その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は榎本博明さんの 『読書をする子は○○がすごい』 です。



【プロローグ】

すでに子どもたちの学力の二極化が進んでいる?

 目まぐるしい技術革新によって、私たちは先の読めない時代を生きている。AI(人工知能)によってなくなる仕事は何か、生き残る仕事は何かといった議論が盛んだが、AIの発達は私たちの職業を脅かすまでになっている。子どもたちは将来、私たちの想像も及ばない世界を生きることになるのだろう。

 今の私たちにできるのは、この先どんな社会になるにしても、その社会の荒波を乗り越えるだけの知力を身につけていける教育的環境を与えることだ。まずもって大事なのは、子どもの知的好奇心を引き出すことである。学ぶ意欲さえあれば、その時々に必要なことを貪欲に学んでいける。

 生後1年くらいで最初の言葉を発し、2歳くらいでしゃべり始めた子どもたちが、やがて字を覚え、絵本や児童書を読めるようになっていく。当初はあまり差がなかったはずなのに、いつの間にか、知的好奇心が強く、いろんな本を読み、知識や読解力を身につけながら自分の世界を広げていく子と、知的好奇心が乏しく、本を読むことなくスマホばかりいじり、知識も読解力も乏しく、狭い世界に閉じこもっている子に分かれていく。

 2022年度から施行される高等学校学習指導要領によれば、たとえば国語の授業は、従来通りに文学中心に学ぶ授業と実用文中心に学ぶ授業に分かれることになる。それに対応して、文学を中心とした教科書と実用文を多く盛り込んだ教科書がつくられる。

 このような教育改革に対しては、懸念を示す専門家も少なくない。詳細は本文に譲るが、なぜこのような改革が必要になったかと言えば、難解な文学作品どころか、ちょっとした通知事項などの実用文さえもきちんと理解できない子どもたちが増えているからなのだ。

 いわゆる読解力が十分に身につかないままに義務教育を終えている。そのような生徒には、格調の高い小説や評論を学ばせている場合ではない、何よりも必要なのは実用文を学ばせることだ、そうでないと社会に出てから困ることになる。そう言われれば、確かにそうかもしれない。実際、実用文を理解できないためにさまざまなトラブルが生じている。

 そこで、国語の授業で自治体の広報や契約書などといった実用文の読み方を学ばせようということになったわけだ。従来の国語の授業を受けて育った者からしたら、実用文の読み方を学ぶ国語の授業など想像しがたいのだが、それを必要とする生徒たちが目の前にたくさんいるという現実がある。

 こうした動きは、この先中学や小学校にも及んでいくものと予想される。このような教育改革によって何が起こるかと言えば、子どもたちの学力の二極化である。

 元々知的好奇心が旺盛で、本をよく読み、読解力を身につけている生徒は、実用文の読み方など改めて学ぶ必要がない。したがって、仮に授業で用いる教科書が実用文中心になったとしても、そんなものでは知的好奇心を満たせないため、個人的に小説や評論を読んで教養を身につけていくだろう。

 一方、元々知的好奇心が乏しい生徒は、日頃から本をあまり読まず、読解力が乏しいため、国語の授業で実用文の読み方を学ぶことになる。授業でもあまり文学を扱わないとなれば、文学作品には生涯ほとんど触れることのない人生を送ることになるだろう。

 それによって、文学や評論に親しんで想像力や思考力を磨き、また豊かな知恵を身につけた教養人と、実用文以外はほとんど読むことのない非教養人の二極化が進んでいくに違いない。

 欧米は階級社会であり、元々そうした二極化を当然としてきたが、平等な扱いを好む日本人は、そのような知的階層形成を納得して受け入れることができるだろうか。

 私がそのような懸念を書物や雑誌において表明したのに対して、教育現場の先生たちからさまざまな声が寄せられた。それをひと言でまとめると、やはり強い懸念をもっているものの、現実にはもうすでに二極化はかなり進んでおり、学校によっては授業で文学作品など扱える状況ではない、そんなものを読ませても無意味としか言えないといった現状があるようだ。

 実際、心理学や教育社会学の分野では、子どもたちの学力格差が深刻視されている。すでに幼児期に語彙力の格差がみられ、それが小学校での学力に影響するというデータや、小学校入学時の語彙力の差は6年生になっても縮まっていないといったデータも示されている。言語面で恵まれている家庭の子どもと恵まれていない家庭の子どもでは、幼稚園に入るまでに耳にする単語の数に3万語以上の差が出るというデータや、小学校に入学するまでに語彙数に1万5千語の差が出るというデータもある。

 そこで早期教育に走る親もいるわけだが、幼児期に勉強させる幼稚園に通った子よりのびのび遊ばせる幼稚園に通った子の方が語彙力が高いというデータもある。幼児期には遊びを通して学ぶこともたくさんあるのだ。では、子どものためにはどうしたらよいのか。そこをしっかり考えないといけない。

個人の自由や個性の尊重は学力格差を助長する?

 日本の社会は、未熟な子どもにも大きな自由を与える希有な社会であるようだ。

 前著『伸びる子どもは○○がすごい』(日経プレミアシリーズ)でも触れたが、今の10代後半から20代の若者がしつけを受け始めた、あるいはしつけを受けている最中であった2001年度の「家庭の教育力再生に関する調査研究」(文部科学省委託研究)では、家庭の教育力が低下している理由の1位は「子どもに対して、過保護、甘やかせすぎや過干渉な親の増加」(66.7%)であった。

 甘い親が問題だという認識が広くもたれていたようだが、親が子どもにどのようなことを期待するかを調べた国際調査(「家庭教育に関する国際比較調査」国立女性教育会館、2004、2005年度)では、「親のいうことを素直に聞く」ことを子どもに強く期待するという親は、フランスで80.1%、アメリカでも75.2%と圧倒的多数なのに対して、日本ではわずか29.6%であった。また、「学校でよい成績をとる」ことを強く期待するという親も、アメリカでは72.7%、フランスでも70.1%と7割を超えているのに対して、日本ではわずか11.9%しかいなかった。

 このような意識調査のデータをみると、子どもは未熟なのだから親が権威をもって子どもを厳しく鍛えたいと思っている欧米諸国とは対照的に、今の日本の親が子どもを自由にさせておきたいという思いを強くもっていることがはっきりわかる。

 そうした自由の与え方は、子どものためになるのだろうか。自由にしていればいいとなったとき、元々素質的に知的能力が高い子や、生育過程で知的刺激を受けてきた子は、さまざまなことに知的好奇心を刺激され、本を読んだり勉強したりして、自発的に学ぶ存在になっていくだろう。一方、素質的にとくに知的能力が高いというほどではない子や、知的刺激をあまり受けずに育ってきた子は、自由にしていればよいといった状況では、自ら本を読んだり勉強したりということにはなりにくい。

 たとえば、わからないことがあったとき、前者なら「もっと知りたい。わかるようになりたい」と思い、よりいっそう本を読んだり勉強したりするだろうが、後者は「つまらない。もう嫌だ」と言って放り出すことになりがちだ。そうなると基礎学力も自発的に学ぶ姿勢も身についていかない。

 自主性の尊重とか、個性の尊重といった言葉には、全面的に良いことであるかのような響きがあるが、じつは今ある能力差という個性をそのまま容認することにもつながり、学力の格差を助長する側面ももっていることには注意が必要だ。

 本を読めない、教科書も理解できない、自分の思っていることを文章にするだけの語彙力がない。そんな子どもや若者が多くなっているとされるが、それには学校教育が知識偏重教育から脱却する方向に傾いていることが関係しているのではないか。そうした状況で自由に漂う結果、語彙力や読解力に大きな差がつくようになっていると考えられる。

 私たち人間は、とても弱い面をもっている。よほど強い覚悟がない限り、どうしても楽な方に流されてしまう。子どもの将来のためを思うなら、教育的な環境を整えるという意味での一定の外圧を与えることも必要だろう。

すれ違うコミュニケーションに潜む読解力の欠如

 学力の基礎に読解力が深く関係していることは本文で詳しく解説するが、学力以外にも、私たちのものの見方や感じ方にも読解力が深く絡んでいる。

 職場において人間関係のトラブルが非常に多くなっていることや、クレーマーが増えていること、さらには小学校でも暴力事件が急増し続けていることが深刻な社会問題となっているが、そこにも読解力の低下が関係しているとみることができる。

 私たちの日常生活の中でも、相手にこちらの意図が伝わらなくて困ることがよくあるはずだ。

 親切のつもりでアドバイスしたのに反発されたり、相手のためを思って取り計らってあげたのに曲解されて逆恨みされたりして、「なんでわかってくれないんだろう」と困惑する。仕事のやり方が間違っていたり、行動が不適切だったりするため、その理由をていねいに説明しながら注意したのに、仏頂面をして、納得していない様子を見せるので、「なぜこんな当たり前の理屈が通じないんだろう」と苛立ちを感じる。そのような経験はだれにもあるだろう。

 こうしたすれ違いは国語の文章読解問題を連想させる。小説を読み、状況描写や登場人物の発言を参考に、その人物の気持ちや発言の意図を読み取る。評論を読み、作者の言いたいことを読み取る。国語の授業や試験問題で、そうした課題に取り組んだことがあるはずだ。

 そのような課題において、登場人物の気持ちや発言の意図を正確に汲み取ったり、作者の言いたいことを正確にとらえたりできる子もいれば、見当はずれな解答をする子もいる。そこには読解力が関係している。

 そんなことは当たり前だと思われるかもしれない。でも、ともすると見逃されがちなのが、そうした文章の読解力が日常のコミュニケーションにも影響するということである。文章の読解力が欠けていると、人の言うことや人の態度の意味するところをうまく読み取ることができない。その結果、相手の意図を曲解したり、相手の気持ちを汲み取りそこなったりしてしまう。つまり、読解力は、学業成績に影響するのみならず、日常の人間関係にも大いに影響する。

 小学校で暴力事件が急増し続けていることの背景には、しつけがなされていないことによる自己コントロール力の欠如ももちろんあると思われるが、人の気持ちを読み取ったり、相互の思いをうまく伝え合うことができないということもあるだろう。そこに読解力が関係している。

 お互いに読解力が乏しいと、相手の言葉の意味を正確に読み取ることができない。その結果、それぞれが相手のことをわけがわからないと思ったり、自分勝手なことばかり言ってくると曲解したりしがちだ。

 詳細は本文で解説するが、このように学業面にも生活面にも影響する読解力は、読書によって高まることがわかっている。読書には、言葉を覚えるというメリットがあるのに加えて、自分以外の視点に対する想像力を養うといったメリットもある。

 たとえば、小説を読みながら登場人物の気持ちに感情移入して、一緒になって悔しがったり、楽しい思いを味わったり、憤りを感じたりしているうちに、人の気持ちに対する感受性が高まる。登場人物が意外な場面で怒り出したことから、そういう受け止め方をする人もいるんだなと思ったり、登場人物の落ち込みに対して、こんなことでそこまで落ち込むんだと思ったりする経験を通して、自分以外の視点に対する想像力が高まっていく。

 評論を読み、日本人の行動パターンや心理的特徴の文化的背景を知ったり、著者の経験や価値観に触れたりすることで、日頃接している人たちが取る態度の意味がわかったり、どうしたらわかり合えるかのヒントがつかめたりする。

 コミュニケーションのすれ違いの背景には、読書によって他者の視点に触れ、他者の立場やものの見方・感じ方に想像力を働かせる経験が乏しいといった事情があるのではないか。

無限の可能性をもつからこそ子ども時代の環境の影響は大きい

 動物の生態を扱うドキュメンタリー番組などをみると、馬や牛、鹿などの高等哺乳類は、大人の小型版として生まれてくる。生まれた直後から足を踏みしめて立ち上がろうとする。何度も立ち上がろうとしてはよろめいて倒れることを繰り返しながら、その日のうちに立って歩けるようになる。人間の赤ちゃんが生まれたその日から歩き出したりしたら、それこそ大事件だ。そんなことは絶対にあり得ない。大人のように二足歩行をしたり言葉をしゃべったりするようになるには、およそ1年かかる。

 何もしゃべらず泣くだけだった赤ちゃんが、生後1年くらいになるとはじめての言葉を発し、言葉をつぎつぎに覚え、2歳を過ぎる頃には一人前におしゃべりするようになる。何にでも好奇心を示し、「これ何?」「どうして?」などと質問攻めをしながら、言葉や概念を覚えていく。

 そのうちひらがなが読めるようになると、店の名前、駅の名前、各種看板広告などの文字が目につくたびに読もうとする。やがて自分で字を書くようになり、「おとうさん、お誕生日おめでとう」「おとうさん、いつもお仕事してくれてありがとう」などと稚拙な字で書いた手紙をくれたりするようになる。

 そうしているうちに学齢期に達し、学校で各教科の勉強をするようになる。何もできなかった赤ちゃんが、生後わずか6〜7年でいろんな教科の勉強をするようになるのだから、大変な成長のペースと言わざるを得ない。

 だが、そのペースには大きな個人差がある。大人の小型版として生まれてくる、人間以外の高等哺乳類と違って、非常に未熟な状態で生まれてくる私たち人間は、生後の環境の影響を強く受けながらさまざまな能力を発達させていく。そのため、環境の違いによって大きな個人差ができてくる。

 それがどんどん拡大し、大学生になる頃には、書物に親しみ、語彙も豊かで読解力も高く、知識・教養の豊かな者から、読書などまったくせず、語彙も読解力も乏しく、知識も教養も乏しい者まで、幅広い個人差がみられるようになる。だからこそ子ども時代にどのような環境を与えるか、どのような刺激を与えるかが重要な意味をもつのである。

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