その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は鈴木淳さんの『 8の都市からよむ「世界一周」の世界史(日経ビジネス人文庫) 』です。
【はじめに】なぜ人は世界一周を目指すのか
「君は私の夢を叶えてくれた。君は架空の人物よりも早かったんだ。現実は想像に勝ることを教えてくれた」
20世紀が始まったばかりの1901年7月末、『八十日間世界一周』で知られるフランスの大作家、ジュール・ヴェルヌが世界一周に挑戦したフランス人ジャーナリスト、ガストン・スティグレールにかけた言葉である。襲撃事件の後遺症で脚にけがを負っていたが、自国初の世界一周者を出迎えるためアミアン駅に駆けつけた。ヴェルヌの小説の主人公より早い63日間で世界一周を終えようとしていたスティグレールは「あなたがいなければ、この旅のアイデアは生まれなかったかもしれません。あなたは私たちにスピードという旨味を教えてくれました」と返事すると、2人は固く抱き合った。
ヴェルヌの小説発表から150年以上が経った。世界中の限られた人しかできなかった世界一周は、交通手段の発達やインターネットの普及による情報革命で当時とは比べ物にならないぐらい身近なものになっている。SNSには世界一周の報告で溢れている。
では、なぜ人は世界一周を目指すのか。それぞれに旅の目的は違うので、ひとつの答えがあるわけではない。世界中の絶景を目に焼き付けたい、各国の人と交流したい、旅をすることで自分の殻を破りたい――。それぞれに立派な旅の動機である。
旅の期間も様々だ。マゼラン隊やチャールズ・ダーウィンのように人生の貴重な数年を費やす留学・海外赴任のような世界一周もあれば、数カ月かけて十数カ国を旅する短期留学のようなものもある。数日から十数日でひと回りすることもできる。
共通していえるのは、地球を一周することで視野が広がり、他民族や異文化に関する理解も増す。言語や文化が異なる人との交流や対話を通じて、異文化との接し方、交渉の仕方も学ぶことができる。そして世界の人々について知ることができる世界一周は、究極的には世界平和に資すると私は考えている。
21世紀の世界情勢を見れば、世界一周の重要性ははっきりしている。東西対立が終わってモノ・ヒト・カネが自由に世界中を移動するグローバル化時代に入ると、米国は世界一強として君臨するかにみえた。だが、米国の経済力や軍事力のもとで世界秩序が安定し、相対的な平和が訪れるという淡い期待は打ち砕かれた。
中国は2010年、国内総生産(GDP)で日本を抜いて世界2位の経済大国になった。13年に国家主席となった習近平は「中国の夢」と呼ぶ経済的な発展を目指す一方で、軍事的野心を丸出しにしていて、台湾海峡や南シナ海に緊張が走っている。一時期は主要8カ国(G8)として国際協調の枠組みに参加したロシアも、独裁色を強める大統領、ウラジーミル・プーチンの指揮下で22年にウクライナを侵略し、国際秩序を武力で変更しようと目論んでいる。
米国では25年1月、ドナルド・トランプが大統領に返り咲いた。国際協調の枠組みから逸脱し、自国の利益を露骨に優先する政策実現に邁進する。就任直後から関税発動や外国援助停止などを実行した。トランプが標榜する「米国第一主義」は国際社会のリーダーとしての米国の地位を低下させる可能性もある。
21世紀の世界が再び、西側と東側に分かれつつあるなか、グローバル・サウスと呼ばれる新興国は両陣営に属さず、国際社会で独自の存在感を示そうとしている。インド、インドネシア、トルコ、ブラジル、ナイジェリアなどがその代表格だ。世界で自国優先とブロック化が進み、いたるところに分断線が引かれている。国家同士がいがみ合い、実際に戦争も発生している。
国際協調は風前の灯である。ロシアは国際社会からの強い非難や西側の経済制裁を受けても、ウクライナでの蛮行を止める気配はない。イスラム過激派組織ハマスによる奇襲攻撃を受けたイスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの報復攻撃は、多数の一般市民を含む5万人以上が殺害されるなど重大な人道危機を生んだ。
世界一周による人類の相互理解促進はこうした分断の時代にこそ必要である。敵対する国家の住民同士が本当に敵なのか。お互いに相手を知ることが平和への一歩ではないだろうか。国連世界観光機関(UNWTO)は1980年に発出した「マニラ宣言」で、観光は国民同士の相互理解を深め、平和に資すると宣言している。
21世紀においては市民一人ひとりの声は決して小さくない。国家や大企業がメディアを独占する時代は終わった。ソーシャルメディアを通じて個人の声が大きな力を持ちうる時代だ。
スティグレールは『63日間世界一周』の末尾で、世界一周をすることによって「人々はたとえ愛し合うことができなくても、少なくとも戦争以外の方法で交わり、互いを知り始めた」ことを証明したと訴えた。120年が経ったいま、もう一度思い出すべき世界一周の意義だと私は考える。
本書では世界一周の歴史を関係する地名と共に振り返り、その時代背景や思想的なバックグラウンドを読み解いていきたい。
第1章では、日本の大企業家、渋沢栄一の世界一周を題材に明治日本の世界一周を分析する。第2章では、マゼランに始まる世界一周の歴史を批判的に振り返る。第3章では、トマス・クックと世界一周の民主化について取り上げる。第4章は、米国のパン・アメリカン航空による世界一周路線開設と航空の黄金時代を概観する。第5章では、日本航空が1967年に世界一周路線を設置するまでを追う。第6章では、コンコルドに象徴されるスピード重視の時代の世界一周について分析する。第7章では、19世紀スコットランドの地方紙による世界一周取材旅行を題材に世界一周が持つ変革の力を見ていく。そして、第8章では、スイスの冒険家、ベルトラン・ピカールへのインタビューをもとに21世紀の世界一周のあり方を探る。
外務省の統計によれば、2024年10月1日現在の日本人の海外長期滞在者数は71万人を超えた。日本政府観光局によれば、24年には1301万人が日本を出国した。単純計算では日本人のおよそ1割が24年に海外に出かけたことになる。世界は着実に身近になっている。
それでは、私たちも世界一周の歴史旅に出ることにしよう――。
【目次】






