ロシアのウクライナ軍事侵攻から、2月24日で1年がたつ。北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国対ロシアの対立構造が浮かび上がり、「新しい冷戦」とも言われている。AI(人工知能)やITの進化で激化する、ロシアウクライナ戦争の裏で起きている各国の情報戦、スパイ合戦について、“スパイオタク”の池上彰氏が解説する。ロシアウクライナ戦争をはじめ、経済スパイなどの実態についても描いた 『世界史を変えたスパイたち』 (日経BP)から抜粋・再構成してお届けする。

ロシア軍の侵攻準備を米国がいち早く暴露

 「ロシア軍が新年早々にもウクライナに侵攻する準備をしている。最大17万5000人を動員した本格的な軍事侵攻の計画だ」

 これは、米国の情報機関がまとめた報告だとして、2021年12月3日、米国の有力紙「ワシントン・ポスト」が報じたニュースです。この情報を裏付けるかのように、ロシア軍はこの時既にウクライナとの国境沿いに約10万人の兵力を集結させています。

 現代は、宇宙からの偵察衛星によって地上の兵力の移動は丸見えです。しかし、この時点でのロシア軍の兵力は約10万人。ワシントン・ポストは「最大17万5000人を動員して」と報じています。ということは、ロシアが今後も兵力を増強する方針であることを、米国の情報機関が掴んでいたことを意味します。ロシアによるウクライナ軍事侵攻は、その前年から米国の諜報能力の高さによって“予言”されるものになっていたのです。

 2021年9月、ロシア軍はウクライナ国境付近やベラルーシ国内で大規模な軍事演習を実施しました。演習は9月16日で終了し、ロシアのセルゲイ・ショイグ国防相はロシア軍に撤退命令を出したと発表していました。

 ところが、この時引き揚げた兵力はごくわずか。多数の兵力が、そのまま居座っていたのです。その後、11月になって、ロシア軍は再びウクライナ国境に近い場所で大規模な軍事演習を開始しました。当時のロシアは、ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)に入ろうとしていることに反対していました。そこで、この軍事演習は、ウクライナを牽制する行動だろうと思われていました。国境近くで軍事演習をすることで隣国に脅威を与え、自国の主張を通そうとする。軍事独裁国家によくあるパターンをロシアも始めたのだろうと見られていたのです。

 しかし、冒頭で紹介したように、米国は、この軍事演習が単なる脅しではなく、侵略の準備であると見破っていたのです。

 ワシントン・ポストの記事は、米国防総省を担当している記者のものでした。米国政府が、有力紙にロシア軍についての情報をリークして大きく報道させる方針を打ち出したことを示すものでした。ロシア軍の意図を事前に暴露し、ロシア軍の行動を牽制する。そんな意図を持っていたことを示します。こんな情報戦が展開されたのです。

 さらに年が明けた2022年2月、米国のジョー・バイデン大統領の声明は、世界を驚かせました。「ロシアがまもなくウクライナに軍事侵攻しようとしている」と断言したからです。この予測がはずれたら、バイデン大統領の信頼は失墜します。そのリスクを冒してまで、戦争が切迫していることを世界に知らせたのです。

 これに対し、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は否定してみせます。しかしバイデン大統領の発言は揺るぎのないものでした。米国は、どうして自信を持ってロシアの軍事行動を予測できたのでしょうか。そこには米国による諜報活動があったからです。

ロシアのウクライナへの軍事侵攻から1年がたつ(写真:Shutterstock)
ロシアのウクライナへの軍事侵攻から1年がたつ(写真:Shutterstock)
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米国の偵察衛星の実力

 米国は宇宙空間に偵察衛星を打ち上げ、常に宇宙から地上を観察しています。どの程度の解像度があるかは秘密ですが、少なくとも15センチ程度の物体は認識できるほどの性能を持っているとされています。通常は地球を周回していますが、緊急に、ないしは継続的に観察しなければならない事象が起きると、宇宙空間を移動して、特定の地上部分を定期的に観測できるようになっています。こういう行動を取ると、偵察衛星は移動のために燃料を噴射するので、宇宙空間にとどまれる期間が短くなってしまうのですが、緊急時には、こういった対応を取ります。おそらく米国は、前年の11月にロシア軍の軍事演習が始まった段階から、地上の様子を注意深く観察していたのでしょう。

 東西冷戦時代、米国とソ連は、互いに偵察衛星を打ち上げ、相手の国の軍事行動を観察していました。ベトナム戦争中、北ベトナムは、米国の偵察衛星の軌道を計算し、衛星が自国の上空を飛行する時間には、軍の行動を停止したり、あえて米国に首脳の行動を見せたりしていたことが、ベトナム戦争が終わってから明らかになりました。

 また、冷戦中はソ連と中国の関係が悪化し、中国軍がベトナムに軍事侵攻した際には(中越戦争)、ソ連が偵察衛星で得た中国軍の行動を逐一ベトナムに伝えていました。ベトナムが中国軍の大軍を相手に善戦できたのは、「宇宙からの眼」があったからなのです。

 東西冷戦が終わっても、米国はロシアを常時観測しています。核大国に異常な行動が見られないか、常にチェックしているのです。その結果、軍事演習をしていたはずのロシア軍の行動に“異常”を発見したというわけです。それは、何か。軍事演習をしていた部隊の横に設置された、多数の野戦病院です。もちろん通常の軍事演習でも負傷者が出ますから野戦病院は設置されますが、この時は規模が違いました。また、輸血用の血液を運搬する自動車も観察されました。ロシア軍が、本格的な戦闘を準備していることが、これで分かります。ロシア軍がついに行動を開始した。宇宙からでも、この程度は分かるのです。

戦闘中に、軍用のノートパソコンを使用する兵士(写真:Shutterstock)
戦闘中に、軍用のノートパソコンを使用する兵士(写真:Shutterstock)
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クリミア半島への軍事侵攻の時の米国の反省

 さらにロシア軍がウクライナ国境沿いに展開を始めたことを受けて、米軍は2021年12月からウクライナ上空にR135電子情報偵察機を飛行させていました。これは、地上の無線交信を傍受する能力を持っています。ロシア国内のウクライナ国境近くにいるロシア軍の司令部が交信している無線を傍受していたのです。ロシア軍が軍事行動に出る場合、当然のことながら無線交信が活発になります。これだけでも「軍事行動が始まる」と予測できます。さらにロシア軍の無線の交信は暗号が使われているはずですが、これも解読できていた可能性があります。

 また、ロシア軍内部にいる、米国が養成したスパイが送ってきた情報もあるでしょう。こうした複数の情報源から、米国はロシア軍の行動を読み切っていたのです。

 ということは、米国が事前にロシア軍の行動について詳細な発表をすると、ロシアは、「どこから情報が漏れているのだ」と疑心暗鬼になり、米軍の情報源探しに躍起になります。つまり米国は、自らの情報源が発覚してしまうリスクを冒してまで、発表を続けたのです。そこには米国の反省がありました。

 ロシアは2014年にもウクライナのクリミア半島に軍事侵攻しました。この時も米国は、事前にロシア軍の行動を把握していましたが、この事実を公表すると、米国の諜報能力がロシア側に判明してしまうと恐れ、公表しませんでした。このためにロシア軍の侵攻を許してしまったという苦い経験があります。そこで今回は、情報源が判明するリスクを冒してもロシア軍の侵攻の意図を公表したというわけです。

東西冷戦が終わった時、「スパイ小説の書き手は失職する」と言われましたが、米中対立やロシアのウクライナ軍事侵攻をきっかけに「新しい冷戦」という言葉が生まれます。スパイの存在はなくならず、AI(人工知能)やITを駆使することで、情報を巡る争いはより一層激しくなっています。混迷の現代史の裏側を池上彰氏が徹底解説。

池上彰(著)、日経BP、1650円(税込み)