スウェーデンの新時代の知性クリスティアン・ロン氏による新刊『 ダーウィンの罠 私たちはなぜ重要な選択を間違い続けるのか? 』(夏目大訳、日経BP)から、自己の利益を追求することが、なぜ全体の危機につながるのかを解説する。本文から再構成して紹介する第3回。

 利己的なのは本当に悪いことか

 漁業の例では、選択圧により、短期的な生き残り確率を高めるべく利己的に行動する漁師が有利になって、漁業資源の枯渇という皆にとって悪い結果を招くことになった。しかし、状況によっては、裏切りの行動が――少なくとも理論上は――良い結果につながることがあり得るとは言われる。

漁業の例では、限られた漁業資源の中で、あるプレーヤーがどう行動するかによって、他のプレーヤーの行動も拘束されてしまう。協調の行動を取るためには、経済的インセンティブを設けるなど、ある種、プレーヤーにとって利益となる仕組みをつくることが求められる
漁業の例では、限られた漁業資源の中で、あるプレーヤーがどう行動するかによって、他のプレーヤーの行動も拘束されてしまう。協調の行動を取るためには、経済的インセンティブを設けるなど、ある種、プレーヤーにとって利益となる仕組みをつくることが求められる
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 アダム・スミスのいわゆる「神の見えざる手」理論だ。一人一人が自己の利益のために行動すると、それが知らず知らずのうちにコミュニティ全体の経済を良くすることにつながるという。皆が利潤を追求すると、結果的に、必要とされる商品やサービスを提供する企業の活動が盛んになる。皆の需要を満たす商品やサービスが多く提供されると、社会全体がより幸福になる。つまり、利己的な行動は必ずしも悪いこととは言えないというわけだ。

 だが実際には、ほとんどの場合、利己的な行動はやはり悪であると私自身は考えている。たとえば、ある企業が社会に好影響を与えることを期待して、有用な商品――超高機能なスポンジ、など――を製造、販売したとする。企業ではおそらく、その商品の社会に与えた影響を金銭で測ることになるだろう――そのスポンジが多く作られ、多くの人に行き渡るほど、それだけ社会への好影響が大きくなると考えるのだ――そのため、当然、商品による利潤を最大化することに資源の多くを使うことになるだろう。一方で、従業員福祉、消費者保護、環境保全など、他のことに回る資源は少なくなる。この企業が自らの利潤を追求することで、社会全体は確かに幾分かの利益を得ることにはなる――その素晴らしいスポンジのおかげで食器がこれまでより綺麗になるという利益はあるだろう――。だが、企業が利潤の追求以外のことに無関心であれば、その悪影響も同時に社会全体に及ぶのだ。

 資源の限られている世界――我々の世界がそうだ――では、誰かが何か一つに注力して他のすべてに無関心になると、当然のことながら、関心を向けなかったことに対しては大いに害をもたらすような行動を取ることになるだろう。環境下での短期的な生存のみを重要視して、その他の重要な目標――幸福や健康、安寧など――を疎かにすれば、疎かにした目標に反するような行動を取る結果になるのは当たり前だろう。誰かがただ自分の生存のみを目指して行動すれば、ゲームはいわゆる「ゼロサムゲーム」になることが多い。つまり、勝つか負けるかしかなく、勝たないことはすなわち負けを意味する、というゲームだ。この戦略を選ぶプレーヤーがある程度以上多ければ、環境全体が皆にとって悪いものになる。

 同様の現象は自然界でも見られる。動物界では、すべての動物が皆の幸福ではなく、己の繁殖のために動いている。そのため、絶えず冷酷で情け容赦ないことが行われるのだ。リチャード・ドーキンスは著書『遺伝子の川』(垂水雄二訳/草思社文庫/2014年)の中で次のように雄弁に語っている。

自然界における苦しみの総量は、我々が普通に想像する範囲を大きく超えている。私がこの文を書くほんのわずかな時間にも、何千という数の動物たちが生きたまま食われている。生き延びるために必死で逃げている動物、恐怖に怯えてうめき声をあげている動物も無数にいるし、体内の寄生生物にゆっくりと食われていっている動物もいる。飢えや渇き、病のために死にかけている動物も種を問わず多数いるだろう。


 アダム・スミスの「神の見えざる手」理論には既に言及した。これは、個人がそれぞれ理性的に自らの利益を追求すれば、それが社会全体のためになるという理論である。だが、スミス自身も、この理論が成り立つのは、適切な規範と制度が存在する場合のみだと認めている。何の制限もなく皆がただ自己の利益のみを追求し続ければ、社会は崩壊する危険性が高い。

「ゼロサムゲーム」になると、たいてい悪い結果につながる

 各人が狭い尺度での成功のみを目指して行動すると、ゲームが「ゼロサムゲーム」になることが多い、というのはすでに書いた。しかし、その行動が良くない理由はそれだけではない。より重要な理由は、イギリスの経済学者、チャールズ・グッドハートの提唱した「グッドハートの法則」に集約されている。「どのような指標も、それが目標になった途端、それは良い指標ではなくなる」ということだ。そういう例は数多く存在する。駆除したネズミの尻尾の数でペスト対策の成果を測る、あるいは、警察の交通課の仕事ぶりを違反切符を切った枚数で評価する、などがその事例である。ある指標を過度に重要視し、その環境における成功を測る唯一の尺度であるかのようにしてしまうと、そのゲームに参加するプレーヤーたちはいずれ、その指標を高めることだけに適応することになる。それはほとんどの場合、全体としては悪い結果につながるのだ。

自己の利益だけを追求すると、全体にとっては悪い結果につながることが多い。どのような指標であっても、それが目標になった途端、プレーヤーたちは数値を高める行動をとるようになってしまう(写真:Best/stock.adobe.com)
自己の利益だけを追求すると、全体にとっては悪い結果につながることが多い。どのような指標であっても、それが目標になった途端、プレーヤーたちは数値を高める行動をとるようになってしまう(写真:Best/stock.adobe.com)

 私たちはそういう現象を日頃からよく目にしている。ビジネスの場では、利益が唯一の成功の指標とされがちなので、その環境への適応として、怪しげな会計処理が行われることは珍しくない――長い間それが続くと不正直が会社の文化となる。不正が発覚すれば、会社全体が崩壊することにもなるだろう。政治の世界では、得票数が成功の指標となるため、票さえ取れればいいと非倫理的な手段を使う人も現れる。その指標が目標となっていることで、政治全体が腐敗するだけでなく、法律を制定し国民に奉仕することよりも再選されることばかり考える政治家も多くなる。科学界でも同じようなことはある。どれだけ多くの重要な発見をしたかで成功が測られるために、集めたデータから自説にとって都合の悪いものを意図的に取り除く研究者も現れる。これも環境に適応するための行動だろう。しかし、真に有用な科学的知見を追求するという本来の目的にとっては害になる行動である。正直な研究者が相対的に成功していないように見えてしまうし、研究不正が発覚すれば、科学界全体が危機に陥ることになる。

 単一の指標を目標にするようなゲームを始める人間は悪人なのかもしれないが、ここではその人たちの倫理性(のなさ)は重要ではない。これは構造的な問題だからだ。利己的な行動を促す選択圧から逃れることがいかに難しいかをゲーム理論は教えてくれる。一人一人は協調したいという気持ちを持っていたとしても、生存のためには裏切りの行動を選択せざるを得ない。どうしても時とともに裏切りを選択する人が集団の中に増えていくのだ。結果、「ダーウィンの悪魔」は、ビジネスにおいても、恋愛においても、政治においてもその権力をほしいままにしている。

*ダーウィンの悪魔とは、他者に悪い影響を与える行動を適応的にするような選択圧のこと。ダーウィンの天使とは、他者に良い影響を与える行動を適応的にするような選択圧のこと。
斎藤幸平氏推薦!「短期的な成功を競うほど、社会は破滅へと近づく――それが『ダーウィンの罠』だ。本書は、進化の力と資本主義が結託する危うさを暴き、私たちに協調にもとづく新たな社会像を迫っている。絶滅の回避はまだ可能だ」。私たちはなぜ、短期的な成果にすがり、長期的な展望を見失ってしまうのか。企業の不正から、核兵器やAIの進化まで、経済学の理論などを用いて、スウェーデンの気鋭の知性が、よりよい選択をするための方法を探る。

クリスティアン・ロン(著)、夏目大(訳)、日経BP、2530円(税込み)