その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は加藤勝美さんの『 ある少年の夢 稲盛和夫はいかに人生を切り開いたか(日経ビジネス人文庫) 』。「あとがき・文庫化にあたって」をお届けします。
【あとがき・文庫化にあたって】
稲盛和夫さんに初めてお会いしたのは一九七五年初秋のこと。私は大阪・御堂筋から少し西に入ったエレベーターもないビルに入っている現代創造社の雑誌『経済と文化』の編集長だった。第一次オイルショックによる戦後最大と言われた不況以後、関西の経営トップが何を考えているのかを聞く「ゼロ成長時代をどう生きる」というテーマでの連載インタビューを企画し、稲盛さんはその一人だった。当時、経済評論家の相良竜介さんから「京都セラミック」という面白い会社があると伺っていたので、京セラに取材をお願いし、まったく無名の雑誌社だったが、了承された。当時、京セラでは稲盛さんが社内で話したことや講演などを冊子にした「京セラフィロソフィー」が何冊か作られていて、それを読むと、会社の創業時の人間関係が、同社を理解する鍵になると考えられ、インタビューの席に創業当時の“同志”も同席するようお願いし、快く受け入れられた。
京セラの当時の一般的なイメージは「優れた経営手腕」「世界的技術を持つ博士の集団で競争相手もなく、利益も多い」「高度成長の波に乗ってラッキー」などというものだった。この一九七五年月九月期の中間決算では、三社に一社は赤字、その中で京セラは売上高が前期比五四・九%増、税引き後利益七五・四%増を記録し、九月には京セラの株価が長い間王座にあったソニーを抜いて日本一を記録したが、私はそういう事実を知らずに稲盛さんにインタビューしている。またセラミックという新素材についても無知だった。
雑誌は企業相手の内容だったが、当時の私は売上高や利益、株価などには関心がなかった。数字はあくまでも相対的なものであり、変動する数字だけで評価するやり方には不信感を抱き続けていた。たとえ今の業績が悪くても、「その思想によって評価される経営者」がいるはずだと、かねがね考えていた。さらに、不況の中で日本社会全体に大企業経営者への不信は高まっており、私は「経営者は建前では倫理を説き、現実には物資の買い占め、不動産投機で利益を得ている」と考えていた。
取材のとき、作業服姿の稲盛さんは約二時間、こちらの質問に丁寧に答えてくれ、切実に感じたのは「この人には本音と建前の使い分けがない」ということだった。特に、「誰も自分はこういう能力を持ったと思って生まれるわけではない。能力があっても、境遇が違えば、ぐれているかもしれない。私が今、ここに、社長として居る必然性は何もない。能力があるからと言ってそれで得たものを私有化することは非常な罪悪です」という言葉は衝撃的だった。昭和七年生まれの稲盛さんは当時四三歳。私は、一九六〇年安保闘争のときに大学に入り、闘争敗北後の私にとって、どう自己主張し、主体性をいかに確立するかがもっとも切実な課題だったから、「こういう経営者もいるのだ」という驚きがあった。そこには成功のためのノウハウがあるのではなく、稲盛和夫という人間の生き方そのものが凝縮されていた。インタビューを記事にしながら「彼について書く、最初の書き手になりたい」と心から思った。
さらに、稲盛さんの生まれ育ちへの強い親近感もあった。稲盛さんの両親も私の両親も一八九〇年代から一九一〇年代に生まれた世代で、庶民には一般的だった小学校卒業だけの学歴。稲盛さんの父親は印刷工場の職人で、その腕と実直さが認められて、小さな印刷工場を始めた。私の父は町の時計屋だった。腕時計から柱時計まですべてゼンマイ式で、修理代金が主な収入源だった。小さな部品を組み立てて動くようにする手わざに小さい私は心の底から感嘆した。原稿用紙に一マスずつ文字を埋めていくのも似たようなものだと思っていた時期もあった。
インタビュー記事の掲載誌を京セラに持参したとき、本を書きたいとお願いしたが、即座に断られた。それから三年間、私が編集する雑誌に京セラ関連の記事を載せたりして、私の望みが続いていることをアピールしていたが、一九七八年の七月頃、「取材に応じます」という返事をもらえた。その最初の打ち合わせの折、まさに開口一番、「私に惚れてくださって」と言い、私は思いがけないその言葉に驚愕した。その頃の私の主体性論から言えば、「惚れた」などというもので相手を受容することなど考えられないことだった。あとで分かったことだが、それまでに複数の大手出版社から、有名な書き手を起用するなどの申し出があったのをすべて断って、まったく無名の雑誌社の無名の書き手の私に委ねたことになる。
当時私が住んでいた大阪府茨木市から、京都市山科区にあった京セラ本社までは電車で二時間半かかり、取材の初期には京セラまで歩いていける距離にあった小さな宿に月曜から木曜まで泊まり、毎朝「出勤」して、貸してもらった小さな応接間を根拠地として、創業に参画した人たちをはじめ、いろいろな部門の社員にそこに来てもらって取材をしたが、稲盛さんと監査役の青山政次さん以外の人はすべて大部屋に居たから、私はだれにも咎められずに自由に各階に出入りをし、昼食は社員食堂で食べ、また滋賀工場の寮に泊まって風呂に入り、独身寮に泊まり、組合大会を傍聴したりして、会社の雰囲気に浸かるようにした。
しかし、それだけでは京セラ二〇年の歴史のイメージは固まらない。稲盛さんも私に会う時間がなかった。秘書に相談すると、社内で幹部や中途入社の社員に向けて話したテープが百本あり、それを借りて、来る日も来る日もテープ起こしの日々。それが稲盛像を形作る上で大変役に立った。直接取材したノートを含めると二百ページの大学ノート一〇冊ほどになった。
三カ月ほどの間、稲盛さんに会える機会がなく焦っていたが、ようやく秘書から「明日時間がとれます」と連絡があり、大いに喜んだが、では何を聞いたらいいのか、というよりも、それまでの取材を踏まえて京セラをどのように理解しているのかを測られる場でもある。いろいろ考えた結果、私が手繰り寄せたのは「京セラ発展の契機は稲盛さんと社員との関係にある」というものだった。それが正しいかどうかというよりも、その時点でそれしか言うべきことがなかった。それに対して稲盛さんは「いい考えだと思います」と言ってくれた。
当時はワープロもなく、原稿はすべて手書きで、下書きを始めたのが一九七九年三月、しかし、勤務先に異変が起きていた。編集長である私が会社にはほとんど出ずに、京セラにかかりっきりで、さらに全般的な不況で給料遅配が慢性化し、四月には数人の社員(編集と営業)がすべて退職、残ったのは社長、私、経理の女性の三人だけ。収入源である雑誌は年に決められた冊数以上を刊行しないと第三種郵便の資格を失う。私は毎日会社に出勤して、原稿を書きながら、雑誌づくりもしなければならない。それだけではない。家には妻と幼い子ども二人がおり、ある日妻から「あなたは自分の好きな仕事をして貧乏しているからいいかもしれないが、家にいる私の身になってちょうだい」と面責された。何しろ給料がいつ入るのか分からないのだから、言われて当然、内憂内患だった。
しかし、五月には流行り眼となり、一〇日間ほど、文字も読めず、書くこともできなくなった。肉体的にも精神的にも消耗の極にあったのだろう。息も絶え絶えという感じで原稿を書き進めたが、八月にはまったく書けない状態になった。その頃、大学時代に六〇年安保闘争の渦中に共にいた三人が「暑気払い」と称して私を居酒屋に誘い、カラオケにも行き、気分の転換ができたのだろう、一〇月一〇日、ようやく原稿は完成した。
初版一万部が一二月初めに出来上がり、新聞に広告を出した途端、「どの書店に行ったら本があるのか」という電話が連日、何度もかかってきた。すぐに増刷する必要があったが、印刷所への支払いが悪いため、遅れている金を払わなければ増刷できないという。そんな時期の翌年一月、先の三人の友人が一月の新年会に誘ってくれた。「売れ行きはどう?」「よく売れていて増刷したいが、その金がない」「それじゃあ、われわれ三人で百万円を都合しよう」という話がたちまちその場で決まった。それに社長が自分の友人から借りたお金で増刷ができた。御堂筋に本社がある企業からも直接注文が入り、私は台車に本を載せ、納品書を持って納品に回った。
無償の支援をしてくれた友人たちには今もって感謝している。大阪市大経済学部の庵谷寿男、島征一郎、八木孝昌の三人だが、すでに庵谷、八木の二人は鬼籍にある。
私は稲盛さんと社員たちの表情や息遣いを読者に伝えることのみを願った。従って、この本は京セラの分析ではなく、再現である。後から気が付いたのだが、あのときは、「稲盛和夫とその一味たち」という括りで表現できる時期にたまたま遭遇したのだと思う。手書き原稿に象徴されるように、いわばアナログ時代であり、その時代のリーダーとしての稲盛さんと京セラの姿が、デジタル時代の今、どれだけ受け入れられるか、書き手としては心もとない。しかし、SNS空間がいわば世界中を覆っている今、この本の取材対象とは、私が直接対面して互いに言葉を交わしながら、手作業で文字として定着させたものばかりであり、デジタル空間では得られない、手触り感があることは貴重なものと考えている。
取材中の時期だったと思うが、姉妹二人がやっていた小料理屋へ稲盛さんが誘ってくれ、経営陣何人かと一緒にテレビのプロレス中継を見た記憶がある。稲盛さんはアントニオ猪木が好きだった。
また和輪庵という、京セラがお客さんを接待する建物の一室で稲盛さんが主宰する「盛和塾」という機関誌の編集を終えた後、友人でもあるワコールの塚本幸一さん行きつけのイレブンというバーに向かう途中、娘だけ三人の稲盛さんがベンツの中で「あと一人相手が見つからなくって困っているんや」と言うので、「天下の稲盛和夫の娘ではなかなか難しいんじゃないですか」と答えると、「そんなこと言うなよ」と、一人の父親になっていた稲盛さんを思い出す。
この『ある少年の夢』はあくまでも人間論として書いたものであって、一つの企業の成功譚を書いたつもりはない。
【目次】



