その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は小野浩さんの『 人的資本の論理 人間行動の経済学的アプローチ 』。「まえがき」をお届けします。
【まえがき】
ベッカー先生との出会い
それまで漠然と捉えていた人間の意思決定と行動を、美しい数式と理論としてすっきりと体系化した学問があることを知ったのは、1992年の秋だった。
その年、私はシカゴ大学大学院に、社会学研究科の1年生として入学したばかりだった。大学では機械工学を専攻、その後、コンサルティング企業に勤務という、学究からはほど遠い世界から、社会科学研究の世界最高峰であるシカゴ大学に進学したことは、無謀だったかもしれない。しかし私は、これまで未知だった世界に首までつかり、新しい知識を学び吸収することに、大いなる野心とやりがいを感じていた。ありとあらゆることを、とにかく学びたい、そして吸収したい。そのとき、私は体中の毛穴が開くような快感を覚えていた。
運が良いことに、私に充てられたアドバイザーは、アメリカ社会学会の会長も務めた高名なジェームズ・コールマン(James Coleman)教授だった。コールマン先生自身、学部では応用化学を専攻し、大学院から社会科学に切り替えたという経歴を持つこともあり、私の異色の経験を逆に強みとして評価してくれた。
コールマン先生は、数理社会学の権威と先駆者であり、社会学に限らず、社会科学には数学を使って、定量的に人間の行動を表現する学際的(interdisciplinary)なアプローチがあることを教えてくれた。自分自身、普段から数学的に物事を考える方だったので、コールマン先生が紹介してくれた世界にはフィット感があった。
入学して間もない頃、その年のノーベル経済学賞をゲーリー・ベッカー先生が受賞したとのニュースが報道された。1990年代は、シカゴ大学ではノーベル経済学賞のゴールド・ラッシュといわれた時代で、ほぼ毎年のようにシカゴ大学関係者が受賞者として選ばれていた1)。ベッカー先生の受賞理由としては、経済学的なアプローチを、人間の意思決定や行動、また家族、結婚、人口など、経済以外の広範囲の領域に適用したことが評価された。当時まだ大学院の勉強を始めたばかりで、何の知識もない自分にとっては、難しそうな学問という印象が強く、そういう考え方があるのかという程度の関心だった。
運命の転機は大学院2年目のときに訪れた。コールマン先生の指導のもと、人間行動の計量分析に興味を持ち始めた私は、大学院2年目から、社会学の授業に加えて、経済学と統計学の授業を取り始めた。ミクロ経済学と労働経済学を勉強しているうちに、人的資本という言葉をよく目にするようになっていた。そして、ちょうどその時期にベッカー先生の著書Human Capital(第3版)(1993)が刊行されたのを機に、私は人的資本について学び始めた。
Human Capitalを読むと、そこには、今まで自分の頭のなかでふわふわと考えていた人間の意思決定のプロセスが、美しい数式と理論により、流れるようなストーリーとして語られていた。ページをめくるたびに鳥肌が立つような感覚があったことは今でも昨日のことのように覚えている。理論がそのまま頭に入ってきて、ひらめきを繰り返し味わったときは、恋をしているような感覚だった。自分が生涯やりたいことが見つかった衝撃的な瞬間だった。
とはいえ、ノーベル経済学者の弟子になることを志望する大学院生は多い。ベッカー先生の場合、弟子になるためにはまず大学院の成績表が要求され、口頭面接がある。不安でいっぱいだったが、何もしない方が後悔する、何も失うものはないと判断した私は怖いもの知らずで審査に挑んだ。幸い、それまでの自分の成績と経験が認められ、弟子として受け入れられたときのよろこびは大きく、希望で胸がいっぱいになった。その後、私は社会学ではコールマン先生、経済学ではベッカー先生という、非常に贅沢な指導のもと、大学院生活に臨んだ。ただし1995年にコールマン先生が亡くなられたのはとても悲しい出来事であった。その後、ベッカー先生には博士課程のアドバイザー、そして博士論文の審査委員として加わっていただき、人的資本の理論から実証まで、丁寧に指導していただいた。
このように、1993年にベッカー先生と出会ってから、私は30年以上にわたって人的資本理論を核とした実証研究に取り組んできた。本書では、ベッカー流の人的資本と、人間行動の経済学的アプローチのエッセンスをお伝えしたい。
本書の特徴と狙い
人的資本は「人」に関する理論なので、誰にとっても必ずなじめるであろう概念だ。人間の行動を科学的に、体系的に捉えることで、より効率的に意思決定ができるようになる。自己投資がなぜ重要なのかというロジックがわかれば、教育・学習に取り組むモチベーションが高まる。自分の才能を見出して、自分の意思にしたがって行動することができたら、それは幸福な人生につながる。
例えば、自分が得意とすることに打ち込む一方で、向いていないことをあきらめるのも人的資本理論の一つの教訓だ。“あること”で努力しても成果が出ない場合、それは努力不足ではなく、単にその“あること”に向いていないからかもしれない。才能がないことに一生懸命取り組んでも成果は出ない。状況を判断して時にはあきらめ、もっと生産的なことに取り組んだ方が合理的だ。
今まで、授業、講演会、企業研修など、様々な機会で人的資本の講義をしてきた。反響はよく、人的資本についてもっと学びたいという人は多い。2020年代に入り、人的資本経営が注目されるようになってから特に、世の中の人的資本に対する関心は高まった。しかし、人的資本「経営」の本は多く存在するなかで、人的資本そのものに関する本は、1976年に出版されたベッカーの訳書しかなく、しかも専門書なので一般の読者には読みづらい。実務家目線で人的資本を解説している図書、一般の読者でもわかるような図書はないか? といった問い合わせは絶えなかった。
そんなとき、大学院時代の自分を思い出した。私自身も、シカゴ大学でベッカー教授がノーベル賞を受賞したとき、ベッカーの理論についてもっと知りたくなった。そこで、経済学の大学院生に率直に、自分は経済学を学んだことはないが、人的資本はどういう理論なのか教えてくれないかと尋ねた。この大学院生はそれに対して、「経済学を学んだことがない人に人的資本を説明することはできないので、時間の無駄だ」と答えた。
いかにも経済学の大学院生らしく、合理的な答えではあるが、それを聞いた私は心底、がっかりした。しかし、この一言は、逆に私の学習意欲と教育魂に火をつけた。たとえどんなに難しい理論でも、また相手が素人でも、わかりやすく説明することはできるはずだ。説明できないとしたら、それは教えられない方が悪いのだ。この出来事をきっかけに、私はそのように考えるようになった。この信念が、極めて広範な人的資本理論を一般の読者向けに端的に解説するという挑戦に私を駆り立てた、一つの動機である。
人的資本理論は、決して難しい理論ではない。単純明快でありながら、ミクロからマクロまで幅広い現象を説明できる理論であるからこそ有力なのだ。本書は、経済学の授業を受けたことがない人でも人的資本理論がわかるように解説している。人的資本の理論と応用を丁寧にわかりやすく解説して、幅広い方々にこの理論の美しさを伝え、インスピレーションを与えたい。
なるべくわかりやすく読め、かつ理解いただけるよう、いろいろと工夫をしている。まず(中学生でもなじめる二次方程式を上限に)難しい数式は登場しない。また、学習効果を向上させるために、図表をふんだんに使っている。そして、理論への理解を深めるために、応用例と実例を数多く取り入れている。経済学以外でも有意義な理論であることを楽しんでいただくために、文学、音楽などから卑近な例を紹介している。日本の読者を対象としているので、特に日本にいる方々が関心を持ちそうな話題や事例をたくさん盛り込んでいる。
人的資本理論を応用した実証研究は数多く、本書では主要な先行研究を紹介する。この分野では私自身の研究も多いため、教育、労働に関する自分の研究も取り上げている。
2020年代に入ってから、人的資本経営の動きを受けて、日本でも人的資本が注目されるようになった。経済学において、人的資本という概念は歴史が長く、数世紀に及んで理論と実証が進展してきた。しかし、人的資本経営、情報開示、人材投資などに関心が集まるなかで、その意図は良しとして、人的資本という言葉だけが先走りしているのは警戒すべきだ。単純に「人」を「人的資本」という言葉に置き換えたような使い方もあり、混乱を招いている。人的資本経営の正しい導入には、人的資本の正しい理解が欠かせない。人的資本経営は一過性・トレンドで終わってしまうかもしれない。しかし人的資本理論は18世紀までさかのぼる時空を超えた深みのある理論であり、今後も生き続けることは間違いない。
本書は、年齢や立場に関わりなく、知的好奇心があるあらゆる人を想定して書いている。ビジネス本でよく見かけるHow toを伝える本ではなく、理論を核とする(専門書に近い)一般書である。理論の強みとは、しっかりと理解すれば、それを土台に様々な状況に対して自分なりに考え、応用し、成功確率を高めることができる点だ。内容は国や時代を超える普遍的なものであり、学びは長期に活かされるだろうと確信している。
本書の構成は次の通りである。まず、第I部は、理論編として、人的資本の基礎を紹介する。人的資本の基盤はミクロ経済学理論なので、第I部は主にミクロの基礎理論について書いている。また、人的資本と関連性が深いシグナリングや社会関係資本についても紹介する。第II部は、人的資本の応用編として、成功の方程式、日本型人事制度、学歴といったテーマについて述べている。第III部は、ミクロからマクロへと称して、人的資本理論をマクロな経済現象に適用した場合の考察をいくつか、紹介している。第10章では、ベッカーの「家族の経済学」理論を紹介し、応用例として少子化問題を取り扱っている。第11章では、バブル崩壊後、日本の失われた30年を、人的資本への投資抑制という観点から解説する。最終章となる第12章では、全章を俯瞰するかたちで、人的資本投資の必要性について説いている。
本書の執筆にあたって、多くの方々にお世話になった。大湾秀雄氏、川口大司氏、黒澤昌子氏、佐藤香織氏、土本晃世氏、チャールズ・ユウジ・ホリオカ氏には、草稿をレビューしていただき、貴重なフィードバックとコメントをたくさんいただいた。また本書執筆の出発点は、Institution for a Global Society株式会社と2022年に立ち上げた「人的資本の実証化研究会」にある。本書の内容の多くは、この研究会に集った企業経営者やビジネスパーソンに私が講演したこと、彼らと議論したことをベースとしている。実務家の方々に理論を伝える、またとない機会を頂戴した。日経BPの堀口祐介氏は、企画から編集、そして出版までいろいろと助言をいただいた。お世話になったすべての方々に、深くお礼を申し上げる。
かなり昔のことにはなるが、シカゴ大学院時代に私を数理社会学と計量分析の分野に導いてくださったコールマン先生、博士課程ではメアリー・ブリントン先生、ゲーリー・ベッカー先生、山口一男先生には大変お世話になった。特に、私に人的資本理論と人間行動の経済学的なアプローチを伝授してくださったベッカー先生に、感謝と敬意の言葉をお届けしたい2)。
2024年3月
小野 浩
2) 2014年に、ベッカー先生が亡くなられたときには、追悼文を執筆した。小野浩(2014)「経済学を人の行動に応用した先駆者、ベッカー教授を悼む―小野浩米テキサスA&M大学准教授が振り返る『My teacher』」『日経ビジネスオンライン』(2014年5月7日掲載)
【目次】










