その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は伊丹敬之さんの 『孫子に経営を読む』 です。

文庫版はしがき

 この本は、『孫子』の中にちりばめられた多くの言葉から、とくに経営にとって意味深いと私の心に響いたものを、私なりに「経営のための思考」という観点から読み解いた本である。

 だから、本のタイトルを『孫子に経営を読む』とした。もっとストレートにいえば、私が勝手に三〇の言葉を選び、原本の構成とは関係なしに私なりの構想で並べ直し、それぞれの言葉の経営的意味を解釈してみた「伊丹流勝手解釈」の孫子本、というべきかも知れない。

 この本のハードカバー版が出てから七年間、幸いにしてかなりの読者に読んでいただけたようだ。いいコメントや感想もたくさん頂戴した。なるほどこの言葉はこう理解するのか、という感想も頂いたし、こんな言葉が選ばれていることが驚きであり深く感じるものがあった、というコメントを頂いたこともある。

 孫子の言葉でよく引かれるものの前後に、じつはさらに深い言葉があることが多い。それを読者に伝えたかったというのも言葉の選択の一つの大きな理由だったのだが、その意図が読者に伝わったようでありがたいことであった。

 その本が、ハードカバーとしての寿命を終えそうになったときに、文庫本として生まれ変わることになった。自著がふたたび多くの方の手に入りやすくなることは、著者としては大きな喜びである。

 私は、「孫子に経営を読む」際の読み解き方として、孫子の特徴を生かせるよう三つの基本スタンスを意識的にもつことにした。

 第一は、「その先の」真実を考える、というスタンスである。

「その先」とは、少なくとも二つある。一つは、一見まったく当たり前に聞こえる言葉の、「その先」。もう一つは、アレこんなことをいうのか、と思えるような逆説的な言葉の、「その先」。

 いずれの場合も、孫子はなぜそんなことをあえていうのか、を考え、その思考の奥を考えようとした。当たり前に聞こえることの奥の深さ、逆説が教える面白さ、それらを私なりに考えようとした。

 孫子の特徴の一つは、その思考の深さとすごさなのである。

 私の読み解きの第二のスタンスは、ついつい私も含めて多くの人が犯しがちな、ものの見方・考え方の誤り、それを考えるというものである。孫子が「ついついの誤り」を指摘している言葉を選び、その誤りの「なぜ」とその誤りが「もたらしてしまうもの」を考えようとした。

 ついついの誤りを、多くの人は自分で意識せずに犯してしまう。その陰には、心理的な弱さがあることが多いであろう。自分を正当化したくなって、自分の不都合を隠したくなって、自分の気持ちを楽にしたくなって、ものの見方を誤ってしまうのである。そこを孫子は深く考えている。

 孫子の特徴の一つは、人間心理の読み、とくに弱さの読み、の深さなのである。

 第三に私が読み解きの際に重んじたのは、孫子がさまざまな事柄の間にほとんど必ずといっていいほど「あえて」つけているように見える、「複数の事柄の間の優先順位」をきちんと考えるというスタンスである。

 孫子は、何かを考える際に複数の要因があるとき、つねに優先順位を明確にしようとしている。たんに必要事項をリストアップする、ということでなく、「一にA、二にB……」と明確なのである。あるいは、わざわざ、一、二と順序を数字で明記しないときにも、書かれる順序そのものが優先順位を反映していると考えられることが多い。

 これは案外とつらい思考法で、あえて優先順位を自分の中でつけることで努力の濃淡や結果の重要性の大小に必ず思いをめぐらせる、ということを孫子は自分に強いていたのではないか、と私は考えた。それが、論理をくっきりとさせる。

 孫子の特徴の一つは、思考における順序の尊重とそこから生まれる論理的明晰さなのである。

 もっとも、こうして孫子の読み解き方のスタンスを著者である私が書くのは、料理人が自分の料理の仕方のポイントをお客様に伝えることに似ている。それを本の冒頭で読まされる読者は、料理を食べる前にその料理についての講釈を聞かされるようなものかも知れない。

 もちろん、料理は食べて美味しいと思えるかが勝負、本は読んで意味があったと思えるかが勝負、である。ただ、読まれる際に、孫子の「思考の深さ」「人間心理の読みの深さ」そして「論理の明晰さ」を伊丹が強調していたな、と頭のどこかで思いながら読んでいただけば、より読書が面白くなるのではと期待している。

 とにもかくにも、持ち歩くのが便利になった文庫版で、Bon appétit!

二〇二一年六月  伊丹敬之

序  物理と心理の書、『孫子』

 『孫子』は、中国古代の春秋時代、紀元前五世紀から前六世紀の頃に、孫子(孫武)によって書かれた兵書、というのが定説である。今から二六〇〇年も前のことである。

 短い本で、字数にして漢字六〇〇〇字ほどにすぎない。古来さまざまな版があるが、この本で引用している岩波文庫版(金谷治訳注『新訂 孫子』)の本文ページ数は、漢文、読み下し文、注記、現代語訳をすべて含めてもわずか一六〇頁弱である。漢文だけであれば、四〇頁にもならないだろう。

 本の構成は、次の一三の篇からなる。どの篇も短く、しかし魅力的なタイトルと内容になっている。

 計篇(第一)、作戦篇(第二)、謀攻篇(第三)、形篇(第四)、勢篇(第五)、虚実篇(第六)、軍争篇(第七)、九変篇(第八)、行軍篇(第九)、地形篇(第十)、九地篇(第十一)、火攻篇(第十二)、用閒篇(第十三)

 この短い本が、兵書としては現在でも世界的に有名な古典になっている。また、古来多くの武将がこの本を座右の書とした。

 そのもっとも有名な例はおそらく、三国志で有名な魏の武帝・曹操であろう。彼は、自分で孫子注解を書いた本を残しているほどである(『魏武帝註孫子』)。部下の将軍たちのために書いたのであろう。二世紀の頃のことで、孫子の没後六〇〇年以上も経っている。

 しかも、兵書としてばかりでなく、経営やリーダーシップについての本として読む人も多い。孫子はこの本を、国の最高指導者としての君主(君)や戦闘の指揮官としての将軍(将)が戦さというものをどう考えるべきか、彼らのあるべき姿は何か、について書いたのだが、その内容は企業や国の経営について、あるいは人間集団を率いるリーダーのあり方について、深い洞察に満ちている。

 その洞察の源はもちろん第一に、孫子の人間理解の深さにあるのだろう。本のあちこちで、君や将の陥りやすい間違いについて、あるいは現場の兵の心理について、温かくも冷徹な視線を孫子は投げかけている。

 そして深い洞察の第二の源は、国防と戦争について、つねに「物理」と「心理」の両にらみで考えるという、孫子のものの見方の基本であろう。戦争を指揮する人間は、戦争の物理的力学と将兵の人間心理学をきちんと両にらみで考えなければならない、と孫子は考えていたと思う。その複眼が、彫りの深い論理を生み出している。

 こうして「人間理解の深さ」と「物理と心理の両にらみ」という二つの源泉があるがゆえに、経営やリーダーシップについての深い洞察を『孫子』から得ることができる。なぜなら、経営とは人間集団を率いること、統御することで、そのためには深い人間理解が欠かせない。さらに事業活動の現場では、事業の経済的力学と現場の人間心理学のかけ算で、すべてのことが動いている。片方だけでは、経営の全体理解はとてもできない。『孫子』の二つの源泉は、経営にも非常に意味があるのである。

 その上、『孫子』の短さと表現の簡潔さもまた、読み手にものを考えさせ、そのため洞察を生みやすくしているのかも知れない。

 孫子は、ぐだぐだと論理を展開するのではなく、ハッとするような結論だけを言いきる。本のあちこちに、箴言(しんげん)ともいえる深みのある表現が彫り込まれている。そこには、研ぎ澄まされた日本刀のような趣があり、読み手は「寄らば斬るぞ」といわれているような感覚をもち、しばしば端座せざるを得ない気分にもなる。

 そして、短い簡潔な表現が多いために、つい人は行間・字間を読みたくなる。だから、ものを考えさせられるのである。

 孫子はこの短い本を、さまざまな戦さの実態の観察と自らの経験をベースに、そこから論理を抽出する、という方法で書いたようである。孫子自身も将軍として呉王に仕えたという話が司馬遷の『史記』に書かれているが、そうした自分自身の経験に加えて、孫子は多くの事例を同時代のもの、歴史上のもの、さまざまに自分で調べたのだろう。

 そうした歴史的な観察と同時代観察の集積の中から、孫子は戦さについて、国のあり方について、君主のあり方について、将のあり方について、さらには兵として戦う人々の心理について、深く思索をめぐらしたものと思われる。そして、多くの観察に共通する論理を引き出そうとした。

 その努力は、兵書として比類のない果実を実らせた。

 その果実を、本書では経営という視点から、私なりに読み解いてみたい。


【目次】

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