ロシアのウクライナ軍事侵攻から1年がたつが、いまだ収束のめどが立たない。当初、軍事行動とともにサイバー攻撃を駆使する「ハイブリッド戦」で優位とされていたロシアだが、実際はそうとも言えない。それはなぜか。AI(人工知能)やITの進化で激化する、各国の情報戦、スパイ合戦について、“スパイオタク”の池上彰氏が解説した 『世界史を変えたスパイたち』 (日経BP)から抜粋・再構成してお届けする。
ロシアがハイブリッド戦で優位に立てず
もしロシアが軍事行動に出る場合、戦車などによる軍事行動とともに、サイバー攻撃も駆使する「ハイブリッド戦」を展開すると言われてきました。ところが今回の戦況の推移をみると、ロシア軍のサイバー攻撃が有効だったとは、必ずしも言えない状態が続きました。
たとえば2014年にロシアがクリミア半島に電撃的に侵攻して占領した際には、ウクライナ政府のコンピューター網にサイバー攻撃が仕掛けられ、政府の機能がマヒしてしまったケースがありました。そこで今回も同じような攻撃が仕掛けられるのではないかと危惧されていたのですが、それほどの被害が出ないで済んでいます。2014年以降、米国がサイバー攻撃を防ぐ技術や装備をウクライナに提供していたからです。つまり、ロシアのサイバー攻撃は、米国が供与した技術や装備によって防がれたというわけです。
実際、どの程度の攻撃が行われたのか。たとえばマイクロソフトは2022年4月27日に、ロシアが行ったサイバー攻撃に関するリポートを出しています。そのリポートによれば、ロシアは実際の侵攻前から、積極的にウクライナのインフラに対するサイバー攻撃を加えていました。分かっているだけで実に237回の攻撃を行い、そのうち約40件はウクライナの数百のシステムファイルを破壊・抹消したと報告されています。
さらにロシアは原発などの発電所、空港などにサイバー攻撃を加え、その直後にミサイルなどの実際の攻撃を加えていたことも分かっています。おそらくこれは、サイバー攻撃だけではインフラ機能を破壊しきれなかったので、実際の火力による攻撃、つまり物理的な破壊に切り替えたのでしょう。
2014年とは違い、ウクライナがロシアのサイバー攻撃を防御できたのは、米国が提供した「相応の備え」があったからこそです。
コンピューターウイルス「ワイパー」とは
米国は、2021年の10月から11月にかけて、陸軍のサイバー部隊や米国政府が業務委託した民間企業の社員をウクライナに派遣し、ウクライナ政府のコンピューターシステム自体にコンピューターウイルスが忍び込んでいないかチェックしました。その結果、鉄道システムに「ワイパー」と呼ばれるウイルスが潜んでいるのを発見、駆除しています。「ワイパー」は、普段はじっと潜んでいるだけですが、外部から指示を受けると突然作動し、システムを破壊するウイルスです。
ロシアがウクライナに侵攻した際、大勢のウクライナ国民が鉄道で避難しました。もしワイパーの存在に事前に気づかなければ、鉄道網は大混乱に陥っていたことでしょう。
イーロン・マスクが「スターリンク」を提供した
今回、ロシアのウクライナ侵攻で、ウクライナにとって極めて役立ったのは、米スペースX最高経営責任者のイーロン・マスク氏が提供した「スターリンク」でしょう。スターリンクは、2000基を超える小型の通信衛星を低い軌道に乗せて地球を周回させています。この衛星群を使うと、ウクライナのどこにいても通信が途切れることはありません。
ロシア軍がウクライナに侵攻し、携帯電話の中継基地などを破壊したため、通信が難しくなりました。そこでウクライナの副首相がツイッター上でマスク氏に助けを求めると、いち早く通信が可能になるようにスターリンクの機器5000基以上が寄付されたというのです。
これにより、ウクライナ軍はどこにいても連絡が取れ、戦闘に大きく貢献しました。実際の戦闘と同じくらい重要なのが情報です。侵攻開始当初から、ロシアは「ゼレンスキーは首都を捨てて逃げだした。国民を見捨てた」という偽情報をSNSやメディアによって拡散してきました。こうしたロシアの情報工作、世論や決定権者に対する影響力工作はソ連時代からの「得意技」で、KGB仕込みの工作戦術を、インターネットと組み合わせることで磨き上げてきました。ウクライナ戦争においても当然、ロシア側の言い分を客観情報のように装って流したり、ウクライナの言い分を否定するフェイク画像をネット上で拡散したりするなどの情報戦を展開しています。ロシアの情報戦は、ウクライナの人々だけではなく、北大西洋条約機構(NATO)諸国の国民はもちろん、日本や、いわゆる西側諸国全体をターゲットとしているのです。
もしスターリンクがなく、ウクライナ発の情報が国民に届かなければ、ウクライナ国民は戦意を喪失していたか、ゼレンスキー大統領を敵視するようになっていたかもしれません。あるいは周辺国も、ウクライナへの支援を打ち切っていた可能性があります。しかしゼレンスキーは、「私は首都にいる」と他の閣僚と一緒にスマートフォンを使って「生中継」し、ウクライナ国民だけではなく、ウクライナを支援する各国の人々を安心させました。ロシアの偽情報を自らの情報によって打ち消すという、ウクライナ戦争の情報戦を象徴するような場面でした。ゼレンスキー大統領による日々の発表が、途絶えることなく国民に、あるいは全世界に届いたのは、スターリンクの働きがあったからなのです。
さらに2022年3月にゼレンスキーが降伏を呼び掛ける偽の動画が、ロシアのSNSで拡散されるという出来事もありました。実際にゼレンスキーがしゃべっているかのような、一見しただけでは見分けのつかない動画です。こうした動画や画像は「ディープフェイク」と呼ばれ、新たな戦争の武器になるだろうとかねて指摘されてきました。「ゼレンスキー降伏勧告動画」は、誰が作ったのか明らかになっていませんが、当然ながらロシアの関与が疑われています。
これまでにも、オバマ大統領やトランプ大統領が実際には言ってもいないセリフを話しているかのような偽動画が作成されてきましたが、まさにこのゼレンスキー動画は、ディープフェイクが「実戦投入」された事例となりました。ただ、これもゼレンスキー自身が「偽物だ」と発信したことで事なきを得ました。もしこうした発信がなければ、戦況が大きく変わっていた可能性さえあります。
さらには、ウクライナの人々が地下ごうや地下鉄に避難を余儀なくされている実態、自分の部屋から爆音が聞こえる動画などを、自分のスマートフォンから発信したことも、国際世論に対する強いアピールになりました。戦時の情報戦は、インターネットやスマートフォンによって、個人個人が発信者となり、さらには工作のターゲットにもなるということを、このウクライナ戦争はまざまざと見せつけたのです。
一般市民が巻き込まれるハイブリッド戦
マイクロソフトは2022年6月、「ウクライナの防衛―サイバー戦争の初期の教訓」というリポートを発表しています。ここでは「各国は最新テクノロジを駆使して戦争を行い、戦争そのものがテクノロジの革新を加速する」としたうえで、ロシア対ウクライナのサイバー空間の戦いから得られた結論を示しています。
リポートでは4つのポイントを取り上げています。第一に、先にも述べた「ワイパー」攻撃のような、事前に仕込まれた脅威を見つけることの重要性。第二に、肉眼で見えないサイバー上の脅威に対する防御を、AIなどを駆使して迅速に行うことの必要性。第三に、ウクライナ以外の同盟国の政府を標的としたサイバー上の攻撃やスパイ活動に対する警戒。そして第四に、サイバーを介したネットワーク、システムの破壊などの攻撃や情報窃取だけでなく、情報戦・影響力工作に留意することを挙げています。
国境もなく、目に見えない状態で日常的に行われているサイバー空間でのつばぜり合い。実際の戦地からは遠く離れている日本も、サイバー戦争については全くひとごとではありません。
特に4つ目の影響力工作には注目する必要があります。マイクロソフトの分析によれば、開戦後にロシアは自国を有利にするためのプロパガンダ情報を拡散し、その拡散度合いは開戦前と比べてウクライナで216%、米国で82%拡大した、と報告しています。しかも直接戦争にかかわる話題だけではなく、ロシアが「ワクチン脅威論」を流布し、他国の国民に自国政府に対する不信感を植え付けようとしていたことも指摘されています。
目に見えないサイバー空間で、実際に戦争を行っているわけではない国に対しても、日常的に攻撃が行われている実態――。ハイブリッド戦の時代は、軍事手段と非軍事手段の区別だけでなく、戦時と有事、さらには戦争当事国とそうでない国の境目をなくすものであり、攻撃対象も、かつてのスパイが工作対象とした政府や軍の要人、メディア関係者などに限らず、「一般市民」までも巻き込むものであることに留意しなければならない時代なのです。
池上彰(著)、日経BP、1650円(税込み)