人間には、思考、学び、言葉などすばらしい能力が備わっている一方で、「分かっていても間違える」「偏った視野から抜け出せない」「何回言っても伝わらない」をはじめ、日々の悩みに直結する特徴もあると語り、数多くのベストセラーを生み出しているのは、認知科学者の今井むつみさん。今井さんの書籍をきっかけに、認知科学への興味が高まった方も多いのではないでしょうか。本連載では、認知科学をさらに広く深く理解したい人に向けて、今井さんが考える「次に読んでほしい本」を紹介します。3回目は、「アブダクション推論」について。人間独自の「飛躍する思考」の特徴が分かる3冊です。
「目からうろこ」のアブダクション推論への気づき
今回紹介していくのは、私がさまざまなところで発信している「アブダクション推論」についての理解が深まる本です。
1冊目は『
アブダクション 仮説と発見の論理
』(米盛裕二著、勁草書房、2007年)。「新装版」に解説を書かせていただきました。
本書は、「アブダクションに何ができるのか」、そして「演繹(えんえき)推論や帰納(きのう)推論とどう違うのか」ということを分かりやすく解説しています。著者の米盛裕二氏は、アメリカの論理学者で科学哲学者であるチャールズ・パースの研究者です。パースは、プラグマティズムの創始者としても知られています。
私はこれまで、パースの著作や、パースについて解説している本をある程度読んではきたのですが、ものすごく読みづらく、正直言うとそれらを読んでもピンときていませんでした。そんな私にとって、この本はまさに「目からうろこ」でした。子どもが言葉を覚え、知識を蓄えていくということそれ自体がアブダクション以外の何物でもないということに気づかせてくれたのです。
アブダクションについてお話しする前に、まず、基本的な2つの推論について簡単に説明しておきましょう。「演繹推論」と「帰納推論」です。
演繹推論は、「ある規則に対して特定の事例がのっとっているか、いないか」などを判断します。例えば、「すべての生き物は水を必要とする。バラは生き物である。それゆえにバラは水を必要とする」という三段論法に対して、この結論が正しいか否かを判断する。それが演繹推論です。
演繹推論はこれまで「推論の王者」とされてきました。ただ、「この結論は正しい」と判断することはできますが、新しい知識をつくることはできません。
帰納推論は、事例のパターンから一般的な法則を導き出す推論です。「バラが枯れた。ヒマワリも枯れた。チューリップも枯れた。ゆえにすべての花は枯れる」。これは3つのパターンから最後の一般法則を導き出す帰納推論です。
近年の生成AIの飛躍的な進歩にも、大規模なデータを使った統計的な帰納推論があります。帰納推論は、複数のデータからある種のパターンを見つけて予測するものです。予測はしますが、やはり新しい知識をつくることはできません。人間の行う推論でもっとも有名な二つの種類の推論――演繹推論と帰納推論――はどちらも、新しい知識を創造することはしないのです。
そもそも「アブダクション推論」とは何か
アブダクション推論は、短く定義すれば、「正解が一義的に決まらない、論理の跳躍を伴う非論理推論」です。「正解が定まらない」「論理の跳躍を伴う」などというと、あまりいい推論には思えませんよね。でもこのアブダクションこそが、科学、芸術、そして言葉の習得も可能にしています。
先ほど、生成AIが行っているのは帰納推論と書きました。例えば高画質のネコの写真(ある情報)が1枚あり、その写真の一部(例えば鼻の部分)が欠けているとします。その欠けている部分を、今までのネコの写真を参照し、そのパターンから何がそこに入るのかを推測することができる。これは帰納推論です。ChatGPTなどの生成AIはこの手の作業を難なくこなしますが、その背後には膨大な量の情報があります。ネコの写真の大規模なデータベースがあって初めて的確に写真の穴を埋めることができます。
一方、人間が子どもの頃から行っている推論にも、生成AIが行っているような「情報を組み合わせて全体像をつくり上げる」面があります。ただし、全体像をつくり上げるための情報の扱いについて、生成AIとははっきりとした違いがあります。それは、生成AIほどの大量の情報を脳に保持することはできないということ。幼い子どもならばなおさらです。
大量の情報を保持することのできない私たち人間は、少ない情報と、生物として生まれ持った知覚能力や認知能力を駆使して、足りない部分を推測していきます。例えば、これまでに2、3匹しかネコに会ったことがなくても、極端な場合はたった1回の遭遇経験だけでも、それを使って全体を推測してしまいます。見たことのないちょっと変わったネコ(例えばツシマヤマネコやマヌルネコ)も「ネコ」と判断する一方で、チワワのような小型犬は「ネコの仲間ではない」と自然に判断するのです。
数少ない個々の「点」でしかない情報(数匹のネコの情報)を、思い切り広げて「ネコ」という「面」の情報(一般的なネコの情報)に拡大することができる。これが人間のしているアブダクション推論の特徴のひとつです。

「点」を「面」にまで広げて知識の拡張をしたり、不完全な情報から元の姿を復元したりすることで、知識の再構築ができる。情報をたくさん保持できない私たちは、このような工夫で言葉を覚え、知識を拡張していきます。
そこには創造の余地がありますし、とても実用的でもあります。なぜかといえば、実世界においては、情報がすべてそろっている場合のほうが少ないからです。虫食いの情報しかないなかで考え、決定していかなければいけない際に利用できるのがアブダクション推論なのです。
私たちはものすごい知の財産を、文明をつくり上げてきました。その背後にあったのは、AI並みの情報処理能力ではありません。たくさんの情報処理ができないからこそ、アブダクションという独特の思考スタイルが、知を創造してきたのではないかと、私は考えているのです。
100万回生きることは、100万回死ぬことである
前回 、言葉にすることで情報が減ってしまうという話をしました。しかしそれは、言葉が役に立たないものだということではありません。言葉は記憶を助けてくれます。この、言葉の記憶を助けてくれる役割を教えてくれるのが、『 100万回死んだねこ 覚え違いタイトル集 』(福井県立図書館著、講談社、2021年。2024年に講談社文庫に収録)です。この本は福井県立図書館のカウンターで出合った「覚え違い」をまとめたものであり、アブダクションの生きた事例集にもなっています。
そもそも、この本のタイトル自体が「覚え違い」です。もとになっているのは佐野洋子さんの絵本『100万回生きたねこ』(講談社)。ただ、書名としては確かに覚え違いではあるのですが、「100万回死んだ」のと「100万回生きた」のでは、意味のレベルではほぼ同じです。
同様の覚え違いとして本書で紹介されているのが、『ストラディバリウスはこう言った』です。図書館のカウンターで「『ストラディバリウスはこう言った』という本はどこですか?」と聞かれたら、あなたならどの本をご案内しますか? ストラディバリウスというのは、超高級バイオリンに代表される弦楽器ですが、本書では、この方が探していた本として『ツァラトゥストラはこう言った』(ニーチェ)が挙げられていました。
ちなみにツァラトゥストラは、実在したゾロアスター教の預言者のドイツ語名です。このように、意味がかけ離れていたとしても、私たちはアブダクションによって、正しい答えに近づくことができるのです。ここで司書さんが行っていたのは、アブダクションの中でも、誤った情報を自分の知識によって修正し、もとの形を復元するという推論です。
もし私たちの記憶が、写真のように撮影した画像をそのまま取り出すものであれば、このような間違え方をすることはありません。なぜなら、画像情報において『100万回死んだねこ』と『100万回生きたねこ』は、全く違うものだからです。
しかし人間には言葉があるために、その意味を考えてしまいます。すると途端に、「100万回死んだ」と「100万回生きた」がうまく区別できなくなってしまうのです。
一方で、私たちの記憶が画像そのままではないために、「『ストラディバリウスはこう言った』という本はどこですか?」と尋ねられたときに、熟達した司書であれば『ツァラトゥストラはこう言った』ではないかと推論することができます。「覚え違い」を聞いて正しい本を見つけることができるのは、誤ったデータをスキーマによって修正してもとの正しい形を復元するアブダクションの力があるからなのです。
人間の記憶の特徴を知ることができるだけでなく、熟達した司書のアブダクション推論も味わえるという意味で、この本は「覚え違いが愉快」という以上の面白さがあるといえます。
アブダクション推論がもたらす無限の可能性
最後にもう1冊、子どもの言語の習得とアブダクション推論との関連性が見える本を紹介します。私が監修をしていて吉本ユータヌキさんのイラストがかわいい『 きょう、ゴリラをうえたよ 愉快で深いこどものいいまちがい集 』(水野太貴著、KADOKAWA、2024年)です。
本書は水野太貴さん、堀元見さんの「ゆる言語学ラジオ」というYouTube、Podcast番組の「赤ちゃんミステイクアワード」というコーナーが基となっています。リスナーから募集した、子どもの「いいまちがい」を集めたものです。
子どもの「いいまちがい」は一般的に、単に「かわいい」とか「勘違い」と受け取られるものですが、そこにはすごく筋のいいアブダクション推論が含まれています。言語発達や人間の学び、思考のクセなどを研究する私にとって、この「いいまちがい集」は宝の山です。
この本は、私たち大人に、「言語とはどういうものか」、そして「子どもは言語を学ぶためにどういう能力を持っているか」という言語学、心理学、哲学の大問題を考える手がかりを与えてくれるのです。
私が担当する授業でも、この『きょう、ゴリラをうえたよ』と『100万回死んだねこ』を提示して、「人間を考える」という課題を出していました。
間違えたら修正すればいい アブダクションと学び
子どもたちはなぜ、そのように「いいまちがい」をしたのか。実はそれには理由があります。先ほど、私たちは「点」でしかない情報を「面」に拡張しているという話をしました。少ない情報を基に面にしているわけですから、その際にはある種の思い切りが必要です。「エイヤッ」と拡張するものですから、間違えもします。この間違いが、子どもたちの「いいまちがい」なのです。
でも、この言い間違いは多くの場合、言語の本質的特徴をついたアブダクションです。 例えばこの間違い。
この例での、子どもの鋭い観察力、分析能力に感心します。大人は、これを「規則からの逸脱」とは考えず、「そういうものだ」として疑問に思いません。子どものほうが、規則やパターンに敏感に気づくことができます。しかし、言語の面白さは、規則が100%幅を利かせるわけではなく、例外もある、変化球もあるところにあります。ここからも、ルールが何より大事な演繹推論ではなく、柔軟な逸脱を許すアブダクション推論のほうが人間のデフォルトの思考のスタイルだということが見て取れます。
子どもは、規則やパターンに敏感に気づき、それに従おうとします。その意味では、子どものほうが大人よりも分析的で規則を順守しているといえます。ただ、リアルワールドの言語では、規則やパターンはあっても、慣習的な表現がそれに従わないことがある。慣習が規則よりも優先され、理屈は通っていても、慣習的にその表現は使わず、他によりよい表現があれば、理屈に合った言い方は「間違い」とされるのです。
ただ、子どものときには慣習を知らず、パターンに従って、間違った言い方をしてしまうことがあっても、大人になるまでずっと間違えたままの子どもはいません。間違った「面」は、言語を習得する過程で自然に修正されていきます。人は自ら修復する力を持っているのです。
アブダクションは子どもが言語を習得したり新しいことを学んだりするためには不可欠ですが、ときに間違いを引き起こします。間違ったら修正すればいい。子どもはその修復力を持っています。
私がこの本の中で特に気に入っているのは、 以前 も紹介した「これは“にしょく”で描いたから、次は“さんしょく”で描くんだー」と言った、3~4歳の女の子の「いいまちがい」です。「なんで3色? 上手に描けてるから次はもっとたくさんの色を使ったら?」と返すと、この子は「この絵は、“にくしょく”と“そうしょく”を描いたの。でも動物には“ざっしょく”もいるんでしょ? 次は“ざっしょく”も描くの。だから“さんしょく”なんだよ」と説明してくれたそうです。「さんしょく」は、「肉食・草食・雑食」のことだったのですね。
きっとこの子は、数字の後には数えるためのことば(助数詞)がつくということを知っていただけでなく、「ショク(色)」という助数詞も聞いたことがあったのだと思います。それを動物の「肉食・草食・雑食」と結びつけたというわけです。
本来接点のない文脈で知った「肉食・草食・雑食」と「助数詞のショク(色)」を、ポーンと自然に結びつけて、新たな助数詞「食(ショク)」をつくり、使っていたのです。
一見接点がないものをくっつけて、新しいものをつくるのも、アブダクションのなせる業。こういった間違いを、AIがすることはありません。人はアブダクションにより、創造的に、今までなかったものをつくり上げてきました。その萌芽(ほうが)が、この本に掲載された子どもの「いいまちがい」にはあふれています。人の思考のポテンシャルが凝縮されているわけです。
私はこれまで、「人間ってすごいな」と思いながら、ずっと発達の研究をしてきました。そういった思いを抱かせてくれるという意味で、楽しいだけでなく、同時にすごく感動してしまう本なのです。
(構成=黒坂真由子、写真=稲垣純也)


