その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は石田美菜子さんの『 海を庭にしてしまった家 美しい昭和初期の洋風建築 旧竹田宮別邸 』。「まえがき」をお届けします。
【まえがき】数奇な運命
横須賀市佐島の突端に、まるで相模湾へ漕ぎ出すような形をした館がある。明治天皇の第六皇女昌子様が輿入(こしい)れされ、新たに皇族となった竹田宮家の別邸であった建物、通称・佐島邸だ。
旧竹田宮本邸(現グランドプリンス高輪 貴賓館)は英国人建築家ジョサイア・コンドルの日本での最初の弟子で赤坂迎賓館を手がけた宮廷建築家・片山東熊(とうくま)が設計し、宮内庁内匠寮(たくみりょう)の手より建てられことがわかっている。しかしアカデミックなそのたたずまいとは明らかに一線を画している佐島邸。設計者など建築に関する詳細はわかっていない。
佐島邸の建築主である竹田宮二代目当主恆徳(つねよし)王(1909~1992)は、帝国陸軍の軍人として終戦を迎えている。玉音放送直後、天皇の聖旨を持って関東軍を収めるために満州へ渡るなど、終戦時には皇族として重要な役割を担った。「私はふたたび生きて帰れないことを覚悟して、夜を徹し身辺整理を行った」と日本経済新聞「私の履歴書」(1976年)に述べている。他にも貴重な資料を「終戦時のどさくさにすべて焼かれてしまった」という記載もあり、この時に別邸の資料一式も失われたと想像される。
三浦半島の西海岸は、明治時代中期から皇族、財界人を中心とする別荘地として開けていった。葉山に御用邸が出来、佐島海岸を埋め立て竹田宮家が別邸を設けることで三浦半島の地域活性化を目指したことがうかがわれる、と横須賀市史にある。昭和6年10月に、基礎工事見聞のため恆徳親王自ら佐島の地に訪れたと当時の新聞にあり、躯体(くたい)の着工はこの頃だったとみられる。
佐島邸竣工前年の昭和9年に光子妃殿下とご結婚されていることから、ロマンチックな贈り物として絶妙なタイミングだったこともうかがえる。
丸4年の歳月をかけ昭和10年に竣工。7月21日の竣工式には多くの皇族が招かれた。またその1週間後には3泊4日で光子妃殿下が避暑のため来遊した、と横須賀市史にある。
「私の履歴書」は29話の連載だが、佐島邸に関する記述はない。佐島邸着工と時を同じくして歴史的には満州事変が起き、着々と第二次世界大戦へと突き進んでいった世情を考えると、陸軍幹部としてはプライベートを公にしなかったことも理解できる。竹田家現当主恆正(つねただ)氏(恒徳王ご長男)は「記憶が曖昧」としながらも、幼い頃何回か訪れたと述べている。
昭和22年、マッカーサー元帥によって他の10宮家とともに恒徳王は皇籍離脱、一般国民となられた。その後、佐島邸は英国人が引きとり、20年以上暮らした。
海をまるで庭にしてしまったようなこの佐島邸は、昭和初期の洋風建築の一つとして意義深い立ち位置にある。明治期、西洋の建築デザインを取り入れ、真似し始めた日本の建築様式が、大正から戦前にかけて一気にモダンになった、まさに最盛期に建てられた邸宅である。
当時世界中で大人気だったのはヨーロッパのアール・デコからバウハウス、モダニズムといった機能性に伴う流線美をデザインに取り入れたスタイル。ほぼ同時期に建てられた旧朝香宮(あさかのみや)邸(昭和8年竣工・現・東京都庭園美術館)がアール・デコ建築として知られるが、それよりシンプルな機能美を追究したのがこの佐島邸だ。
さらにこの建物は当時最先端の様式で建てられた、というだけでなく、ボートでそのまま邸宅へ入れる停泊場が備わった、日本に現存する唯一のボートハウスであることが最大の魅力といえる。
建築の経緯が不明ながら、スケートや乗馬に長(た)け日本のスポーツ界に尽力されて、スポーツの宮様といわれた恒徳王の邸宅らしい趣向といえる。現在は建築基準法でボートハウスの建設は不可能であることから、大変貴重な建築物であることは間違いない。明治期までは一帯が御料地(ごりょうち)だったせいか、この地がいくつもの神社に囲まれて建っていることも興味深い。
本書は、知る人ぞ知る宮様の遺産を、2年の歳月をかけ四季を通じ取材した写真と記事で紹介する。晴れていれば相模湾越しの富士山を裾野まで見渡せ、雄大な夕陽の景色を望み、嵐の日には家の中まで波が押し寄せる。自然を額縁に眺める希有な存在である旧竹田宮別邸の魅力を存分に味わってほしい。
※本書には目次ページはありません


