その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は今井むつみさんの『 人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学(日経プレミアシリーズ) 』です。
【はじめに】
こんにちは、認知心理学者の今井むつみです。
本書は、2025年3月に慶應大学SFC(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス)を定年退職するにあたって、学生のみなさんに対して行った「認知心理学」の最後の講義をベースに、認知心理学に初めて触れる読者の方にもお読みいただけるように解説を補足して、書籍化したものです。
「認知心理学」講義は、前述の慶應大学SFCに通う学生なら誰でも受講できる、いわゆる「一般教養」科目です。受講者は心理学を専攻しているわけではなく、将来的に心理学者になりたいと考えているとは限りません。いえ、限らないというよりも、心理学者どころか、あらゆる分野を含めても、研究者を目指している学生はおそらくそれほど多くはなくて、卒業後は一般企業に勤めたり起業したり、公的なセクターで働く人が大半です。
認知心理学者として、そうした学生たちに、どんなことを伝えられるのか。何を伝えたら、認知科学が学生たちの将来や人生に、少しでも役に立つのか。そう考えながら28年をかけて組み上げてきたのが、この授業です。
そのため、本講義で重視してきたのは、「心理学や認知科学で有名な理論そのものを伝え、説明すること」ではありません。著名な研究者たちが、一つの理論を確立するための過程──仮説を考え、それを検討するために実験をデザインし、実験の結果を解釈して理論を構築する過程──と、そこから人間が知識を創り上げ、共有する過程を伝え、さらに人間の特徴的な思考や学びのしかたを私なりに考察し、最終的には受講者に人間の認知や思考の本質について考えてほしい。そう思いながら毎年授業をしてきました。
心理学に限らず、実験をすれば何かしらのデータが得られます。しかし、仮に同様の実験を行って同じデータを得られたとしても、そこから導かれる結論が人によって異なる、ということは往々にして起こります。それは、データと結論の間に「人間による解釈」の過程が存在するからです。
一連のデータのどこに注目するか、どんな傾向を読み取るか、どう解釈するか……。昨今、「認知バイアス」に関しては一般によく知られるようになってきましたが、私たちのものの見方にはつねに、ある種の「偏り」が含まれています(この「偏り」については、本編で詳しくお話しします)。
私たちのものの見方にはつねにある種の「偏り」があるということ。そしてその「偏り方」は人によって違うということ。さらにいえば、自分自身に「偏り」があるということに気づけない場合も多いということ。
こうした人間の認知の性質を知ることが、仕事において、あるいは日常生活において、他者を尊重しながらよりよく生きていくことにつながると考えています。読者のみなさんにも、本書を通して、そうした認知科学のものの考え方を少しでも感じ取っていただけたらうれしく思います。
さて、この「認知心理学」講義は、私がアメリカのイリノイ大学とノースウェスタン大学大学院で計6年間学んだ後の1993年に慶應大学SFCに有期の助手として採用され、3年間の試用期間の後で1997年に正式な教員(専任講師)となったときから始まりました。そのときから、28年もの間、続けてきたことになります。当初と比べると、内容はずいぶんと変わりました。
開講当初、私は、「最先端の認知心理学の知見を伝えることこそが、学生たちのためになることだ」と考えていました。教授自身の専門分野の最先端の知識を伝えることこそが大学での学びであると信じ、自分がアメリカで体験したような授業を日本でも展開しようとしていたのです。
そこにはもしかしたら、私の願望のようなものも含まれていたかもしれません。自分が必死になって学んできた最先端の認知心理学を、学生たちに知ってほしいという思い。そして、当時は女性研究者の地位が今よりも低かったこともあり、「これだけのことを伝えられる自分」という自己満足的な部分もあったように思います。
ただ、実際に講義を行い、学生たちと接する中ですぐ、自分と学生たちとのモチベーションの違いに気づかされることとなりました。
そうして、最先端の限られた分野の知見ではなく、より広い「人はどのように思考するのか」の学びを得られる講義にしたい。そして将来、研究者になる人のためではなく、広く社会で活躍していく人たちのためになるように、
・人間はどのように考えるのか
・人間はどのように学ぶのか
・人間はどのように成長していくのか
を扱う、言い換えれば「人間を知る」ための講義を目指して、28年間、少しずつではありますが、毎年改良を重ねてきたのです。
本書を手に取ってくださっている方の中には、もしかしたら、この28年の間に、私の「認知心理学」講義を受けたという方もいるかもしれません。しかし、こうした経緯で毎年、変えてきた講義ですから、そうした方にとっても何らかの新たな気づきにつながるのではないかと願っています。
また、今まで認知心理学に触れてこなかった方にとっても、日常生活の中にあるモヤモヤや、「なんでなんだろう?」という疑問を解決するヒントを提供できるのではないかと思います。この授業の内容には、学生でなくとも、認知心理学を学んだことがなくても、きっと何か自分に関係することがあるはずです。
「はじめに」の最後に一つ、重要なことをお伝えしておきます。
先ほど述べたように本講義は、「人間を知る」ことを目指してつくってきたものです。これから、さまざまな事例や研究を紹介しながら、人間の認知の性質について、なるべくわかりやすいように、お話ししていきます。しかし、みなさんには、安易に「これで人間というものがわかった」とは、思わないでいただきたいのです。
研究者たちは、これまで、さまざまな工夫をこらして実験を行い、人間の認知の性質について解き明かしてきました。そうして示された結果は、直観的に理解しやすいものも多くあります。これからお話ししていくことはそうした研究結果をさらにかみくだいて説明しているために、「認知心理学はわかりやすい」と思われるかもしれません。
しかし実際には、人間というのは複雑で、一筋縄で理解できる存在ではありません。認知科学の世界に数歩、足を踏み入れたからといって、「人間を理解した」と過信してはいけません。
人間というものの存在を含め、この世界で大事なことは、例外なく、複雑で難しくて正解がありません。認知科学のものの見方や考え方は、そうした世界を生きていくための手がかりにはなりますが、ただ一つの「正しい答え」をくれるものではないのです。
複雑で、難しくて、正解がないからこそ、真剣に考えるという日々の営みは不可欠です。どのように自分が世界と対峙(たいじ)し判断していくか、認知心理学はその助けになるでしょう。
ぜひこのことを理解した上で、私の最終講義をお聴き(もといお読み)いただけたら幸いです。認知心理学が、みなさんが人生をよりよく生きるための何らかの助けとなれば、これほどうれしいことはありません。
2025年春 今井むつみ
【目次】





