その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は 『ESGの奔流 日本に迫る危機』 です。

【序章 そしてESGは巨大な奔流になった】

 過去5年で14倍―。

 日本経済新聞の朝刊に「ESG」という単語が登場する記事数だ。2016年にはわずか45本だったが、21年に628本に急増している。5年前、いったいどれだけの人がここまで大きな潮流になると予測できただろう。

 本書を手にとってくださった方々のなかにも、なぜESGがここまで盛り上がっているのか、一時的なブームに過ぎないのではないかと懐疑的な方も少なくないだろう。ESGエディターという立場でこの分野の動向を追いかける私自身も2年ほど前まで、そう感じていたうちの一人だ。

ESGエディターになる経緯

 私がESGに関連する記事を初めて書いたのは16年。日経新聞の1面の連載企画の関連で電子版に「根付き始めたESG投資」という記事を出した。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が15年に責任投資原則(PRI)に署名し、ESG投資にかじを切った時期で、証券会社や運用会社の取り組みを紹介する内容だった。

 当時、私は株式市場を中心とするマーケットの担当記者だった。運用業界に大きな影響力を持つGPIFがやるのだから、注目すべき動きなのだろうとは思った。実際、16年に社内で「今後、力を入れて取材すべきテーマは何か」と問われた際に、「ESGはこれから重要だと思います」と回答した記憶もある。

 私の回答に対して周囲は「え、ESG?」と首をかしげる向きも少なくはなかった。正直なところ、私自身も「環境や社会に配慮した投資なんてきれいすぎないだろうか」という思いがあったのも事実だ。日ごろ取材する投資の世界では、パフォーマンスが市場平均をどれだけ上回ったか、リスクをどの程度抑えられているかが評価軸のすべてだった。ESGを考慮した銘柄選択がどう運用収益につながっていくのか、皆目見当がつかなかった。

 20年1月。保育園に通う2人の子どものお迎えの前に、地元の駅ビルの地下で夕飯の買い物をしていると会社の携帯電話が鳴った。表示された名前は当時の所属していた部の部長だ。何事かと思い焦って電話に出た私に部長は明るい声で言った。「ESGエディターをやってほしい」

 突然の話に私が戸惑っているのを察したのか、部長は続けた。「4月から新しくエディターというポジションができる。特定の分野を追う専門記者だ。そこでESGを担当してほしい。4月に備えて今のうちに準備を始めて」と言われ、この日の会話は終わった。

 確かに16 年と比べれば、ESG投資は着実に広がっていた。20年時点のESG投資額は世界で35・3兆ドル(約3900兆円)と、世界の投資マネー全体の4割弱を占める規模に膨らんだ。

 投資家の間では、ESGの要素も取り入れて議決権行使や企業との対話(エンゲージメント)をする流れも強まりつつあった。企業が経営者報酬にESG基準を導入したり、証券取引所が情報開示ルールを設けたりする動きもある。ただ、それでもESGというテーマだけを追い続けて十分な材料はあるのか、という不安は拭えなかった。

 こうした後ろ向きの見方を変えるきっかけが、私がエディターに就く直前の3月にあった。それは、経済産業省が企業の温暖化ガスの排出削減を金融面から後押しする「トランジションファイナンス」を世界に打ち出そうとしているのを知ったことだ。欧州連合(EU)が環境に貢献する経済活動を分類する「EUタクソノミー」の策定に動くなど、環境分野での産業振興を狙い主導権争いが始まっていた。日本の国家戦略として経産省が打ち出したのがトランジションだった。

 この一連の動きは、私にある気づきを与えた。「ESGを単なる投資の話ととらえると世の中の動きを見誤る」。ESGは投資家と企業の2者で完結する話ではなかった。膨らむESGマネーを自国に呼び込んで、経済復興につなげようとする世界各国が攻防戦を繰り広げる。そうした大きな時代のうねりの中心にESGはある。非政府組織(NGO)など、日本ではあまり語られることのない存在がESGの世界では大きな影響力を持っていることにも興味がわいた。

 20年10月に菅義偉前首相が50年までに排出実質ゼロを目指す「カーボンニュートラル」を宣言すると、気候変動を中心に国家間競争の様相は一段と強まっていく。脱炭素戦略が掲げられ、金融機関も企業もこれまで以上に本気で取り組むことが求められるようになっていった。

 21年10月末から英国のグラスゴーで開催された第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)には、先進国から新興国に至るまで世界中の熱い視線が注がれた。地球の平均気温上昇を産業革命前から1・5度に抑えることで合意。「2度より十分低く抑える」としてきた従来と比べて事実上、目標を引き上げた。石炭火力発電の段階的削減も盛り込まれた。

 注目すべきは各国政府の合意内容だけではない。50年までに投融資先の温暖化ガス排出量を実質ゼロにすることを目指す金融機関は、世界で450以上、金融資産の総額で130兆ドルにのぼると公表された。金融機関が投融資先に排出削減を促す取り組みは一段と加速するだろう。

「生物多様性」も重要テーマに

 基準がバラバラだったESG情報開示の分野でも、世界共通の基準づくりが始まっている。国際会計基準づくりに携わるIFRS財団はCOP26にあわせて、ESG情報開示の基準づくりを担う国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)の設立を発表した。22年中にも策定を目指す気候変動関連の情報開示基準の原案も公表した。

 環境分野では気候変動の次の潮流が見え始めた。21年10月と22年に分散開催される生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)では30年までに世界200カ国・地域が守るべき国際目標が設定される。生態系の維持・回復のため陸地や海洋の30%を保護することが求められるようになる見通しだ。国際目標の策定を前に、生物多様性は気候変動と並ぶ大きなテーマに浮上した。

 社会(S)の分野にも目が向く。EUでは環境に貢献する経済活動を定めた「EUタクソノミー」の次として、社会に貢献する経済活動を定義する「ソーシャルタクソノミー」の策定が進む。取引先を含めて、強制労働や児童労働などの人権侵害のリスクを特定し、情報開示までが求められる「人権デューデリジェンス」も世界各地で義務化され始めている。

 気候変動や生物多様性といった環境や、人権侵害をはじめとする社会問題。これまでは国家が解決すべき課題だったが、近年はグローバル化やカネ余りを背景に民間企業の巨大化が進んでいる。世界最大の運用会社、米ブラックロックの運用資産額は約900兆円と日本の国内総生産(GDP)の2倍近い。地球規模の問題の解決には民間企業の協力が欠かせない時代になっている。

 近年は利益至上主義の資本主義の限界も指摘されるようになった。株式相場などリスク資産の価格上昇で貧富の差はのっぴきならないところまで広がった。社会不安の高まりは、産業の基盤も揺るがしかねない。ESGも単なる投資手法の一つではなく、大きな社会構造の変化の中に位置づけるべきものだ。

 本書は、日本経済新聞社が20年10月に創刊した金融デジタルメディア「NIKKEI Financial」で連載するESG関連のコラム「Money of Integrity」を加筆・修正した。取材先の肩書は原則、記事の公開当時のままにしている。

 第1章は日米欧など世界の主要国の戦略にフォーカスした。特にESGで先頭を走り世界全体に影響を与えるEUが、どんな戦略を描いているのかは非常に重要だ。トランプ政権からバイデン政権に変わり、ESG重視に一気に舵を切った米国や、トランジション戦略では一定の成果を挙げている日本の動きも取り上げる。

 第2章では、ESG関連の金融商品を取り巻く状況を紹介する。ESG投資が急拡大し、投資信託をはじめESG関連商品が多数登場している。同時に、それらが本当に環境や社会に配慮した商品なのか、見せかけだけで実態を伴わない「ESGウオッシュ」ではないのか、という懸念も膨らむ。運用会社に情報開示を求めたり、バラバラなESG開示基準の統一をはかったりする取り組みを紹介する。

 第3章で取り上げるのは、金融業界に対する圧力の高まりだ。20年、21年ともに国内のメガバンクに対して非営利団体(NPO)から気候変動対応を求める株主提案が出た。日銀をはじめ世界の中央銀行の間では金融政策に気候変動リスクを考慮する取り組みが広がる。

 21年6月にはコーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)が改定され、地方銀行も含め上場企業に求められるESG対応はさらに強化された。ありとあらゆる資産運用会社がESG重視を掲げるなか、その本気度も問われ始めている。海外の先進事例などとともに、金融機関にとってESG対応が待ったなしとなっている現状をまとめた。

 第4章では、投資家や企業に強い影響力を持つESG界のインフルエンサーを紹介する。日本では目立たないNGOやNPOの調査を多くの投資家が参考にしているのはなぜか。気候変動対応に消極的だった米エネルギー大手のエクソン・モービルに環境派の取締役を送り込んだアクティビストファンドはどんな投資家なのか。ESG投資に欠かせないデータを提供するデータベンダーについても紹介する。

 第5章では、ESG拡大を追い風に収益を伸ばそうとするリース業界やコンサルティング業界の取り組みについてまとめた。

 ESGの領域は日進月歩だ。今この原稿を書いている間も、世界のどこかで新しい動きが起きている。そして、もうESGの時の針が後戻りすることはないだろう。ESGという新たな潮流がいかにして生まれ、太く強い流れになったのか。読者の方々にとって、本書がこの巨大なテーマを理解する一助になれば幸いだ。

ESGエディター 松本裕子


【目次】

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