『 拡張生態系 生命から照らす人類・地球・科学の未来 』(舩橋真俊著/祥伝社)は、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)リサーチディレクターの舩橋真俊さんが書き下ろした、700ページ近い大作。「拡張生態系」とは、人間の力で生態系の多様性や機能を高めることによって、食料問題や環境問題を根本から解決しようという一大パラダイムである。舩橋さんインタビュー1回目は、現在の活動と本書執筆の理由について。
人間の英知で自然生態系をもっと豊かに
日経BOOKプラス編集部(以下、──) 舩橋さんは2025年11月、『拡張生態系 生命から照らす人類・地球・科学の未来』(祥伝社)という本を出版されました。A5判、700ページ近い大著で、「拡張生態系」という言葉を初めて聞いた人にとっては、少々ハードルが高いかもしれません。まず舩橋さんの現在のお仕事について教えてください。
ソニーコンピュータサイエンス研究所 リサーチディレクター 舩橋真俊さん(以下、舩橋) 私は、Synecoculture(シネコカルチャー/協生農法)をはじめとした拡張生態系の研究と普及に取り組んでいます。Synecocultureとは、自然の生態系が持っている自己組織化の能力を活用して有用植物を生産する農法です。
拡張生態系とは何ですか。
舩橋 拡張生態系とは自然の生態系が持つメカニズムに立脚しつつも、人間の手によって生態系の機能を拡張しようとする試みです。食料、人口、地球温暖化など、今、世界中で取り沙汰されている課題の根幹には、人間が生物多様性を毀損してきたことがあります。人間の作った社会システムや経済成長が環境負荷を高めています。とりわけ食料生産と環境破壊のトレードオフを解決しない限り、現代文明を地球上で存続していくことはできません。
拡張生態系は、人間の英知によって自然の生態系を拡張し、生物多様性をより豊かにしようとする試みです。2015年から土壌劣化が進むアフリカのブルキナファソで、Synecocultureを導入したところ、短期間で豊かな生態系が生まれ、生産性を大きく高めることに成功しました。
日本でも展開されているのですか。
舩橋 はい。例えば森ビル株式会社は、拡張生態系の仕組みを学べる入門キット「シネコポータル」を使った実験を六本木ヒルズで行ったり、都市部の拡張生態系を麻布台ヒルズで実装したりする活動を行っています。日比谷公園のカラーリーフガーデンでも、Synecocultureを導入しています。鳥取県江府町のせせらぎ公園では、地球と人間の両方の健康を向上させるプラネタリーヘルスの活動にSynecocultureを導入して「食べられるジャングル」化の取り組みが行われました。米子北斗中学校・高等学校でも、総合的な学習の時間に「シネコポータル」を使って拡張生態系の学習を行っています。
Synecocultureについては実践的なマニュアルを公開しているので、私に頼らなくても誰でも始められるようになっています。基本的な考え方や、実際の管理の要点なども公開しています。だからSynecocultureによって作物を育て、販売している人もいます。場合によっては専門的に監修してもらいたいという人もいますが、その部分は対価をいただいて活動しています。
拡張生態系は学術概念なので、私個人の実践に依存するものではありません。必要とされる多くの場所でどんどん実践してほしい。私に依存せずとも皆さん自身が実践し発展できるのであれば、そのほうが確実にいい世界だと思います。
書籍だからこそ発信できる根源的な問い
本を書こうと思われたきっかけは?
舩橋 本書は私自身の15年間にわたる研究の集大成です。まず主要な部分の執筆には2年ほどかかり、それを2人の編集者が読み込みフィードバックを経て完成するまで、さらに3年ほどかかりました。
私は科学者なので普段は論文を書いています。科学の論文では「拡張生態系にはどのような機能・性質があるか」は書けるのですが、「なぜ、これからの世界に拡張生態系が重要なのか」「これからどうすべきか」といったことはあまり書けません。ほかの環境や食料、健康に関する分野でも「問題がどこにあるか」「ある手法や条件でどのように変化するか」という論文は多く見かけますが、「今後どうすべきか」について書かれたものは、主観的な価値判断になってしまうので、客観性を重んじる論文としては書きにくいのです。
しかし、本来大事なのは「取り組むべきことは何か」という根本的な問いであり、それを実現していく具体的な手段ですよね。普段考えているが論文では書けない部分も、書籍なら書けるという特性が、あえて大部の書籍を出版した1つの理由です。
拡張生態系を世間に広く知ってもらいたいということですか。
舩橋 実は第一義的にはそうではありません。本書の扉裏に「未来の子らに捧ぐ」と書いているのですが、本書は未来の子どもたちに向けて書きました。これから生まれる子どもはもちろん、今の中学生から大学生たちにも読んでほしい。今の世の中の常識にとらわれない、オープンなマインドを持った人たちに読んでもらいたいと思っています。
これだけ分厚い本を、「未来の子ども」はなかなか読めないのでは?
舩橋 そうですね。だけど、問題の本質を突き詰めるほど、今の大人を直接の読者と想定できなくなるのです。私の中では「未来の子どもに向けて書いた本を、今の大人が脇から眺めている」という構図になっています。これは、今の大人が自ら考え行動変容していく上でも、有効な視点です。
なぜなら、この農業、食料、環境といった問題は、今の大人がそれぞれ取り組んでいる分野で議論したとしても解決が非常に難しい問題だからです。現代人がやってきたことの延長線上に改善を積み重ねても、本質的な解決策にはたどり着きません。特に生態系を破壊している慣行の食料生産を部分的に改良したとしても、解決法にはなりません。また、現在の資本主義や民主主義の社会をマイナーチェンジしたところで、持続可能な文明が生まれてくるとも思えませんから。
では、どうすればいいのか。私たち大人は、未来の子どもたちのことを考え、少なくとも農耕文明の発祥より続いているボタンの掛け違いを直していく必要があります。
農耕の発祥がどのような問題を抱えていたのかはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、もう少し最近の資本主義のレベルで言えば、私たちは環境問題の外部性を市場に取り込むことに失敗し続けています。民主主義のレベルで言うと、モンテスキューが司法・立法・行政の三権分立を論じた『 法の精神 』(井上堯裕訳/中公クラシックス)刊行は、18世紀半ば(1748年)。でも、これに基づく民主主義国家も、グローバルな環境問題解決には歯が立たなかった。だとすれば、例えば司法・立法・行政以外の「第4の権力を作る」という発想が必要です。私は、それは分散型の社会や技術によって支えられる「市民ベースのサイエンス」だと考えています。
これから三権分立をアップデートしようと思えば、少なくとも300年ぐらい歴史をさかのぼって考え直す必要があります。そこからボタンの掛け違いを正していくとなると、今の大人の世代がすぐに解決できるような問題とは限らないのです。
壮大な話ですね。
舩橋 もちろん、今の大人たちができることもたくさんあります。食料生産、経済システムの見直し、文明の再創造のための準備をしていかなくてはなりません。少し突き放した言葉に聞こえるかもしれませんが、本書の正当な評価が出てくるには、あと20年は待たなくてはいけないだろうと思っています。
電子書籍にしておけば、本はずっと残ります。仮に日本で読まれなくなっても、翻訳して海外の人に読んでもらうことも考えています。AI(人工知能)を使って対話的に読むこともすでにできますから、通読しなくてもそれぞれの問題意識に応じて知識を取り出すような、非常に実践的な使い方が可能です。
拡張生態系は「舩橋理論」ではない
本書の執筆動機は未来世代への使命感からですか。
舩橋 少し違います。私には拡張生態系という未来がありありと見えているのですが、これを書き残しておかないと、人類の知識から消えてしまう。何らかの形でこの知識を外に出すことで、私の責任を果たそうと思ったのです。
拡張生態系に関しては、私が考え、理論化し、知識を外部化したものですが、「私個人がやっている」という感覚はほとんどありません。例えば、エベレストという山があり、多くの人が見ていたら、誰でもエベレストのスケッチができます。そのスケッチを「これが俺の山だ」と言う人はいません。それと同じで、たまたま拡張生態系という山が現代文明という雲の上にそびえているのが私には見えていて、他の人も見ているかなと思ったけれども、どうもそうではなかった。恐らく現代文明が混迷を極めており、その曇った空を透かして見るということが難しいのだと思います。それならみんなが見える形にしようと考えたのが、この本です。だから、「拡張生態系の原理」とは書いていますが、「舩橋理論」とはどこにも書いていません。
拡張生態系は私が消えてもこの世に存在します。ピタゴラスの定理みたいなもので、ピタゴラスがいなくても成り立ちます。たまたま私が発見し、拡張生態系という名前を付けましたが、みんなで使える無形文化財みたいなものなのです。
文/三浦香代子 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子


