その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はデイビッド・エプスタインさんの『 RANGE(レンジ) 知識の「幅」が最強の武器になる 』です。

【はじめに】

タイガー・ウッズvsロジャー・フェデラー

 まずはスポーツの話から始めよう。最初の人物については、恐らくよくご存じのことと思う。

 「この子はほかの子とは違う」と、父親は息子を見ていて思った。
 生後6カ月の時、父親が自分の手のひらの上に載せるとそこでバランスをとり、父親はそのまま家の中を歩くことができた。7カ月になると、歩行器で歩く時には、おもちゃに与えたパターをどこにでも引きずっていった。そして10カ月で、子ども用のハイチェアから自分で下りては、その子の身長に合わせて短くしたゴルフクラブ目指して歩き、ガレージでスイングのまねをした。
 息子はまだしゃべれなかったので、父親は絵を描いて、クラブをどうやって持つかを教えた。
 「小さくて話ができない頃には、パットの仕方を教えるのはすごく難しかったよ」と、父親はのちに語った。
 2歳になると、全国放送のテレビに出演して、自分の肩くらいまであるクラブを使ってボールを打ち、俳優のボブ・ホープが感心して見ている中でボールを飛ばした。2歳といえば、米疾病対策センター(CDC)の発育指標では、やっと「ボールを蹴り、つま先立ちをする」くらいの年齢だ。その年、初めて競技会に参加して、10歳以下のクラスで優勝した。
 時間をムダにしている暇はなかった。3歳になる頃には「バンカー(sand trap)」をまだうまく言えないのに、バンカーショットを練習していた。父親は将来の計画を立て始めた。「この子はゴルフのために生まれてきた。息子を導くのは自分の務めだ」
 あなたも自分の子どもの才能を確信したら、いつか必ずメディアが押しかけてくると予想して、3歳の子どもにメディアへの対応を教え始めるかもしれない。その父親も記者のふりをして息子に質問をし、尋ねられた内容だけを答えるよう、短く返事をする方法を教えた。その年、息子はカリフォルニアのゴルフコースで9ホールをスコア48、11オーバーで回った。
 4歳になると、父親は息子を朝9時にゴルフコースまで送り、8時間後に迎えに来るようになった。すると、息子は誰かに勝ってお金を稼いでいることもあった。
 8歳の時、息子は初めて父親に勝った。父親は気にしなかった。息子にはとにかく才能がある。自分にも特別な資質があって、息子の力になれると信じていたからだ。
 父親自身も傑出したスポーツ選手だった。大学では野球選手で、しかも所属リーグ唯一の黒人選手という非常に困難な状況で戦ってきた。父親は人間を理解し、規律を理解していた。社会学専攻で、ベトナム戦争ではエリート集団のグリーン・ベレー(アメリカ陸軍特殊部隊)の一員として従軍。その後、幹部候補生に心理戦を教えてきた。前妻との間に3人の子どもをもうけたが、その子たちには十分なことができなかったと思っていた。だが、この4人目の子どもで、やり直すチャンスを与えられたと感じた。そして、すべてが計画通りに進んでいた。
 息子は、スタンフォード大学に進学する頃にはすでに有名になっており、父親は息子の新たな存在意義を見いだした。息子はネルソン・マンデラよりも、ガンジーよりも、ブッダよりも大きな影響を及ぼすようになる。「彼らよりも、息子は多くの観衆を集めている。息子は東洋と西洋の架け橋だ[母親はタイ出身]。息子には導きがあるから無限の可能性がある。どんな形になるかはまだわからないが、選ばれた人間であることは確かだ」

 二人目の人物も、恐らくご存じだろう。ただ、最初は誰の話だかわからないかもしれない。
 その少年の母親はコーチだった。だが、少年を教えたことはなかった。
 少年は歩き始める頃にはボールを蹴るようになり、少し成長すると、日曜日には父親とスカッシュをした。スキーやレスリング、水泳、スケートボードもして遊んだ。バスケットボールやハンドボール、テニス、卓球もやり、近所の家のフェンスをネット代わりにバドミントンもやった。学校ではサッカーだ。こうしてさまざまなスポーツを経験したことで、運動能力や反射神経が養われたと、のちに彼は語っている。
 少年は球技なら何でも好きで、「ボールを使うスポーツだったら、何でもやってみたいと思った」と振り返った。遊ぶのが好きな少年だった。だが、両親は彼のスポーツの才能に関して特に期待しておらず、「何の計画もなかった」と、母親は言う。両親は少年に、幅広くスポーツをしてみることを勧めた。実は、そうせざるを得なかった。じっとさせておこうとしても「我慢していられない」からだ。
 母親はテニスのコーチだったが、少年のことは指導しないと決めていた。母親はこう語る。「結局、イライラするだけだから。変なストロークを端から試して、まともにボールを返した試しがなかった。母親としては、全く面白くなかったわ」
 スポーツ・イラストレイテッド誌は、両親が「押しつける」のではなく、むしろ「引いていた」と評する。13歳になる頃には次第にテニスに惹かれていったが、「もし両親が少しでも圧力をかけていたら、彼は真剣にテニスをしなくなっていただろう」と同誌は記す。試合の時にも、母親は辺りをブラブラ歩いて友人とおしゃべりをしていた。父親は一つだけ、「ズルはするな」というルールを守らせた。少年はこのルールを守り、メキメキと腕を上げた。
 やがて、地元の新聞がインタビューをしに来るようになった。だが、その記事を見て母親は仰天した。テニスで初めて賞金を獲得したら何を買いたいかと聞かれて、「メルセデス」と答えていたからだ。記者にインタビューの録音を聞かせてもらって、それが間違いだとわかると母親はホッとした。少年はスイス系のドイツ語で「Mehr CDs」と答えていた。つまり、もっとCDが欲しいということだった。
 少年は間違いなく強かった。だが、インストラクターが少年を年長の選手と一緒のグループに入れると、少年は元のグループに戻してほしいと頼み込んだ。友達と一緒にいたかったからだ。レッスンのあとで音楽やプロレスについてしゃべったり、サッカーをしたりするのが楽しかった。
 ようやく他のスポーツ、特にサッカーを諦めてテニスに集中するようになる頃には、同年代のテニス選手たちは、フィジカル・トレーナーやスポーツ心理学者、栄養士などをつけて長年トレーニングを積んできていた。しかし、こうした他の選手との差が、少年の成長に影響することはなかったようだ。普通であれば伝説的なテニス選手も引退していく30代半ばになっても、彼は世界ランキングで1位を獲得している。

 2006年に、タイガー・ウッズとロジャー・フェデラーは初めて顔を合わせた。二人の力がまさに頂点に達している時だった。全米オープンテニスの決勝戦を見に、タイガーがプライベート・ジェットでやって来た。それを聞いてフェデラーはとても緊張したという。それでもフェデラーは3年連続の優勝を勝ち取った。ウッズはシャンパンで祝おうと、フェデラーのロッカールームを訪れた。
 二人の結びつき方は、二人にしかあり得ないものだった。「無敵であることがどういうことか、彼ほどよく知っている人に会ったことがなかった」と、フェデラーはのちに語っている。二人はすぐに親しくなり、また二人は「世界で最も強いスポーツ選手は誰か」という議論でもよく取り上げられていた。
 それでも、フェデラーのほうはタイガーとの違いを感じていた。「タイガーの歩んできた道は僕とは全く違う」と、フェデラーは2006年に伝記作家に話している。「タイガーが子どもの頃、目標はメジャー大会の最多優勝記録を塗り替えることだった。僕の夢は、一度でいいからボリス・ベッカーに会ってみたいとか、いつかウインブルドンでプレイしてみたいとかいうことだった」
 両親が「引いていて」、しかも最初は気楽にスポーツをしていた子どもが、のちに史上最強とも言える選手に成長するとは、普通はまず考えられない。タイガーとは違って、フェデラーの場合は、少なくとも何千人もの子どもたちが彼よりも前にスタートを切っていた。
 タイガーの育て方は、専門的な能力の伸ばし方をテーマとした本でよく取り上げられ、ベストセラーにもなっている。タイガーの父のアール・ウッズも1冊書いている。その本でも書かれているように、タイガーはただゴルフをしていただけではなく、「意識的な練習(deliberate practice)」に取り組んでいた。今ではよく知られている、「1万時間の法則」で重視される練習法だ。この「法則」の基本となっている考え方は、どんな分野であっても、専門に特化した練習の時間数がスキルの伸びを決める唯一の要因となる、ということだ。
 この法則が生まれるもとになった、バイオリニスト30人の研究によると、「意識的な練習」とは、学習者に「最もよいやり方を明確に教え」、インストラクターが個別に指導して「やってみた結果に対して、すぐに有益なフィードバックと知識を提供し」「同じこと、あるいは同じようなことを何度も繰り返す」練習方法である。専門能力の開発に関するいくつもの研究によると、エリートと呼べるスポーツ選手は、低いレベルに留まる選手と比べて、非常に専門的で「意識的な」練習に、毎週多くの時間を費やしている(グラフ参照)。

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 タイガーは「意識的な練習の量で成功が決まる」という考え方を象徴する人物だ。その考え方に基づくと、当然ながら、訓練はできる限り早く始めなければならない。
 早いうちに、何に取り組むかをしっかりと決めるべきだという考え方は、スポーツ以外の領域にも広がっている。世界が複雑化し競争が激しくなる中で、その世界を渡っていくためには、誰もが専門的な能力を身につけるべきだ(そして早く始めるべきだ)と言われる。成功者としてよく知られる人たちは、その早熟さと「ヘッドスタート」、つまり他人より早くに有利なスタートを切ったことが強調される。モーツァルトは幼い頃から鍵盤(キーボード)を、フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグは別の種類のキーボードを相手にしていた。
 どの分野においても、人間の知識が急速に膨らみ、世界が互いにつながり合っている。それに対応するには、フォーカスするものを限定して絞り込むことが必要だと言われる。腫瘍専門医はもはやすべてのがんを治療するのではなく、がんができる器官ごとに専門が分かれている。その傾向は年々強まる一方だ。外科医で作家のアトゥール・ガワンデは、左耳専門の外科医が「本当にいないかどうか確かめてみなければ」と医師たちが冗談を言っていると書いている。「1万時間の法則」をテーマとしたベストセラー『非才!』で、イギリス人ジャーナリストのマシュー・サイドは、イギリス政府がタイガー・ウッズのような専門化を徹底できていないと批判する。サイドは政府の上層部の役人が、ローテーションでさまざまな部署を回らされていることについて、「タイガー・ウッズをゴルフから野球へ、そしてサッカーやホッケーへと異動させているようなもので、非常にばかげている」と指摘した。
 しかし、イギリスは2012年のロンドン・オリンピックでは大成功した。何十年もパッとしない成績が続いたあとの成果だった。
 それを支えたのは、新しいスポーツを試してみるよう大人に声をかけ、遅咲きの選手を生み出すパイプラインをつくったことだ。このプログラムに関わった人物は、そんな選手のことを「スロー・ベイカー」と表現した。つまり、スポーツ選手が、フェデラーのようにさまざまなスポーツを試してみてから専門分野を決めることは、たとえエリート選手を目指していたとしても、それほどばかげていないということだ。
 エリート選手はそのピーク時には、確かにエリートではない選手よりも多くの時間を意識的な練習に費やしている。しかし、研究者がスポーツ選手の子どもの頃からの練習時間を分析してみると、次のような結果が得られた(グラフ参照)。

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 この調査結果によると、やがてエリートになる選手が意識的な練習に投じている時間は、初期の頃は他の選手よりも少ない。
 その代わりに、エリート選手は研究者が「体験期間(sampling period)」と呼ぶ時期を経ている。その間にさまざまなスポーツを、たいていは自由に、あるいは緩い枠組みの中で経験している。そこで幅広い身体能力を育み、自分の力や性質を知って、そのあとで専門とするスポーツを決めて、集中的に練習に取り組んだ。個人競技の選手についてのある研究では、「ゆっくり専門を決める」ことが、「成功のカギ」だとしている。別の研究には、「団体競技でトップになる――遅く始めて、強化し、決意を揺るがさない」というタイトルのものがある。
 こうした研究について私が記事を書くと、示唆に富む意見ももらったが、単に否定もされた。ファンがよく言うのは、「ほかのスポーツはそうかもしれない。でも、私たちのスポーツは違う」。中でも、世界で最も人気があるスポーツ、サッカーファンからの反発が一番強かった。
 しかし2014年の終わり頃、ちょうどドイツがワールドカップを制したあとに、ドイツの科学者のチームが絶妙なタイミングで研究を発表した。それによると、ドイツ代表選手の多くはサッカーに的を絞った時期が遅く、少なくとも22歳までは、アマチュアリーグ程度の緩い枠組みでサッカーをしてきた。子どもの頃や少年時代には、自由にサッカーをしていたか、他のスポーツをしていたという。
 その2年後に発表された別のサッカーの研究は、11歳の時点で同レベルのスキルだった選手を2年間追跡した結果を示した。すると、他のスポーツに取り組んだり自由にサッカーをしたりして「正式な組織ではサッカーの練習やトレーニングをしていなかった」選手のほうが、13歳の時点では技術が向上していたという。今では同様の研究結果が、ホッケーからバレーボールまで、さまざまなスポーツに関して発表されている。
 「究極的な専門特化(ハイパー・スペシャライゼーション)」の必要性が、スポーツに限らず他の分野でもよく言われている。それは何かを売り込んで儲けようという意図がある場合もあれば、善意から言っている場合もある。現実には、タイガー・ウッズが歩んだ道のりではなく、ロジャー・フェデラーがスターになった道のりのほうが一般的なのだが、そのような選手のストーリーは、語られることがあったとしてもひそやかに語られる。だから、あなたがよく知っている選手にそうした経歴があっても恐らく知らないだろう。
 私がこの「はじめに」を書き始めたのは、2018年のスーパーボウルのすぐあとだった。その試合に出場していたクオーターバックのトム・ブラディは、アメリカン・フットボールの選手になる前に、プロ野球のドラフトで指名された。ブラディと対戦したニック・フォールズは、フットボール、バスケットボール、野球、空手を経験し、大学生の時にバスケットボールとフットボールの間で選択して、フットボールの選手になった。
 まさに同じ月、チェコのエステル・レデツカが冬季オリンピックで、二つの異なるスポーツ(スキーとスノーボード)で金メダルを獲得した。女性としては初めてのことだ。レデツカは子どもの頃にいくつものスポーツを経験した(今でもビーチバレーとウインドサーフィンをしている)。学業にも集中していたので、10代の頃にはトップを目指そうとはしなかった。ワシントンポスト紙はレデツカが二つ目の金メダルを獲得した翌日、「一つのスポーツに専念する時代の中で、レデツカは多様なスポーツに取り組むことの大切さを示してきた」と書いた。
 その直後に、ウクライナのボクサー、ワシル・ロマチェンコが、最速で、三つの異なる階級で王者となった。ロマチェンコは子どもの頃、伝統的なウクライナ舞踊を学ぶために4年間ボクシングを休んだ。ロマチェンコはその頃を振り返って言う。「幼い頃には本当にいろいろなスポーツをやった。体操、バスケットボール、フットボールにテニス。最終的には、全く違うスポーツがすべて組み合わさって、フットワークがよくなったのだと思う」
 有名なスポーツ科学者のロジャー・タッカーは、シンプルにこう述べる。「初期にいろいろ試してみることと、多様性が重要だということは明らかだ」

 私は2014年に、初の著書『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?』のあとがきに、「遅めの専門特化」に関する最近の研究について書いた。その翌年、意外な方面から、それらの研究について講演してほしいという依頼を受けた。それはスポーツ選手でもコーチでもなく、退役軍人だった。
 講演の準備のために、スポーツ以外のキャリアについての論文を調べてみると、驚くような発見があった。ある研究は、早めに専門を絞り込んだ人は、ゆっくり専門を決めた人より大学卒業後しばらくは収入が高いが、ゆっくり専門を決めた人は、より自分のスキルや性質に合った仕事を見つけられるので、じきに遅れを取り戻すことを示していた。また、多くの研究が示唆しているのは、テクノロジーの開発において、さまざまな分野で経験を積んだ人のほうが、一つの分野を深めた人よりも、クリエイティブで影響力の大きい発明ができることだった。実際、キャリアの中で積極的に深さを犠牲にして幅を広げ、成功していた人たちがいた。芸術分野でのキャリアに関しても、同じような研究結果があった。
 さらに、私が尊敬するすばらしい業績を上げた人たちも、ウッズよりもフェデラーのタイプが多い、と気づき始めた。たとえば、デューク・エリントンは子どもの頃、お絵描きと野球がしたかったので、音楽のレッスンを嫌がっていた。数学分野で最も名高いフィールズ賞を女性で初めて受賞したマリアム・ミルザハニは、小説家になることを夢見ていた。もっと調べていくと、経験と興味の幅が広かったからこそ成功した、さらに驚くべき人たちを見つけた。たとえば、同年代の人たちが引退する頃に初めて仕事に就いたCEO。五つの仕事を経験したのちに、天職を見つけて世界を変えた画家。自ら「一つのことには専念しない」と決めて、19世紀に設立された小さな企業を、今では世界で広く知られた企業にした発明家などだ。
 退役軍人に講演をした時には、スポーツ以外の分野での専門特化についてはまだ研究し始めたばかりだったので、話の中身はスポーツを中心にした。それ以外の発見については短く触れるだけにしたのだが、聴衆はそれに飛びついた。聞き手は全員がキャリアを変更した人たち、つまりは遅くに専門特化した人たちだった。そして、講演のあとに聴衆が次々と自己紹介をし始めると、誰もがキャリアについて少なくとも心配しており、中にはキャリアを変更してきたことを恥じているような人もいた。
 彼らはパット・ティルマン財団の呼びかけで集まっていた。故パット・ティルマンは元NFL(ナショナル・プロフットボール・リーグ)の選手で、アーミー・レンジャー(米軍の陸軍特殊部隊)に入るためにフットボールをやめた。同財団は彼のこうした精神に基づいて奨学金を提供しており、それを受けられるのは、キャリアの変更や復学を予定している退役軍人や現役の軍人、軍人の配偶者だ。聴衆は全員が同財団の奨学生で、元落下傘兵や通訳者らが、教師や科学者、エンジニア、起業家などになろうとしていた。
 彼らは熱意にあふれていたが、心の底には恐怖心があった。というのも、彼らは雇用者が希望するようなキャリアを一直線に歩んできたわけではなかったからだ。復学する人は、自分より若い学生(場合によっては、かなり若い学生)と一緒に大学院に入ることを心配していた。同年代の人たちに比べて、路線を変更するのが遅いことも気にしていた。そうなったのは、彼らがその人ならではの人生や、リーダーとしての経験を重ねてきたからなのだが、どういうわけか、そうした強みが頭の中で負債に変わっていた。
 ティルマン財団で講演した数日後、講演のあとで挨拶をしにきた元ネイビー・シールズ(海軍特殊部隊)のメンバーが、私にメールをくれた。「私たちは全員がキャリアを変更する過程にあります。講演のあと何人かが集まって、あなたの話を聞いてとても安心したと話しました」。私はこのメールを読んで少しばかり戸惑った。元ネイビー・シールズのメンバーで、歴史と地球物理学の学士号を持ち、ダートマスとハーバードの大学院で経営学と行政学を学んでいる人物が、人生の選択に関して私などに認めてもらう必要があるとは。しかし、同じ部屋にいた他の人たちと同様に、彼も直接的・間接的に、キャリアの方向を変えるのは危険だと言われてきたのだった。
 この講演がとても聴衆に喜ばれたので、私は2016年に同財団の年次会議に招かれて、基調講演をした。さらに、別の都市で開かれた小規模なグループの会合でも話をした。それぞれの講演の前に、私は論文を読み進め、研究者と話をした。そして、人間としての幅や、キャリアの幅を獲得するには時間がかかること。また、そのために、ヘッドスタートを諦めなければならない場合も多いが、それだけの価値はあるということについて、多くの確証を得た。
 さらには、名高い専門家でも視野が狭くなることがあって、経験を重ねるごとにもっと狭くなり、一方で自信は増していく。そうした危険な状況についての研究も読んだ。また、認知心理学者たちから教えられたことも驚きだった。それは、永続的な知識を得るためには、ゆっくりと学習するのが最善だということだ。たとえ、その時の試験結果や成績が悪くなっても、そうするのがよいという。この点については膨大な研究があるが、ほぼ無視されている。逆に言うと、最も効果的な学習は非効率に見え、後れを取っているように見えるということだ。
 中年の時に何か新しいことを始めるのも、そのように見えるかもしれない。マーク・ザッカーバーグがこう言ったのは有名だ。「とにかく若い人のほうが頭がよい」。しかし、テクノロジー企業の創業者では、50歳の人は30歳の人に比べて、企業を立ち上げ大成功する確率が2倍近い。30歳の人たちは20歳の人たちよりも、その確率が高い。ノースウェスタン大学とMIT(マサチューセッツ工科大学)、米国勢調査局は新設のテクノロジー企業について調査し、大きく成長している企業では、創業者の創業時の平均年齢は45歳であることを示した。
 ザッカーバーグは「若い人のほうが頭がよい」と言った時、22歳だった。だから、そのメッセージを広めるのは彼のためになった。同じように、子ども向けのスポーツリーグを運営する人たちが、「成功するには1年を通じて一つの活動に集中する必要がある」と訴え、どんな反証があろうと気にするなというのも彼らのためになる。
 専門特化への流れはさらに強まっている。その傾向は個人だけではなくシステム全体に及び、専門に特化したグループは、全体の中でますます小さな部分に目を向けるようになっている。
 2008年の世界金融危機のあとで明らかになったことの一つに、大手銀行組織の細分化があった。専門に特化した多数のグループが、全体の中ではごく小さな、自分たちのグループのためにリスクを最適化しており、そのために大惨事が引き起こされたのだ。
 さらには、金融危機への対応からも、専門特化から生じる問題の深刻さが、眩暈(めまい)がするほどにひどいことも明らかになった。
 2009年に連邦政府のプログラムが立ち上がり、住宅所有者の中で、苦労はしながらも部分的に借り入れの返済ができる人たちに対して、月々の返済額を引き下げるよう銀行を支援するという試みが行われた。よいアイデアではあったが、実際にはこんなことが起こった。銀行の住宅ローン貸付担当部門は、プログラムに基づいて住宅所有者が月々返済する額を引き下げた。一方で、同じ銀行で差し押さえを担当する部門は、住宅所有者の返済額が突然減少したことに気づいて、債務不履行を宣言し、住宅を差し押さえた。政府のアドバイザーはのちに、「同じ銀行の中で組織がこれほど分け隔たれているとは、誰も想像もしなかった」と述べた。行きすぎた専門特化は、各部門が最も合理的な行動を取っていたとしても、全体としては悲劇につながる恐れがある。
 悲劇はそれだけではない。高度に専門特化した医療関係者が、「金槌を持っていると、すべてが釘に見える」症候群に陥るような場合だ。カテーテルやステントによる治療を専門とする心臓専門医は、胸の痛みをステントで治療することにあまりにも慣れてしまっている。ステントとは血管を広げる金属のチューブだ。そのため、ステントを用いるのが不適切、あるいは危険だと医学的に証明されている場合であっても、反射的にステントを用いて治療をしてしまう。最近の研究によると、全国的な心臓病の学会が開催されて、何千人もの心臓専門医が病院を留守にする期間には、入院した心臓病の患者が死亡する確率が低いという。その期間には、効果が期待できないのにいつも行われる治療が実施されなくなるからではないかと、研究者らは示唆している。
 ある国際的に有名な科学者(本書の終わりのほうで再び登場する)によると、専門特化の傾向が進むにつれて、「平行溝のシステム」ができてきているという。それは、誰もが自分の溝を深く掘り続けることに専念しており、もしかしたら、隣の溝に自分が抱えている問題の答えがあるかもしれないのに、立ち上がって隣を見ようとはしない、ということだ。
 そこでその科学者は、未来の科学者の教育を「非専門化」しようとしている。やがては、すべての分野の教育に、それが広まることを願っている。彼は自身の人生において、専門に特化するよう求められたにもかかわらず、幅を広げたことで莫大な効果を得てきた。そして、彼は再び自らの幅を広げつつある。未来の科学者がタイガー・ウッズ方式ではない道のりを歩むための、教育プログラムの設計だ。その科学者は「これが私の人生において、最も重要な成果となるかもしれない」と言う。それがなぜなのか、本書を通じて理解してもらえたらと思う。

 ティルマン財団の奨学生たちが、先行きの不透明さを口にし、間違いを犯しているのではないかと心配していた時、私は自分が言葉にした以上に、その気持ちを理解していた。私は大学卒業後に太平洋上の科学調査船で仕事をしていたが、その時自分は科学者になりたいのではなく、物書きになりたいのだと確信した。科学から執筆に移る過程で、ニューヨーク市のタブロイド紙で深夜犯罪担当の記者になろうとは予想していなかった。そのあとにスポーツ・イラストレイテッド誌のシニア・ライターになったが、自分でも意外なことに、すぐに辞めてしまった。私は自分が「一つの仕事に腰を据えること恐怖症」で、キャリアというものを誤解しているのではないかと心配し始めた。
 しかし、幅の広さや、遅めの専門特化について学んだことで、自分自身や世界の見方が変わった。この研究は、どの年代の人にも関係する。算数や音楽やスポーツの上達を目指す子どもたち、自分の道を探そうとしている大学新卒者、キャリアの変更が必要な中堅の人たち、天職を探している退職希望者――。
 私たち全員が直面する課題は、専門特化がますます推奨され、要求されることさえある世界で、どうやって幅の広さや、多様な経験や、分野横断的な思考を維持していくかということだ。世界の複雑さは増しており、世界がテクノロジーで相互につながって、さらに大きくなり、個人はごく小さな部分しか見えない状況になっている。その中では、タイガー・ウッズのような早熟さや、明確な目的意識が求められる場面は確かにある。しかし、その一方でもっと多くのロジャー・フェデラーも必要になる。幅広く始めて、成長する中でさまざまな経験をし、多様な視点を持つ「レンジ(幅)」のある人たちである。

【目次】

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