その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はヴェンカトラマン・ラマクリシュナン(著)、土方奈美(訳)の『 Why We Die(ホワイ・ウィ・ダイ) 老化と不死の謎に迫る 』です。

【はじめに】

 およそ100年前、イギリス人ハワード・カーターの率いる探検隊がエジプトの王家の谷で、長年埋もれていた階段らしきものを発見した。階段の先の扉には王家の封印があった。ファラオ(王)の墓の証(あかし)である。封印に破られた形跡はなく、3000年以上にわたって扉をくぐった者がいないことを示していた。墓の内部の光景は、老練なエジプト考古学者であったカーターさえ息を呑むようなものだった。壮麗な黄金のマスクをつけた若き王ツタンカーメンのミイラが、数千年ものあいだ目のくらむような遺物に囲まれて眠っていたのだ。何人(なんぴと)も足を踏み入れることのないように、墓は固く閉ざされていた。古代エジプトの人々は誰の目にも触れないものを作るため、膨大な労力を費やしていたのだ。

 見事な墓は死を超越するための手の込んだ儀式の一環だった。宝物室の入口を守っていたのは金と黒で彩色されたオオカミの頭部を持つ冥界の神、アヌビスの像だ。その役割はファラオの石棺に入れられることの多かった巻き物「死者の書」に書かれている。死者の書は宗教書と見られがちだが、その実態は危険な冥界の道をくぐり抜け、幸福な死後の世界に到達するためのガイドブックに近い。最後の試練の1つとして、アヌビスが秤(はかり)を使って死者の心臓と羽根の重さを比べる。心臓のほうが重ければ、それは不純であり、死者には恐ろしい運命が待っている。反対に純粋と判断されれば、酒池肉林など人生のあらゆる快楽に満ちたすばらしい世界に入ることができる。

 死後に永遠の命を手に入れることによって死を超越できると信じたのは、古代エジプト人だけではない。彼らほど王族のための遺跡に手はかけなかったものの、あらゆる文化には死にまつわる考えや儀式が存在した。

 人間は死を免れないことにどうやって気づいたのか、考えてみると興味深い。そもそも死を認識するためには、脳が進化し、自我に目覚める必要がある。つまり、死ぬことを知っていること自体が、偶然の産物なのだ。また、死を認識するには、ある程度の認知力と一般化の能力、さらにはそうした概念を子孫に伝えるための言語の発達も必要だったはずだ。下等生物、そして植物のような複雑な生物でさえ、死を認識するわけではない。死は単にその身に「起こる」ものだ。動物をはじめ生きとし生ける物は本能的に危険や死を恐れるかもしれない。仲間が死ねば認識するし、その死を悼む生き物もいる。だが動物が死を避けられない宿命として理解しているという証拠はない。暴力や事故による死亡、あるいは予防可能な疾病によって死ぬことを理解していないと言っているのではない。死の必然性を理解していない、という意味だ。

 ある時点で人間は、生とは誰もがこの世に生まれ落ちた瞬間から参加する、永遠に続くお祭りのようなものだと気づいた。宴(うたげ)を楽しんでいると、新たに加わる者と去っていく者がいるとわかる。いずれ宴は相変わらず盛り上がっているのに自分が去る番が来る。たった1人、寒い夜に出ていくのはぞっとする。死を免れないという事実はあまりに恐ろしいので、多くの人はそれを否認しながら人生の大半を過ごす。誰かが死ぬと、なんとかそれを認めまいと「永眠」「他界」などまるで死が決定的なものではなく、別の状態への移行であるかのような婉曲(えんきょく)表現を使う。

 人々が死を免れないという事実に耐えられるように、あらゆる文化は死が一巻の終わりであることを否定する信念と対策を発達させてきた。哲学者のスティーヴン・ケイヴは不死の探求は何世紀にもわたって人類文明の原動力だったと指摘する。ケイヴは人類の対応策を4つに分類する。1つめ、すなわちプランAとは単にできるだけ長く生きようとすること。それが失敗した場合のプランBは死んだ後に物理的に甦(よみがえ)ること。プランCはたとえ体が朽ち果て、復活できなくても、私たちの本質は不死の魂(たましい)として生き続けること。そして最後のプランDは業績、記念碑、あるいは生物学的子孫といったレガシー(遺産)のかたちで生き続けることだ。

 すべての人類はプランAを実践してきたが、それ以外の戦略をどれほど重んじるかは文化によって異なる。私の故郷であるインドでは、ヒンドゥー教徒と仏教徒は進んでプランCを受け入れる。それぞれの人には永遠の魂があり、それは死後も新たな体、ときにはまったく違う生き物に宿って生き続けるという考えだ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といったアブラハムの宗教はプランBとCの両方を信奉する。永遠の魂を信じる一方、将来のある時点で肉体も復活し、最後の審判を受けると信じる。伝統的にこうした宗教では火葬を禁じ、遺体をそのまま埋葬するのはこのためかもしれない。

 古代エジプトのように4つのプランをすべて信仰体系に織り込み、〝保険〞をかけておく文化もある。ファラオが死後の世界で身体的に復活できるように、壮大な墓にはミイラ化した遺体を安置した。ただ「バー」と呼ばれる魂も個人の本質であり、死後も生き残ると信じていた。中国史上初めて天下統一を成し遂げた秦(しん)の始皇帝も、不死を目指して多正面作戦をとった。度重なる攻撃を生き延び、敵対する国々を征服し、権力を掌握した後は、「不老不死の薬」の探索に力を注いだ。「不老不死の薬」があると聞けば、どんな頼りない噂であっても使者を派遣した。手ぶらで帰れば死刑は免れないことから使者の多くが賢明にも消息を絶ち、姿をくらました。プランBとDを組み合わせた極端な例として、始皇帝は70万人もの人夫を動員して、都市1つ分ほどの壮大な墓を西安に作った。墓には亡くなった皇帝が復活するまで守るものとして、7000体を超える兵馬俑(へいばよう)が埋められていた。始皇帝は紀元前210年に49歳で死亡したが、皮肉にも「不老不死の薬」が命を縮めることになったとされる。

 人間の死との向き合い方は、18世紀の啓蒙時代と近代科学の到来によって変化しはじめる。多くの人は依然としてプランBやCのようなものにすがってはいたものの、合理性と懐疑主義の高まりにより、心の底にはそれらは本当に代替手段になりうるのかという疑念が湧きあがっていた。人々の関心は生きながらえることと、死後にレガシーを遺すことへと変化していった。

 いずれ自らが死ぬことを受け入れつつ、自分を覚えていてもらいたいという強い欲求を抱くのは人間心理の興味深い一面だ。今日の大富豪は巨大な墓や記念碑を建てる代わりにフィランソロピー(慈善事業)に熱心で、自分の死後も長く残る建物や基金を寄贈する。いつの時代も作家、芸術家、音楽家、科学者などは自らの作品や業績によって永遠の命を得ようとしてきた。ただ究極的にはレガシーを通じて生き続けられれば、完全に納得できるというわけにはいかない。

 あなたが権力をほしいままにする国王や大富豪ではなくても、アインシュタインのような才能がなくても、絶望することはない。レガシーを遺し、他者の記憶に残る方法として、ほぼすべての生き物に手の届くものがある。子孫を通じて生き続けるという道だ。子孫をもうけることで自分の一部を存続させようとする欲求は、進化した生物学的本能のなかでも最も強いものの1つであり、生命にとってきわめて重要なことなので本書の後段でじっくり述べるつもりだ。ただ私たちがどれほど子供や孫を愛していて、自分たちが死んだ後も長く生き延びてほしいと望んでいるとしても、彼らがそれぞれの意識を持つ別の個体であることはわかっている。彼らは私たちではない。

 とはいえ、たいていの人は自らの避けられない死について実存的不安に悩まされながら日々を送っているわけではない。むしろ人間の脳は、死は他者に起こるものであって、自分に起こるものではないと考える防御メカニズムを作り上げたようだ。死との距離もこうした妄想を一段と強める。かつては身の回りで他者の死に直面する機会も多かったが、今では介護施設や病院で亡くなる人が多い。その結果、若者を中心にほとんどの人がまるで自らが不死であるかのように日々を送っている。仕事に趣味に長期的な目標の実現に忙しい。いずれも死の不安から目をそらすのに有効だ。しかしどんな策を弄(ろう)そうとも、私たちは死を免れないという自覚から完全に逃れることはできない。

 そこで再び話はプランAに戻る。生きとし生けるものがみな数百万年にわたって実践してきた方法は、単にできるだけ長く生き続けようとすることだ。ごく幼い時期から、私たちは本能的に事故、捕食者、外敵、病気を避けようとする。この普遍的欲求に突き動かされ、人間は過去数千年にわたって共同体を作り、要塞を築き、武器を開発し、軍隊を維持してきた。それに加えてこの欲求は薬や治療法の探求に、やがては近代医学や外科学の発展につながった。

 人間の平均寿命は数世紀にわたってほぼ変わらなかった。それがここ150年で2倍に延びた。主な理由は疾病やその拡散の原因解明が進み、公衆衛生が改善したからだ。この進歩によって平均寿命は大幅に延びた。とりわけ幼児死亡率の低下が大きかった。一方、最大寿命、すなわち最高の条件が整っていてもこれ以上は生きられないという寿命を延ばすのは、はるかに難しい。人間の寿命は決まっているのか、それとも人間の生物学への理解が進めば老化を遅らせたり、ひょっとすると完全に老化を止めたりすることができるのだろうか。

 100年以上前の遺伝子の発見とともに始まった生物学の革命によって、今日私たちは岐路に立たされている。老化の根本原因にかかわる近年の研究によって、人類史上初めて老年期の健康状態を改善できるだけでなく、人間の最大寿命を延ばせる可能性が高まっているのだ。

 老化の原因とその影響をやわらげる方法を見つけようと猛烈な取り組みが進んでいる原因は、人口動態の変化だ。世界の大半の国は今、老齢人口の増大に直面しており、高齢者をできるだけ長い間健康な状態にとどめておくことは喫緊の社会課題となりつつある。そのおかげで、発展が遅れていた老化研究(gerontology:老年学)に弾みがついている。

 過去10年だけで老化について30万本以上の科学論文が発表された。700以上のスタートアップ企業が老化防止に合計数百億ドル以上を投資している。これは大手製薬会社による独自の老化研究を含まない数字だ。

 この途方もない取り組みは、多くの問いを投げかけている。人間はいずれ病や死を出し抜き、現在の寿命の何倍もの期間生きられるようになるのか。そうした主張をする科学者も確かにいる。そして今のライフスタイルが大好きで、永遠に宴が続けばいいと願っているカリフォルニアの大富豪たちは、そうした科学者に喜んで資金を提供する。寿命は際限なく延ばせると主張する研究者や彼らに資金を出す大富豪といった現代の不老不死の商人たちの実態は、かつて迫りくる老いや死の恐怖から解放されて長生きできると約束した予言者たちの現代版だ。そんな長寿を謳歌(おうか)できるのは誰か。それだけの財力のあるごくひと握りの人だろうか。それを実現するための治療や改良を人間に施すことは倫理的なのか。そうした治療を誰でも受けられるようになったとしたら、どんな社会が出現するのか。私たちは人類が現在の寿命を大きく超えて長生きすることの社会的、経済的、政治的影響を考えもせずに、無自覚なままそんな未来に突入していくのか。老化研究の近年の進歩やそこに注ぎ込まれる途方もない資金量を考えると、それは私たちをどこに導こうとしているのか、人間の限界について何を意味しているのか、問い直す必要がある。

 2019年から世界を襲った新型コロナウイルス感染症パンデミックは、自然は人間の計画など歯牙にもかけないことを改めて思い起こさせた。地球上の生命体を支配するのは進化であり、ウイルスは人類よりはるか以前から存在し、適応力に優れ、人類が滅亡してもずっと存在しつづけるであろうことを私たちは改めて学んだのだ。人類は科学技術によって死を出し抜くことができると考えるのは傲慢だろうか。そうだとすれば、代わりに人類は何を目指すべきだろうか。

 私は人体を構成する細胞のなかで、タンパク質がどのように作られるのかという問題の研究にキャリアのほとんどを費やしてきた。これは生物学のほぼすべての側面に影響する重要な問題であり、ここ20〜30年で老化の大部分も人体がタンパク質の合成と破壊をどう調整するかで決まることが明らかになってきた。だが研究者人生を歩みはじめたとき、私は自分の研究がなぜ人間は老い、死ぬのかという問題と結びついているとは夢にも思わなかった。

 老化研究の飛躍的成長によって私たちの理解を大きく進展させるような成果があがっていることに胸を躍らせつつ、私はそれにともなう熱狂を不安な気持ちで見守ってきた。それは科学との関連性が薄弱なうさんくさい治療薬の蔓延につながっている。その勢いが増す一方なのは、老化し、体が不自由になり、最終的に死ぬことへの人間の本能的恐れに乗じているからだ。

 この本能的恐れは、老化と迫りくる死を題材にした本が大量に出版される理由でもある。こうした本はいくつかのカテゴリーに分類できる。まずは健康に老いる方法についての現実的アドバイスを提供する本だ。なかには常識的なものもあるが、でたらめな本もある。次は死という宿命とどう向き合い、どう潔く受け入れるかについて、哲学や道徳的観点から書かれた本。それから老化を生物学的に論じる本。これもいくつかのカテゴリーに分けられる。著者はジャーナリストか、自らもアンチエイジング・スタートアップを立ち上げてこの問題に相当な個人的利害関係を持つ科学者だ。本書はどのカテゴリーにも属さない。

 この領域の研究の猛烈な進展、公共部門と民間部門の膨大な投資、その結果としての過剰宣伝──こうしたことを目の当たりにし、分子生物学を研究しつつも老化研究に利害関係を持たない私のような人間が、老化と死について現在わかっていることを、厳密かつ客観的に検討すべきではないかと思い至った。この領域の中心人物の多くは知り合いなので、老化研究のさまざまな側面について彼らがどう考えているのかを真摯に、かつ深く理解するために率直な対話をたくさん持つことができた。すでに著書を発表して自らの立場を明確にした科学者、とりわけ老化に関する民間のベンチャー企業と密接にかかわっている人たちとは敢えて話をしなかった。ただ彼らが公表している見解については本書で論じている。

 新たな発見のペースを考えれば、最新の老化研究に照準を合わせた本は出版前にすでに時代遅れになってしまう。しかもどんな科学領域においても最新の発見の多くは精査に耐えられず、修正されたり撤回されたりする。したがって本書は老化を理解し、立ち向かううえで、最も有望そうなアプローチの裏づけとなる基本原則に集中することにした。こうした原則は時の試練に耐えうるだけでなく、老化研究がどのようにして今日の状況に至ったかを理解するのに役立つ。さらに今日の状況につながった基礎的研究の歴史的背景にも目を向ける。老化とは無関係の生物学の基本的問題を研究していた科学者から今日の知識のどれほど多くがもたらされたかを理解するのは非常に興味深く、また重要だ。

 私は老化研究にまったく利害関係はないと書いたが、もちろん、老化はあらゆる人にかかわる問題だ。私たちはみな、自分がどのように人生の終わりを迎えるかに関心がある。不死身感のある若い頃はそうでもないが、私のように71歳にもなると特にそうだ。ほんの10年前、あるいは20年前には簡単にできたことが、難しくなったり、まったくできなくなったりする。歳を重ねると、家のなかで開かずの扉が増えていき、狭い領域に押し込められていくような気がする。科学によってこうした扉を再びこじ開けることができるのか、その展望を知りたくなるのは当然だ。

 老化は非常に多くの生物学的プロセスと密接に結びついているので、本書では最新の分子生物学をたっぷりと、それも駆け足で見ていくことになる。なぜ私たちは老い、死ぬのかという現状の理解につながった主要な発見の歴史をたどっていく。その過程で遺伝子の支配する生命のプログラムと、それが老化によってどのように乱れていくのかも詳しく見ていく。そのような乱れは細胞、組織、最終的には私たちという個体にどのように影響を与えるのか。すべての生き物は同じ生物学の法則に支配されているのに、なぜ一部の種は隣接する種よりも大幅に長く生きられるのか、それはヒトにとってはどのような意味を持つのか。寿命を延ばすための最新の取り組みを冷静に分析し、それらが評判どおりのものなのか検討していく。さらに人間が最高の仕事をするのは老年期である、という昨今もてはやされているいくつかの主張にも異を唱えていく。アンチエイジング研究の背後にある重要な倫理的問題も掘り下げたい。たとえ老化に抗うことができるとしても、私たちはそうすべきだろうか?

 本書の旅路は、死とは具体的に何かを考え、そのさまざまなかたちを知り、「私たちはなぜ死ぬのか」という根本的疑問と向き合うところから始まる。


【目次】

画像のクリックで拡大表示