刺し身はいずれ日本人の口に入らなくなる、そんな噂がささやかれている。欧米の和食ブームだけではなく、中国、タイ、インドネシアなど新興国の中間層から魚介類の需要が高まり、価格の急騰につながっているのだ。このままでは、高くても魚を食べたい外国に対して、安いものしか買わない日本の「買い負け」が顕著になる。刺し身や焼き魚が高級品になる未来に対し、私たちは何ができるか。『 安いニッポン 「価格」が示す停滞 』(日本経済新聞出版)より抜粋する。
「安いニッポンが続くと、庶民の味方だった刺し身に、手が届かなくなる日が来るかもしれない」
BNPパリバ証券の河野龍太郎チーフエコノミストはそう危惧する。
水産庁の年次報告「水産白書」によると、「買い負け」という言葉が話題になったのは、2003年ごろのこと。
この頃から欧米やアジアで健康志向が高まり、和食ブームで高級食材としての魚の需要が急増。その結果、水産物が高値で取引されるようになり、同水準の価格を出せない日本の業者が買い付け競争に敗れて思うように魚を調達できないようになっていた。
2006~07年ごろからマスメディアでも取り上げられ、国際相場に日本がついていけない状況は、今日に至るまで変わっていない。
魚の需要増、中国で9倍、インドネシアで4倍
水産大手マルハニチロによると、2017年の水産物の価格は03年に比べて6割ほど高くなった。ひとえに世界的な需要が高まったためだ。
水産庁の調べでは、2018年に世界でとれた水産物は、天然が約9800万トン、養殖は約1億1150万トンで、合計して約2億トン。そのうち食用は1.5億トン。地球人口が76億人で、1人当たりの消費は20キログラムを超えたため、単純計算すると全人口の消費量は1.5億トンで、供給量とほぼ相殺される計算だ。
世界の1人当たり消費量は過去半世紀で2倍に増えた。先進国の和食ブームだけでなく、魚は高たんぱく質のため消費が推奨され、中間層の所得が増えた新興国で需要が高まっているのだ。「生活水準の向上に伴い、中国では約9倍、インドネシアでは約4倍になった」(水産庁)

その一方で日本の消費量は減り続けている。
「こんなに高いのに、こんなに買われているとは……」
マルハニチロの幹部は以前、中国・四川省成都の量販店を視察したときに目を疑った。内陸にもかかわらず広々とした魚売り場に、高級な白身魚の「メロ」がたくさん陳列されていたのだ。
メロは日本では「銀ムツ」と呼ばれていたことがあり、脂が乗っていて味噌煮や煮付け、洋食にも合う。近年米国や中国で人気に火がつき、1990年代は1キロ3ドル前後だった国際相場が、2019年ごろは35ドル前後に上昇している。まさに高級魚だ。
それが中国内陸部のスーパーに並び、多くの人が手にしてレジへと向かっていく。中国中間層の成長を印象づけた出来事だった。
タイの日本食チェーン 3000円弱のホッケ定食が一番人気
中国だけでない。
マルハニチロの池見賢社長はタイに駐在していたとき、バンコクに出店している日本の定食チェーンに行って驚いた。日本では約900円のホッケの定食が、3倍の価格だった。
にもかかわらず、タイ人の間で一番人気だったのだ。タイの成長スピードを間近で感じたという。
新興国での需要高騰は、買い付け価格に影響を及ぼす。
マルハニチロの池見賢社長は「海外の消費者は高い値段を払ってでも食べようとするが、日本人はデフレで安いモノしか求めていない。魚離れもあって消費者に買ってもらえないことで、国際相場で買い付けられなくなっている」と説明する。
例えばその割安感から、回転ずしのネタでは9年連続首位という不動の人気を誇るサーモン。
ノルウェー産サーモンの輸入価格は2010年ごろまで1キログラム当たり700円台で推移していたが、19年は1037円と高い水準となった。
昔は生サーモンを食べてこなかったアジアの胃袋を、がっちりと捉えたからだ。
エビの代わりにサーモンをパクチーと包んだ生春巻き(ベトナム)、ナンプラーとあえたスパイシーなサラダ「ヤムサーモン」(タイ)。マレーシアでは日本の正月に当たる「春節」のおせち料理に、真ん中にサーモンの盛り合わせが陣取っている。

中国では前菜にサーモンが出てくるほか、すし店もピンク一色だ。「コクのある脂が大好きで、サーモンだけ食べて帰るときもある」(上海に住む30歳女性の梢さん)
こういった新興国が猛烈な勢いで買い付け、国際相場が高騰してきた。
マルハニチロで水産部門を統括する粟山治専務は「アトランティックサーモンを焼いて食べる洋食も米国などで人気が出始めた。もっと世界的に普及すると、日本に来なくなってくる可能性が高い」と危機感を抱く。
サンマが日本人の口に入りづらくなる日
買い負けによる供給減を減らそうと、同社が力を入れるのが完全養殖だ。
通常のマグロの養殖は、天然マグロの子どもから大きくするが、完全養殖は卵からふ化させるため天然資源に依存しない。一方で餌をやる時期も1年長くかかるため、人件費と餌代といったコストがかかる。欧州はサステナブルな経営戦略に付加価値が付き、高く売れる。
だが「日本では『すばらしい』と言われるけれど、全然売れないことが多い」(池見社長)。「日本は環境意識が低いため完全養殖などの『付加価値』を認めてもらいにくい土壌があり、値上げにつながりにくい。日本市場にも環境意識を取り入れ、付加価値に対価を払ってもらえるようにすべきだ」
新型コロナウイルスの影響は水産物にも影を落とす。
近年は日本でもインバウンド(訪日外国人)向けの宴会で、水産物がよく使われていた。だがインバウンドの需要喪失とともに、余った高級魚が「今まででは考えられない安値で」(量販店大手)大量にスーパーで売られ始めたのだ。
同様の構図は米国でも見られるという。
米国のレストランで高級魚のメロを食べると60~70ドルほどだが、飲食店の営業禁止により、35ドルだった国際相場は17ドルほどになった。
魚の値下がりは全世界共通だが、受け止め方には違いがあるようだ。
「それでも日本人は17ドルも出せない。せいぜい12~13ドルだろう」(水産大手)
マルハニチロの池見社長はこう解説する。
「先進国と新興国の両方で需要が伸びて水産物の国際相場が高騰し、日本が付いていけない状況が長らく続いている。この買い負けの背景には、為替では埋められない差が生じてきている。日本はデフレで安いモノしか求めなくなり、魚離れもあって消費者に高値では買ってもらえないためだ。このままではどんどん、日本が置いてきぼりになってしまい、庶民の味方だったサンマだって近い将来は日本人の口に入りづらくなるかもしれない。
日本の購買力を上げるには、所得を上げるしかない。同時に、魚離れを食い止めるには、我々が調理しやすい商品を売る工夫も必要だろう。『1匹を処理するのはゴミも出るし大変だ』という消費者心理を払拭するため、骨がゼロの切り身や、下味付きで調理が簡単な商品を提供していきたい。消費者に認めてもらう商品を出し、しかるべき価格で販売できるのが理想的だ」
「安さ」は生活者から見ると「生活しやすい」が、供給者の観点では収益が上がらない。
すると一般的に賃金は据え置かれ、消費が動かず需要が増えない悪循環に陥り、企業は最低限まで生産コストを下げて値下げに走る。こういった状況で、世界の秩序を変えるイノベーションが生まれるだろうか。
「日本の常識」は世界の常識ではない。
安いニッポンの一つひとつの現場は、ミクロでは合理的でもマクロではそうならない「合成の誤謬(ごびゅう)」が生んだ縮小均衡という呪縛に閉じこもっていていいのかという疑問を、私たちに投げかけている。
[日経ビジネス電子版 2021年5月11日付の記事を転載]
「失われた30年」を経て、いつしか物価も給与も「安い国」となりつつある日本。コロナ禍を経てこのまま少しずつ貧しい国になるしかないのか。停滞から脱却する糸口はあるのか。日本経済新聞1面および日経電子版に掲載され、話題を呼んだ記事をベースとして、担当記者が新たに取材を重ね書き下ろしました。
100円ショップ、回転ずし店、シリコンバレー、インド、アニメ制作会社、京都、ニセコ、西川口等、数々の現場取材から「安いニッポン」の現状を伝えるほか、各界のキーパーソンにインタビューし、国、企業、個人がこれからどうすべきかを考えます。