ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:「極端だよね…」夫も呆れた作家の「運動する気がしない」理由)は、なぜ芦沢さんがまったく運動しない人間になってしまったのかという話でした。今回は、「最近読んだ中で一番面白かった本」のような選書の仕事が想像以上に難しいという話です。芦沢さんはなぜ、選書でつい格好つけたくなってしまうのでしょうか?(編集部より)
選書企画は想像以上に難しい
ここ数年、選書系の仕事を依頼されることが増えた。
選書系の仕事とは、「最近読んだ中で一番面白かった本」「○○にオススメの3冊」「人生を変えた1冊」など、出されたお題にしたがって選んだ本を紹介する企画のことだ。
仕事とは書いたものの、書店さんからのお願いだったり、新刊インタビューの中の1コーナーだったりすることもあり、それ自体に報酬があるとは限らない(プロモーションの一環としてのインタビューは、多くの場合無償である)。
それでも私が基本的に引き受けることにしているのは、書店さんにはいつもお世話になっているし、インタビューをしてもらえるのがありがたいからでもあるが、それ以上に、好きな本の話をすること、人が好きな本の話をしているのを聞くことが好きだからだ。
世の中には面白い本が一生かかっても読みきれないほどたくさんあって、読んだ本がものすごく自分に刺さると、その本に出会えた奇跡に感謝する一方で、「この本に出会えなかった世界線もあったんだよな……」と怖くなる。
自分自身が数々の選書企画のおかげで本との出会いに恵まれてきたこともあり、自分も少しでも恩返しがという思いがあるのだ。
だが、いざ作家として選書企画に参加するようになって思ったのは、これは想像以上に難しいな、ということだった。
「最近読んで一番面白かった本」は、まだ「最近」の定義が曖昧だからいいにしても、「オールタイムベスト」を尋ねられると困ってしまう。何度も読み返すほど大好きで、自分の人生にとっても特別な物語はもちろんあるが、それは1冊ではなく、時によって「今はこれ」というものが入れ替わるからだ。
「一番」「ベスト」という言い方も悩ましい。私はそもそも好きな本に順位づけはせず、あえて順位をつけろと言われても同率1位だらけになってしまう方なので、その中から1冊を決めなければならないとなると、落ち着かない気持ちになる。何かを選ぶということは何かを選ばないということであり、「今回選べなかった本たち」のことが頭をよぎってぐるぐるしてしまう(結果、同じお題でも企画によって別の本を選んだりするので、おまえのオールタイムベスト、一番は何冊あるんだ、ということになる)。
また、「○○にオススメの3冊」というタイプのお題も簡単ではない。
「子育て中のママにオススメ」「中高生にオススメ」「落ち込んだときにオススメ」など、ターゲット層や用途(?)が限定されている分、選びやすいようにも思えるけれど、まず大抵の場合、3冊では収まらない。
さらに、「どういう意味でオススメなのか」を考えると、選ぶこと自体へのハードルがどんどん上がっていく。
たとえば「子育て中のママにオススメ」というお題で思い浮かびやすいのは「育児にまつわる物語」だが、子育てのポジティブな部分に光を当てる作品を読んで元気が出ることもあれば、ネガティブな部分を炙(あぶ)り出すような作品に救われることもあるだろう。
現実で大変な思いをしているから、物語の中でくらい現実を忘れさせてくれるような壮大なファンタジーが読みたいという人も、隙間時間でしか読めないから、ショートショートくらいの長さの話がたくさん入った本がいいという人もいるに違いない。
結局、「子育て中に不安になったときに、お守りになるような本」「隙間時間で気分転換できる本」など、自分なりのサブテーマを設定しなければ、お題に応えることができないのだ。
作家として、つい格好つけたくなってしまう
そしてもう一つ、作家として選書をする上では別の問題もある。
これは表立って書くのは恥ずかしいので本当は書きたくないのだが、このエッセイ連載から赤裸々さを取ったら何も残らないため正直に書くと、「へーこの人はこういう本を紹介するんだ」という他者の目が気になって、つい格好つけたくなってしまう、という個人的な問題だ。
ベストセラーばかりを紹介したら読書の幅が狭いように思われるのでは、という気がして、「この人は通だなと思われたい」という自分の欲望が脳裏にちらつく。それで、ある程度の読書経験を積んでいる方が楽しめそうな作品、少しマニアックな作品を紹介したくなってしまうのである。
無論、選書をする際のスタンスは人それぞれだし、「普段読書習慣がない人にも楽しんでもらえるだろう本をオススメする」という考え方も、「せっかくだから大々的には書店で展開されていない良書に出会ってもらえるような選書にしたい」という考え方もアリだろう。
その選書企画がどういう趣旨、媒体のものなのかによっても変わるはずだ。たとえば、ファッション誌の1コーナーなら読みやすさやとっつきやすさを重視して選び、本の紹介をメインにしたWEB記事ならマニアックな本も入れてみる、書店の店頭ならできるだけ新刊中心、というように使い分けるのが選者としてはいいのではないかという気がする。
だが、私は自分に対して「これは自分の読書の幅をアピールするための選書になっていないか?」をかなり意識的に問いかけ続けないと、すぐに見栄を張ろうとしてしまう。
では、なぜ私はそんな見栄を張ろうとしてしまうのか。
それは、私に自分の読書の幅が狭いというコンプレックスがあるからなのだった。
私は小学生の頃は主に古典と言われる作品を国内・海外を問わずに読み漁っていたものの(ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』とか、ドストエフスキーの『地下室の手記』とかで読書感想文を書いていた)、中学生になると、図書館のヤングアダルトコーナーを片っ端から読み、ノンフィクションも小説10冊につき1冊くらいの割合で読んでいくようになった。
高校時代には、小説の新人賞に応募するようになったのをきっかけに文芸誌にもハマり始め、特に好きだった『文藝』のバックナンバーを閉架のものも含めて順番に読んでいったり、文芸誌で知って好きだと思った作家の本を図書館にあるだけ全部読んでいったりするようになったが、そうした経緯もあってヤングアダルトコーナーにない小説は、いわゆる純文学と呼ばれるものをメインに読んでいた。
一般書のエンタメ(この括(くく)り方自体がかなり乱暴なので抵抗を覚えるのだが)をたくさん読むようになったのは大学に上がってからだ。とりわけ夢中になったのはミステリで、面白い本に出会うとその作家の既刊をひたすら読むというのを繰り返すようになったのだが、自分が作家としてデビューしてから、自らの読書歴にかなり偏りがあることに気づいた。
文芸誌や書店の話題書のコーナーで好きな作家を見つけるケースが多かったこともあり、翻訳ものをあまり読んできていないのである。
「よく知らないと楽しめない」という空気はよくない
しかも、私がデビュー後に書くようになったミステリというジャンルには、「過去作をどのくらい履修しているか」を問われるようなところがあった。あえてざっくり言うと、既に他の誰かがやっているトリックを知らずに使ってしまうとまったく評価されないからだ(最悪の場合、剽窃と見なされることもある)。
ミステリにおける課題とそれへのアプローチは、古今東西の作家が積み上げてきているものである。
(ミステリは、犯人当てなら「フーダニット」、手法・トリック当てなら「ハウダニット」、動機当てなら「ホワイダニット」というように、「何を謎に設定しているか」に注目されることが多いが、書き手はどうやって斬新なロジックやトリックや動機を創り出せるかに腐心する。トリック一つを取っても、密室トリック、アリバイトリック、叙述トリックなど様々な種類があり、「これはすごい」というようなトリックが登場すると話題になるため、同じことの繰り返しにならないよう、どう発展させていくかで腕を競うのだ。少々マニアックな話になるが、たとえば「後期クイーン的問題」のようにミステリファンの間で認識されている共通課題にどうアプローチするか、などの着目点もある)
つまり、トリックが過去作と似てしまっていても、課題の本質を理解した上で新たに独創的なアプローチをしていれば評価されるが、そもそも過去にどんなトリックの作品が世に出ているか、課題に対してどんな議論がされてきたかを知らなければ、新しいアプローチの方法も見つかりにくい。よく知らないがゆえに結果的に斬新なアプローチになった、ということは往々にしてあるが、次の作品でも別のアプローチをたまたま新しく生み出せるか、となると運の要素が絡んでくる。
もちろん、ミステリは新しさがすべてではないし、読者として作品を楽しむなら「履修」なんて概念は不要だと私は考えている。古今東西の作家が積み上げてきたものを知った上で読むと面白さが倍増する作品もたくさんあるが、「よく知らないと楽しめない」という空気を醸成してしまうのは、ミステリというジャンルにとっていいことではないだろう。
何も知らないで読んだらびっくりした、というのはむしろ最高の楽しみ方ですらある。作品単体を楽しむだけでなく、その作品のミステリ史における位置づけを理解した上での楽しみ方もしたい、という人は評論やブックガイドを読むのもオススメだが(ハッとするような視点を与えてくれる評論、ブックガイドはたくさんある)、作品単体を楽しんでいる人を「その読み方は浅い」とバカにするような風潮にはなってほしくないと一人の書き手としては思っている。
実のところ、私自身ミステリを書いてはいるものの、斬新なトリックやアプローチが評価されるタイプの作家ではない。毎回自分なりの課題設定をしているが、それはミステリのアイデアというより、小説としての描写の精度や物語構造の工夫といった技術的なものであることが多い。
けれど、それでも翻訳ものの読書歴が浅いことにコンプレックスがあるのは、デビューしてからミステリに限らずにいろいろな翻訳ものを読む中で、「こんな小説の書き方があったのか」と驚くことが何度もあったからだ。
今までに見たことがない描写や言い回し、太字や傍点の使い方、物語構造や文章構造、視点の距離感や独特なユーモア――それはまさに、私が課題として取り組みたいことの見本市のような場所だった。
私は、今までこれらに触れずに小説を書いてきたのか、と恥ずかしくなった。しかも、デビュー前の読書歴については方々で語っているため、私が翻訳ものに疎いことは知られてしまっている。
それで、デビュー後には翻訳ものも読んでいますよ、とアピールしたくなり、選書企画に参加する際にも雑念が混じってしまうのだ。
さて、ここまで胸中を明かしてしまったからには、もはや選書企画も怖くないはずだ。
これからは、自分のアピールという雑念にとらわれることなく、好きな本を自由に選んでいけるのではないかと期待している。
ただ、「オールタイム」「一番」「どういう意味でオススメなのか」問題についてはまったく解決していないため、今後もお題を与えられるたびに本棚の前で唸(うな)り続けることは変わらないのだろうが。
