかもしれない」料理に思いをはせる
ファン・ゴッホと料理。関係性は薄いように思われますが、ファン・ゴッホの作品にはたくさんの食材が出てきます。タマネギ、リンゴ、燻製ニシン、ジャガイモ…。『ゴッホ 旅とレシピ』はファン・ゴッホの作品や書簡、資料などから、彼が食べたかもしれない料理を想像する本。南仏アルルで共同生活を送った画家ゴーガンに「振る舞ったかもしれない料理」など、26点のレシピが掲載されています。
作者の林綾野さんは、キュレーター、アートライターとして活動し、展覧会の企画や美術書の執筆などを手がけています。林さんのレシピ本としてはファン・ゴッホのほか、『ロートレックの食卓』や『 モネ 庭のレシピ 』(ともに講談社)などもあります。食を通して画家を身近に感じてみるのもいいかもしれませんね。
「耳切り事件」の謎を解き明かす
『ゴッホの耳 ―天才画家最大の謎―』 バーナデット・マーフィー著、山田美明訳、早川書房
ファン・ゴッホと聞いて、「耳切り事件」を連想する人も多いでしょう。事件が起きたのは1888年12月。140年近くたった今も語り継がれる、センセーショナルな事件であることは間違いありません。
ただし、衝撃的であるが故に、誤った情報や解釈も目につきます。『 ゴッホの耳 天才画家最大の謎 』は、イギリスの歴史学者バーナデット・マーフィーが、事実だけを徹底的に調べ上げてつづったノンフィクション。「耳を贈られた謎の女性“ラシェル”とはいったい何者なのか?」「ファン・ゴッホが切り落としたのは耳たぶなのか、それとも耳全体なのか?」といった謎の解明に挑んでいます。
ファン・ゴッホは精神疾患を患っていたため、そのせいで耳切り事件を起こしたと思われがちです。でも、この本を読むと、精神疾患だけが理由ではないと気づかされます。安易な思い込みが、いかに危険か。そんなことを考えさせてくれる1冊です。
ファン・ゴッホと日本、それぞれの思いを双方向から描く
『ファン・ゴッホ 巡りゆく日本の夢』 圀府寺司、コルネリア・ホンブルク、佐藤幸宏ほか著、青幻舎
ファン・ゴッホの「広がりゆく世界」。最後に挙げたいキーワードは「日本」です。ファン・ゴッホは浮世絵に魅せられ、日本に“ユートピア”を見出し、いつか暮らしてみたいという夢を膨らませました。一方、日本人もファン・ゴッホの作品を好み、代表作の多くが所蔵されるオランダやフランスへ旅行に出かけています。
なぜ、日本人はファン・ゴッホの絵が好きなのか。私は「色の選び方」が一番の理由だと思います。西洋絵画において、補色関係にある色の組み合わせでよく用いられるのは「赤と緑」です。これは暖色系の組み合わせで、画面が華やかになりますが、日本人の感覚にはあまり合わない。バタ臭い印象を受けてしまいます。
一方、ファン・ゴッホは「黄と青」という寒色系の組み合わせを多用しています。例えば、青い星空とカフェの黄色い灯りの対比が印象的な『夜のカフェテラス』という作品。これこそまさに「日本人好みの色彩」。寒色系の色は日本人の琴線に触れるんです。
さて、本の紹介です。『 ファン・ゴッホ 巡りゆく日本の夢 』は日本人研究者である圀府寺司さんと佐藤幸宏さんが、ファン・ゴッホ美術館と共同で2013年から取り組んできた「ファン・ゴッホと日本」プロジェクトの研究成果をまとめた展覧会の公式・学術カタログ。ファン・ゴッホの生涯にわたるジャポニズムの深化の過程と、日本人のファン・ゴッホ巡礼の実態を、双方向から検証しています。200点以上の図版をオールカラーで掲載。ファン・ゴッホの魅力をヴィジュアルでも堪能できる1冊です。
古くから日本人と相思相愛だったファン・ゴッホ。これからも展覧会や書籍などを通して、親密な関係をより深めていってほしいと願っています。
取材・文/川岸 徹 構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集) 写真/木村 輝





