その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は太田肇さんの『 なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意思決定がなされるのか 身近な疑問からみる日本型組織の「無駄の構造」 』です。「プロローグ」をお届けします。

【プロローグ】「優秀」な人たちが組織を歪めるメカニズム

討議の結果、慎重論(=何もしない)に帰結してしまう会議

 なぜ、「優秀」で誠実な人たちが集まるほど、組織の意思決定は“おかしく”なるのか。
 なぜ、誰もが問題に気づいていながら、それを正すことができないのか。
 本書は、その正体を解き明かすことから始まる。


 月曜日の朝。まだ週末の余韻を断ち切れないどんよりとした空気が、会議室を支配している。営業部長が使い古されたノートパソコンを携えて入室し、重苦しい足取りで上座に座った。先月実施された大規模な顧客アンケートの結果を受け、その緊急対策を講じるための営業所長会議が招集されたのだ。
 配られたレポートの束には、無機質な数字が並んでいた。顧客満足度は前年同期に比べて明らかに低下しており、それがそのまま売れ行き不振の直撃弾となっている。自由記述欄に並ぶ不満の多くは、顧客に対するレスポンスの遅さを指摘するものだった。渋い顔でレポートを眺めていた部長は、苛立ちを隠そうともせず、開口一番に言い放った。
「今日からは全員、顧客からの問い合わせには一時間以内に即レスしろ!」

 部長の檄を受け、営業所に戻った所長は、早速所員たちを集めた。そして、今後は何をおいても迅速な対応を心がけるよう、繰り返し伝えた。所員たちは一様に頷き、真剣な表情でメモを取っていた。
 しかし、その従順な列の中から一人、おずおずと異論を口にする者が現れた。
「部長のおっしゃる即レスの重要性は痛いほどわかります。しかし、あまりに急ぎすぎると確認不足による誤った回答を招き、かえって顧客の不信を買い、怒らせてしまうのではないでしょうか。品質を担保するためにも、慎重な確認プロセスは維持すべきだと思います」

 この「正論」を待っていたかのように、他の所員も次々と同調した。
「たしかに。ミスを連発すれば、本末転倒ですよね」
「まずは今の業務フローを精査してからのほうが……」
 会議の空気は、瞬く間に「慎重論」へと傾いていった。
 結局、所長も拙速な対応が招くリスクを認めざるを得ず、「できるだけ早く回答するよう各自が努める」という、具体性のない着地点で話を収めるしかなかった。


 この会議は、一見すると「健全な議論」に見える。
 だが実際には、組織として解決すべき最も重要な問題──顧客対応の遅れ──は、何ひとつ解決されていない。
 むしろ、「何もしないこと」が「慎重で責任ある態度」として公認されてしまったのだ。

本音を隠した「正義の抵抗」がまかり通る

 しかし、彼らの発言の背後には、表に出ない別の動機が潜んでいる。所員たちの頭の中で優先されていたのは、必ずしも顧客サービスの品質や会社のリスク管理そのものではなかった。彼らは心の中で、まったく別の叫びを上げていた。

(そんなの無理に決まっている。これ以上、分単位で仕事が増えたら、保育園の迎えに間に合わなくなるじゃないか)
(せっかく残業を減らして効率化し、終業後の英会話スクールに通い始めたのに、これじゃあぜんぶ台無しだ)
(また今度の同期会、俺だけ『顧客対応』を理由に欠席する羽目になるのか……)

 彼らは、いかにして自分の生活や権利を守るための「反対の理屈」をひねり出すか、そのことだけに腐心していた。そして、誰か一人が「正義の仮面」を被って口火を切ってくれるのを、固唾(かたず)を呑んで待っていたのである。

管理職やベテランが新システム導入を敬遠する日本的理由

 こうした反応を、単なる「個人の甘え」や「意識の低さ」として切り捨てるのは早計だ。それは、個人の生活、価値観、仕事上のデリケートな立場、そして制度上の制約が複雑に交錯した結果として生じる、極めて合理的で自然な防御反応なのだ。
 この「本音を隠した抵抗」という現象は、現代の企業が社運を賭けて取り組むDX(デジタルトランスフォーメーション)の現場でもしばしば見られる。
 新しいITシステムの導入が話題に上るやいなや、特定のベテラン社員たちが「セキュリティに重大な懸念がある」「今のままでも十分に回っているのに、コストパフォーマンスが低すぎる」と猛反対を始める光景は、もはやお馴染みと言ってよい。
 しかし、彼らの本音は、サイバーセキュリティの問題や経営効率にあるのではない。新しいシステムの導入は、初期設定や運用ルールの再整備に膨大な手間がかかる。何より、長年培ってきた自分のやり方を捨て、慣れない操作をイチから覚えるには、相当な時間と労力を要する。さらに言えば、業務が高度に効率化・透明化されると、これまでの「職人芸」的なブラックボックスが消え去り、自分の専門性や社内での希少価値が失われ、組織内での存在意義そのものが揺らぐかもしれない。
 それは管理職にとっても同様だ。システムの導入で省力化が進み、部下が減れば、社内における自らの発言力や影響力は低下しかねない。
 かくして、上司も部下も、時代の趨勢としてDXは不可欠だと理解していながら、現場レベルでは、あらゆるもっともらしい理由を動員して、その浸透を全力で阻もうとするのである。
 本音を隠した「正義」の抵抗──。その姿は、まるで出演者が仮面を着けて演じる「仮面劇」のようだ。

「イノベーション」「多様性」と言いつつ、何も変わらない虚無

 重要なのは、こうした現象が特定の企業や業界に限らないという点だ。それは、現代の日本企業に広く見られる“構造的な反応”なのである。

 日本では、古くから「滅私奉公」の精神が尊ばれ、令和の今になっても「私」よりも「公」を優先するのが当然という美徳が染み付いている。個人的な事情や不都合を表に出すことは「わがまま」、「利己的」と見なされ、もしかすると昇進に響いたり、窓際へ追いやられたりするかもしれない。
 だからこそ、自分の身を守るために、誰も反論できないような「公の正義」に基づいた偽りの事情が、巧みにでっち上げられる。「私」を出すために「公」をハック(利用)しなければならないのだ。
 ここに、日本型組織の最も厄介な特徴がある。それは単に「本音が語られないこと」ではない。「個人の切実な本音」が、「組織を硬直させる誤った正論」へと変換され、流通してしまうことにある。その結果、経営陣は抵抗の真の理由を突き止めることができず、的外れな説得を繰り返した挙げ句、改革そのものが頓挫してしまう。
 さらに、そこへ日本企業特有の組織構造が加わり、新たな制度が取り入れられても骨抜きにされるといったケースが少なくない。

 例えば、組織不正防止の切り札として各企業が導入した内部通報制度だが、制度がありながら不祥事を招いたケースが多い。そこには日本の企業組織特有の「壁」が横たわっている。
 みんなで一緒に仕事をする日本の職場では、誰が通報したかがだいたいわかってしまうし、通報者は会社という共同体に向けて弓を引いたとして、会社全体を敵に回すことになる。
 そして、通報を理由とした減給や降格など法が禁じている報復を受けなくても、それまでどおり親しく接してもらえなかったり、裏情報を教えられなかったり、といった見えない仕打ちを受ける恐れがある。集団作業が通例の職場では、人間関係からの排除は社員に致命的なダメージを与える。それがわかっているから、制度の利用には相当の覚悟がいるのだ。
 男性の育児休業取得が進まないことも、有給休暇取得率が伸び悩むことも、根っこにある問題は同じだ。いくら上役が「権利だから使いなさい」と推奨しても、現場では「自分の穴を埋める同僚への申し訳なさ」が真っ先に頭をよぎる。休むという「正当な権利」よりも、周囲に迷惑をかけないという暗黙の規範のほうが、はるか上位に君臨しているのだ。
 また、表向きは「イノベーション」や「多様性」という華々しい旗印が掲げられていても、その実態は、「古き良き(あるいは悪しき)慣行」という名の巨大な岩盤が、変化の芽を一つひとつ踏みつぶしているのが現実だ。
 若手が放つ独創的なアイデアは「時期尚早」という正論で封じられ、勇気ある異論は「和を乱す」という道徳で消し去られる。その結果、上司への過剰な忖度や、見て見ぬふりという名の「共犯関係」が、組織を内側から腐らせる温床となっていく。

 制度はあっても機能せず、言葉はあっても心に届かない。この「立派な制度が空回りし続ける」という虚無感こそが、今の日本企業を覆う薄雲の正体なのである。

個人の「会社員的ライフハック」が組織の問題をより深刻にする

 けれども、問題の根っこはもっと深いところにある。
 私はこれまで、日本企業に根強く存在する「共同体型組織」こそが、こうした閉塞の原因であると指摘してきた。
 終身雇用や年功序列の枠組みが色濃く残る企業では、メンバーの流動性が極めて低く、組織は必然的に閉鎖的なムードを帯びる。さらに、新卒一括採用によって長期間、固定された仲間と過ごすと、価値観や行動様式はしだいに同質化し、組織は本来の機能的な集団であることをやめ、「ムラ」や「家族」のような共同体へと変質していく。
 そうなれば、組織は本来の目的である顧客利益や社会貢献よりも、共同体の存続や、今のメンバーの既得権益を優先する傾向を強めてしまう。一方では内部の調和と序列を守るため、互いに牽制し合う。この「共同体型組織」の性質が、現代の日本企業における経営や働き方改革の足かせとなっていることは疑いようがない。

 しかし、こうした議論は、問題の片面しか捉えていなかったのではないか。組織の体質や文化だけにすべての原因を求めるのは、いささか皮相的ではないか。そういう考えが日増しに強くなってきた。
 実際、組織の閉鎖性や役割の曖昧さについては、これまで何度も激しい批判にさらされてきた。それにもかかわらず、効果的な改善策が打たれなかったのはなぜか。
 より深層にある真の問題は、その共同体型組織に適応し、その中でしたたかに生きる「メンバー自身の行動」にあるからだ。
 つまり、個人は制度や文化の制約の中で、自らの利害や欲求を最も効率的に、かつ安全に満たす方法を本能的に見つけ出し、合理的に追求してきたのである。

「従順で無私の日本人像」を前提としたマネジメントは正しいか

 本書の視点が従来の組織論と異なるのは、この「個人の合理性」を出発点に据える点にある。

 私たちは、言い古された「集団主義で従順な日本人」などではない。むしろ、組織の古いOSを逆手に取って、自分の領分を必死に守り抜こうとする、極めて合理的で、環境への適応能力に長けた個人の集まりなのだ。
 そこには、日常生活の安定、自分だけ損をするのはご免だという本音、複雑な人間関係の維持、崩したくない体面やプライド、静かに燃える競争心、あるいは逆に純粋な他者への献身願望や、自身の理想を貫きたいという信念など、一言では語り尽くせない多様な動機が絡み合っている。
 こうして、共同体型組織の持つ「全体主義的」な性質と、そこに適応した個人の「功利的・合理的」な行動が複雑に絡み合うことで、私たちの目には一見すると非効率で理解し難い、ときには珍妙にさえ映る、さまざまな歪んだ現象が生じている。

 日本企業において、個人の利害を公言することがタブーである以上、社員は本音を幾重もの仮面で隠して行動せざるを得ず、問題の本質は常に見えにくい闇の中に沈んでいる。だからこそ、どんな華々しい改革も空回りし、効果的な一手を打つことが難しい。それどころか、前提が誤っている以上、改革をすればするほど理想と本音のギャップはますます広がっていくのだ。
 ここまで分析を進めてくると、もう一段深い層に横たわる一つの事実が浮かび上がる。私たちはこれまで「日本人」という存在を、あまりにも誤った、あるいは理想化された視点で捉えてきたのではないかということだ。それは、不都合だが避けて通れない事実である。
 企業経営もまた、実態とは乖離した「従順で無私の日本人像」を前提にマネジメントを行ってきたのではないだろうか。これまでの古い仮定に基づいた施策や制度設計が、リニューアルされないまま、現実の生身の社員たちが抱える複雑な欲望や恐怖と激しく摩擦を起こし、計り知れない無駄とストレスを生んできた。そこにこそ、日本社会が抱える問題の核心があると言ってよい。
 今こそ、固定化された「日本人像」を捨て去り、現実の私たちがどのように考え、どのように「賢明」に振る舞っているのかを正しく理解したうえで、制度や組織のあり方を根本から再構築する必要がある。

【目次】

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