その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は加来 耕三さんの 『鎌倉幕府誕生と中世の真相 歴史の失敗学2―改革期の混沌と光明』 です。
【はじめに】
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)には“鐘(かね)”がなかった!?
祇園精舎の鐘の声 諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす
奢(おご)れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如(ごと)し
猛(たけ)き者も遂(つい)には亡(ほろ)びぬ ひとへに風の前の塵(ちり)に同じ
日本人なら多くが知っている、『平家物語』の冒頭である。
ちなみに、「祇園精舎」は釈迦(しゃか)が修行していた寺の名前であり、右の文章は日本人にとっては至極(しごく)(このうえもなく)理解しやすい。「諸行無常」「盛者必衰の理」――万物は流転し、結局は消えてゆくという無常の思いを、『平家物語』は平清盛(きよもり)の生涯、あるいは彼を中心とした平家一門の興亡、それにつづく木曾義仲(きそよしなか)や源義経(みなもとのよしつね)の出処進退の中に――とくに失敗について――、切々と語りかけてくれた。
今日の「令和」の日本人にも共有する同じ感慨(かんがい)は、“鎌倉殿”の源頼朝(よりとも)も、その政治を承継した鎌倉幕府の執権(しっけん)・北条義時(ほうじょうよしとき)も、変わることなく味わったに違いない。
本書は、この日本人独特の無常の思いを、日本の“中世”(前提となる古代も含め)を「仮想演習」「逆演算(ぎゃくえんざん)」の題材として、現在・未来を考えるために述べたものである。
なぜ、中世なのか。日本人は戦国時代や幕末明治に比べて、この時代を深く認識していない。そのため冷静に、客観的に、初心者のごとく接することのできる利点があった。
もう少し別方向から、俯瞰(ふかん)(高い場所から見おろすこと)をしてみたい。
――実は「祇園精舎」には、そもそも鐘がなかったのである。
この「祇園精舎」というのは、仏教の開祖・釈尊(しゃくそん)がこの世にいたとき、現在のインドにあったコーサラ国の首都・舎衛城(しゃえいじょう)の郊外にあった仏教の精舎、つまり寺院のことであった。
正しくは、「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)精舎」という。
本名をスダッタという長者がいて、孤児や身寄りのない者に施しをしたということから、「給孤独(ぎっこどく)長者」と呼ばれた。この人が、祇陀太子(ぎだたいし)(ジェータ太子)の樹林に黄金を敷き詰めて買い取り、そこへ精舎を建立して釈迦に寄進したという。
喜んだ釈尊はときおり、ここを訪ねては滞在した、と伝えられている。
にもかかわらず、いつしか「祇園精舎」は歴史に埋もれて所在地不明となり、七世紀に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が訪れたとき、すでに跡形もなくなっていたという。
それを十九世紀に入って、イギリスのアレキサンダー・カニンガムが、現在のインドのウッタル・プラデーシュ州のサヘート村、マヘート村を発掘し、一方のサヘート村こそが「祇園精舎」であり、他方のマヘート村が「舎衛城」だと明らかにした。
ところが追々調べていくと、祇園精舎にはそもそも“鐘”がなかったことが判明する。
当地はその後、日本人の仏跡参拝者が少なからず訪れるようになった。
祇園精舎に鐘がないのは寂しい、と多くの人が思ったのだろう。いつしか、遺跡に鐘がすえつけられた。訪れた人に聞くと、鐘の音はあまり美しいものではないらしい。
筆者(わたし)にはこの幻の「祇園精舎の鐘の声」を聴くことこそが、「仮想演習」そのものに思われてならない。「もしも」鐘があったならば……と想定してみる。後から作られたニセの音を否定し、存在しなかった鐘の音を聴く。もしも最初からあったとしたならば、どのような音色を奏でたのかと想像し、釈尊のこと、「無常」について思いを広げていく。
これこそが、歴史に学ぶ本来の姿ではあるまいか。「沙羅双樹の花の色」しかり、である。釈尊がクシナガラで入滅したとき、この樹の下で横臥(おうが)していたという。
この「沙羅双樹」は、インド北部原産のフタバガキ科の常緑高木なのか、ツバキ科のナツツバキ(シャラノキ)なのか、いま一つはっきりとしていない。
「沙羅双樹」を挟んで、北に向けて床を敷かせた釈尊は、右脇を下にして、右脚の上に左脚を重ねて横になったという。このとき、沙羅双樹は時ならぬ花を咲かせた、と『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にある。この「沙羅双樹」は二本だったのか、それとも根も幹も枝も互いに絡み合う大木であったのか、いまだに諸説がある。読者(あなた)はどう考えるだろうか。
そして、咲いた花の色は……。
日本の中世は「仮想演習」に最適
歴史の世界には決着のつかない疑問、謎が満ちている。その多くは誤解、失敗と言い換えてもよい。
それを日本の中世に訪ねようというのだが、中世は現代の「令和」の今日からふり返ると、途方に暮れるほどに遠い。
ここでいう日本史の中世は、西欧の歴史学にあった古代・中世・近世の三つの時代区分を、日本の歴史に当てはめたもので、古代社会が衰退してから、近代社会が生まれるまでを指してきた。では、日本の中世はどこから始まるのか。少し幅がある。
十世紀から十二世紀にかけての時期と、一般には考えられてきた。終わりは十六世紀とされている。筆者は十一世紀の後三条(ごさんじょう)天皇(第七十一代)から、中世が始まったと大学で学び、自らもそのように区分してきた。
――そのスタートの政治体制が、「院政」の萌芽であった。
例えば、この「院政」を「仮想演習」によって検証してみると、日本人の今日まで変わらない特徴、独自性を導き出すことが可能なように思われる。
そもそも日本史が“歴史”として登場する(文字になった)のは、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』(『三国志』の「魏志」巻三十 東夷伝(とういでん)倭人条の通称)が最初で、この記述によれば、邪馬台国(やまたいこく)をはじめ二十九の国々が、各々の氏族集団国家を形成していたという。
しかし、国際的には「倭」(奴隷<どれい>が跪<ひざまず>くという姿を象<かたど>った漢字)と蔑まれながら呼ばれており、それが離合集散をくり返し、やがて有力氏族の連合国家=大和(やまと)朝廷が誕生した。
相変わらず「倭」は、大王(おおきみ)から氏(うじ)や姓(かばね)を与えられた豪族たちが、各々世襲した「家」とそれに付随する「地位」を承継する体系(システム)で、相互に政治・行政を分担しつつ、運営されていたといっていい。
一方、中国大陸では統一王朝の隋(ずい)、つづいて唐(とう)という、とてつもなく巨大な帝国が誕生すると、朝鮮半島にも独立国が次々と出現し、天智(てんじ)二年(六六三)の白村江(はくすきのえ)(はくそんこう、とも)に壊滅的な敗戦を喫した大和朝廷は、それらの国々に侵略され、併合されるかもしれない、との脅威を必要以上に抱き、国を守るために、と大国の真似(まね)をして連合政権から中央集権化への脱皮を図った。そしてつくられたのが、律令国家である。
刑罰(律)を明らかにして、税金を徴収し、政治を行う(令)――この制度は、藤原不比等(ふじわらのふひと)(鎌足<かまたり>の子)らによって、急ピッチで形作られた(組み立てられた)ものの、当時の日本人にはこれを完璧に動かすだけの能力、経験、技術といった蓄積がなかった。
このあたり、明治時代を迎えたときの近代日本と、事情は少しも変わらない。
歴史はくり返す。さて、どうしたものか。対処法は、今の日本人も変わらない。日本史を貫通してきた発想といってもよかったろう。
とにかく、大王から発展した“天皇”を補佐して、急ぎ国を動かさねばならない。そのための方便として、例外をもちいて、なんとか「律令」を大陸並みに無理やり動かそうとした。そして生まれたのが、律令に定められた以外の官職「令外官(りょうげのかん)」であった。
臨時の役職をもうけるというのは、隋でも唐でも行われていたが、日本の場合、トップである太政大臣以下、左大臣―右大臣―内大臣―大納言―中納言―参議(ここまでが議政官=国政運営者)を定めたものの、議政官のうち参議、中納言、内大臣は「令外官」であった。律令制の時代をみると、国政をめぐって活躍していたのはむしろ、こうした「令外官」であったようにも思われる。
例外をもうけて帳尻を合わせようとする――その最たる「令外官」が、その後、誕生した天皇を補佐して権力を握った“摂関(せっかん)”であった。天皇が幼いとき(女性のときも含む)に、その権限を代行しようとしたのが「摂政(せっしょう)」であり、天皇が成人したにもかかわらず、代わりをつとめたのが「関白(かんぱく)」であった。
これを不比等の子孫、藤原氏が独占した。
筆者は古代に登場した律令制下の日本の政治機構をみるだけで、今と変わらない日本人――基本を外から借用して、内容を組み替え、改変することを得意とする。場合によっては換骨奪胎(かんこつだったい)となる――が、ここでも「仮想演習」で、明らかとなったように思われる。
改良を創造と対等視する民族性
別方向から言えば、日本では産業革命は起きず、これからもIT革命を起こすような発見・発明は、決して生み出されることはない、との断言である。
なにしろわが国は、古代以来、外来のものを模倣(もほう)し、組み合わせを変えて改良するという能力を、遺憾なく発揮してきた。
例えば自動車――日本人は世界に冠たる車種を今も量産しているが、なぜ、自動車が四輪で今の形になったのか、そもそもを知らない。世界に通用するヴァイオリン、ピアノを器用に造るが、試行錯誤されてきた長い歴史を技術者は理解しているわけではなかった。
日本人の心象・歴史が、独創性(オリジナリティ)を真似、工夫したにすぎない。
誤解されると困るのだが、筆者はこの模倣を貶(けな)しているのではない。
むしろ日本人の文明観――独創性・創造力と改良を同等と捉えて胸を張る民族性、国民性に圧倒されながら、しばし茫然(ぼうぜん)自失し、さらには感動してきた、と言いたいのだ。
筆者は、この独善性がなければ、日本語(平仮名<ひらがな>・片仮名<かたかな>)は生まれず、「日本」という国名も誕生しなかっただろう、と考えてきた。詳しくは、序章で述べるが、全ての根本は、四面海に囲まれた極東の島国という地形、一説に百三十五の工程を持つという米作りに、長い年月携わってきたこと、この二点にあった、と筆者は思いつづけてきた。
本書は武士が出現する前提条件の「院政」誕生から章立てを行い、知られざる中世――天皇・院の足跡を今日に当てはめて考えつつ、いまだ鉄砲はおろか、刀剣の技法や槍(やり)が現れる以前の源平争乱の時代、それにつづく鎌倉幕府を携わった人々の興亡に、時代を超えた生き方の原理・原則を尋ねることを目的とした。
とくにこだわったのは、各々がしでかした失敗についてであった。
法律というものがない、“力”が“正義”であった中世という時代、われわれ日本人はどのように生きていたのであろうか。
比較的知られている中世の後半=南北朝から戦国にかけての時代とは異なり、人々の暮らし向きは、現代とは全く異なっていた。けれども変わることのない日本人の本質は、随所に散見されている。日本史は、十一年間に及んだ応仁の乱(日本人を根底から変えたとされる)を重要視してきたが、その前にいた日本人の原形に出会うことは、これからの日本人を考えるうえでも、大いなる発見があり、価値のあることのように思われる。
本書はこれまでの類書と異なり、かならずしも編年体では記述していない。むしろ、紀事本末体(きじほんまつたい)といって差し支えないだろう。登場する人々、目次を参照していただきたい。
なお、本書を執筆するにあたっては、『日本古典文学大系』(岩波書店)や『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)、『続史料大成』(臨川書店)、『続群書類従』(続群書類従完成会)、『増補史料大成』(臨川書店)、『群書類従』(群書従完成会)を参考にさせていただいた。
また、より読みやすく、印象に残りやすいように、との編集部の配慮により、姉妹編ともいうべき『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』、『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』につづいて、魅力的な挿画を描いてくださった日本画家・中村麻美(まみ)先生、ならびに本書の執筆の機会をつづけて与えてくださった日経BPの田中淳一郎氏に、この場を借りて心よりお礼を申し上げる次第です。
令和四年 早夏吉日 東京・練馬の羽沢にて
加来耕三
【目次】