その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は中野信子さんの『 エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術 』です。
【はじめに】
「深淵(しんえん)をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」とは、有名なドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの言葉です(『善悪の彼岸』)が、あえてこの格調高いフレーズを、このようにもじって言い換えてみたいと思うのです。
「京都をのぞくとき、京都もまたこちらをのぞいているのだ」
京都では、本当に上手なイケズは、棺桶(かんおけ)に入ったときに相手が言われたことを気づくくらいのレベルですよ、と言われたことがあります。この、気づくまでの長さをどれくらいに設定するかは、人によって違うのかもしれませんし、自分は京都の人間だけれどもそんな風には言わない、という人もおいでかもしれません。また、同じ人であっても、相手との関係性によってその匙加減(さじかげん)は変わってきて「どうしても気づいてほしい」と本当に思ったならば、表現はどんどん直接的になるとも聞きます。
こうした柔軟性と申しますか、巧(たく)みな“戦略的あいまいさ”とでもいうべき何物かを、縦横無尽に使いこなし、コミュニケーションを高解像度でこなすことのできるすごい人たち──それが、ずっと私が京都人に抱いているイメージでした。
私は、コミュニケーション巧者(こうしゃ)である京都の人に対するとき、憧(あこが)れと畏怖(いふ)の気持ちの入り交じった感情が自然と沸き起こるような感じがします。毎回京都に行くたびに、生粋(きっすい)の京都の方にお目にかかるとなると、肌にぴっと電気が走るような感じを覚えます。
あまりにも仰ぎ見すぎだと言われるかもしれません。このような見方が正しいのかどうか、また、本書でご紹介していくような京都、そして脳科学から見た京都が、リアルな京都を反映しているのかどうかは、お近くにいらっしゃる生粋の京都の中の人(いわゆる“洛中”の人)に聞いてみていただき、本書の是非を論じていただきたいと思います。
また、実際に京都の中の人からの忌憚(きたん)のないご意見も、ぜひお寄せいただきたいとも思います。皆さんのお力を得て、より強力に本書をバージョンアップさせていくことがかないましたならば、たいへんうれしく思います。
このように仰ぎ見る気持ちが強すぎるからでしょうか、私が実際に京都の方にお目にかかると、いやいやそんなに気にしすぎないでもいいのだと、慰(なぐさ)め(?)の言葉もいただきます。これも中の人にお聞きした話ですが、「アメリカ人」が「何でも褒(ほ)める人」の代表例(もちろん比喩ですが)として、ときどきイケズの言い回しの中に登場することがあるそうです。
京都風の感じ方、解釈の仕方でいくと、「あの人らは大げさに褒めてくる。けど、表現がすごすぎて、本当に褒められてるのとは違うと感じる」のだそうです。実は、当のアメリカ人たちも、それは十分承知しているというフシもあります。
やや本筋からは外れますが、バークレーに、中野自身がかつて家庭教師をしていた女の子が大学院で留学をしたので、遊びに行ったことがありました。楽しそうなところに留学できてよかったね、と言うと、彼女は、意外と、みんな外では明るく振る舞っていても、実際にはうつになる人は多いんですと言いました。明るい土地のようなのだけれど、これは、明るく振る舞わなければならないということでもあるのだと。
大げさにポジティブに喜びや感動を表現する必要があるという圧が強くて、かえって本音が伝わらない、疲れてしまう、人間に会う気力がなくなっていってしまうと。そう聞いて、言葉の上ではポジティブに、明るく、仲間を褒めているようだけれど、本当のコミュニケーションに至るには、その分厚い表層のポジティブの殻を突き破らなければ、やり取りができないんだね、本当に褒めているかどうかが分からないから、かえってリテラシーが必要で人間関係に疲れてしまうのかもね、という話をしました。
ポジティブ心理学が、心理学者のマーティン・セリグマンらを旗手として多くの人に知られるようになってからしばらく経(た)ちます。心理学がかつては、病や人間のネガティブな側面を扱うものだとされてきたことへのカウンターとしてセリグマンがポジティブ心理学を唱え始めたことには、一定の評価があります。が、一方で、どこか欺瞞的(ぎまんてき)になり、心からポジティブになれないのは自分がダメな人間だからに違いないと、自分を責めてしまう傾向を強める懸念があるということを、やはり心理学者のバーバラ・ヘルドは訴えています。
ポジティブであることの価値を周囲が称賛していればしているほど、ただ落ち込んでいるというだけのことが、自身を苛(さいな)む棘(とげ)に変化してしまいます。苦しいときでも笑うことを求めるポジティブ心理学の輝きの陰で、それができない自分はダメな人間だ、楽観的になれない自分は劣った人間だと、吐露(とろ)できない苦しさを抱えたまま、表向きには笑っていなければならないという状況に陥ってしまいます。
イヤなことを言われたりされたりしても、ポジティブであれ、スルーして明るく振る舞えばあなたのもとに陰はやってこない……自然なネガティブさを否定する環境の中では、かえって人間は病んでしまうというのです。
不快なことを見聞きすれば不愉快ですし、イヤなことをされたら気分が悪いのは当たり前のこと。その当たり前のことを、無視したり、抑圧したりして、なかったことにするのではなく、「エレガントな毒」として昇華しながら、自分の心も相手との関係性も大切にマイルドに扱っていこうという知恵が、京都人たちのイケズの中にはあるように思います。
私自身は少なく見積もっても5世代は江戸に住んでいる家の人間で、遠回しなコミュニケーションというものに慣れる機会もまったくなく、そういったやり方を学べるような先生もおらず、ここまで育ってきてしまいました。ストレートで四角四面な物言いにしか触れてきていないということは、傷つき傷つけ合いながらの人間関係を生きてくるということでもあり、それはそれでしんどいものです。また、どうしてもごつごつと不格好なやり取りになりますから、どう見てもあまりエレガントではありません。
相手の気持ちを察しなければならない、という圧とは長い間無縁で、そこには無頓着(むとんちゃく)できてしまい、楽をしてしまった結果、かえって損をしているのかもしれないとも思います。自分の言い回しがときに単刀直入すぎるということを大人になってようやく知るようになり、反省しなければならないことも少なからずあり、どうにかして含みのあるコミュニケーションを身につけることができまいかと悩みました。
そんな折、初めて京都の人の言い回しはこうだよということを微(び)に入(い)り細(さい)にわたり解説して教えてもらい、それはたしかに、いわゆるイケズというものではあったのですが、むしろ、ああ自分に足りなかったものはこれだと、感動するような思いにもなったのです。
深淵をのぞくような気持ちになるのは、これが、人間の深淵をのぞくことと同じだからなのかもしれません。京都のコミュニケーションは、人間の深淵をのぞき続けて、なお、人間と対峙(たいじ)し続けなければならなかった土地に住まう人々が生み出してきた知恵の結晶でもあるのだと思います。
イケズというのはその相手の言語リテラシー、言語の運用レベルを知るための物差しなのだそうです。最初に小手調べでイケズを投げかけてみることで、その人がどれだけイケズを察知できるのか、はたまたあまり気にしないでスルーしてしまうタイプなのかを確認するといいます。そんな、踏み絵としての役割もあると聞くと、部外者である東京人からすると余計に緊張してしまうような気もするのですが……。私などはこういった学習は遅いほうですから、もはや思い切って、東京人ですということを表に出して開き直るしかないのかもしれません。
ただ、その踏み絵的なテストで、ああ、この人は東京の人なんやね、ということが分かるのは基本的にはお互いにメリットが大きいのだとも言われました。相手がどのレベルにいる人かが分かっていれば、そのあとはもう「よそさん」としてお付き合いすればよいのです。ストレスを感じながら、密な関係を互いに無理をして維持するよりも、適度な距離感で気楽に気持ちよくお付き合いができるということのほうが、ずっと大切ではないか──たしかに私もそう思います。
現代にあってよく見かける「本音が大事」という、実はあまり根拠のない、相手を打ち負かす快感をほとんど自制することなくただ追い求めるような世間の風潮に、一石を投じることを試みてみたいなという気持ちもありました。
上手に言葉を使い、自分も相手も大切にして、エレガントに毒を吐きながら輻輳的(ふくそうてき)で豊かなコミュニケーションをとる方法を、昔から育ててきたのが京都という土地ではないでしょうか。その一端を、一緒に学び、考察して、少しでもよりよいコミュニケーションに役立てていくことができましたら、これほどうれしいことはありません。
【目次】