その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は延岡健太郎さんの『 アート思考のものづくり 』です。

【はじめに】

本書の経緯と目的

 本書は、日本企業のものづくりが、再び世界を牽引する役割を果たすために必要とされる経営哲学として「アート思考のものづくり」を提言する。市場や顧客に迎合するのではなく、自ら考える理想を高く掲げ、感動をもたらす商品を実現するものづくりだ。事例として取り上げるのは、マツダの魂動(こどう)デザインである。加えて、本書の主張に合致した成功事例として、21世紀における最大のイノベーション企業であるアップルの事例も各所で加える。
 マツダで魂動デザインを牽引してきたのは、常務執行役員デザイン・ブランドスタイル担当(2020年末の時点)の前田育男である。「クルマはアート」として、売れること以上に、デザインのあるべき姿を追い求めてきた。自ら掲げた理想を表現しつつ究極の美しさを創出する。ユーザーの想定を超えた感動をもたらし、歴史に残るデザインを目指す。孤高な挑戦だが、これまで順調に実現してきている。
 筆者は前田氏とは旧知の間柄である。話をしているなかで、彼の考え方が凝縮された「アート思考」こそが、日本のものづくりが目指すべき一つの方向性だと確信した。2015年頃に、調査研究したいと相談すると、協力してもらえることになり、その後、前田氏本人はもちろん、マツダで30名近くの方々に長時間にわたり話を聞くことができた。巻末にインタビューリストを掲載している。
 最初の成果として、2016年に『一橋ビジネスレビュー』誌に「マツダデザイン―Car as Art」という論文を発表した。そこで初めて「アート思考」の概念を魂動デザインに当てはめて議論した。その後、魂動デザインはさらに発展し、成功を積み重ねているので、何度かにわたるインタビュー調査を追加して本書に至った。
 筆者と前田氏は共通点が多い。広島市内の修道中学・高校に1年違いで6年間通い、マツダに入社してからも、商品開発部門で一緒に商品企画を担当した。また、大学時代は、二人ともに自動車のラリー競技に興じて、山中の砂利道を車で駆け回っていた。本来であれば、彼との共著にしたかったが、今回は学術的なアプローチも含めて、経営学者である筆者の分析をメインにした。
 共著ではないが、何度も議論に付き合ってもらったおかげで、本書では、魂動デザインの真の素晴らしさを紹介できたと思う。彼のおかげで、世の中に「アート思考のものづくり」を提唱できることは喜ばしいことであり、心から感謝している。
 魂動デザインは、特に世界の専門家や車にこだわりが強いユーザーには極めて高く評価されている。
 最近では、2020年に、MAZDA3が世界で最も優れたデザインに与えられるワールド・カー・デザイン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。1年間に世界で発表される100車種以上から最高のデザインが選ばれる。魂動デザインとしては、2016年のロードスターに続いて2台目である。日本車でこれまでマツダ以外の受賞は無い。

 さらに嬉しいニュースは、前田氏が世界で最も権威のある英国の『Autocar』誌から2020年の「デザインヒーロー」に選ばれたことだ。イアン・カラムなど世界のスターデザイナーが受賞してきたが、東洋人では初めてだという。
 魂動デザインの評価で特筆すべきは、クルマの歴史と文化で世界をリードしてきた欧州での評価が高いことだ。残念ながら、国内での評価はまだ高まりつつある段階だが、世界では既に、デザインに関して量産車メーカーのなかでは、先頭集団を牽引しているのは間違いない。

アート思考―ものづくり哲学を世界へ発信

 近年、創出すべき顧客価値の内容が、モノからコトへ変化して複雑になった。かつては技術的な機能の高さなどカタログスペックで明示できる形式知な価値が顧客価値に結びつき、企業の競争優位をもたらしていた。しかし、現在は、ユーザーの経験価値(ユーザーエクスペリエンス=UX)が鍵を握る。
 消費財であれば、ユーザビリティやデザイン、生産財であればソリューションなど、単純な商品仕様を超えた顧客にとっての意味が鍵を握る。客観的に表示できる「機能的価値」ではなく、顧客が主観的に意味付ける「意味的価値」である。
 経験価値が取り沙汰されるなかで、欧米を中心に「デザイン思考」が注目されてきた。使い心地や好ましいデザインなど、使って初めてわかるユーザーの経験価値や感性価値を取り入れる商品開発の手法だ。
 しかし、多くの日本企業では、デザイン思考の導入は進んでいないか、たとえ導入しても効果が十分に発揮されていない。欧米発のやり方では、うまく馴染まないように見える。
 顧客の問題を解決して経験価値を高めるデザイン思考と、完璧な品質の作り込みにこだわり、匠の技術を重視する日本のものづくり哲学はあまり相性が良くないのかもしれない。そこで、デザイン思考ではなくアート思考の方向に進むべきだというのが、本書の主張である。
 「アート」とは何か、人によって、または使い方によって、様々な意味や解釈がある。本書では一貫して、アートの役割が「自らが理想を描き、その信念や哲学を創造的に表現する」という点に焦点を当てる。漠然とした議論を避けるために、まずはSEDAモデル(Science, Engineering, Design, Art)を提案し、そのなかで、デザイン思考とアート思考も含めた全体像を描き、明確な位置付けと定義をしている。
 デザインは主に顧客のために商品を提供するが、アートは哲学や信念を表現する。ただし、本書の主題は企業経営なので、アート思考が理想の表現を優先するといっても、あくまでも顧客が主役である。
 顧客の要望に受け身的に対応するのではなく、革新的な考え方や意味を提案して、顧客の想定を超えた喜びや驚き、そして幸福をもたらす。結果的に、顧客に迎合する以上の価値を顧客に提供しなくてはならない。
 以前は、多くの日本企業が、ものづくりの理想を追い求めてきた。しかし近年は、良いものではなく、よく売れて儲かる商品を作れと言われ続け、迷走状態にある。アート思考のものづくりでは、もう一度、自信を持って、日本のものづくり哲学を世界に発信することを目指す。
 なお、デザイン思考とアート思考の違いについて、本書では、デザイナーの仕事がデザイン思考で、アーティストの仕事がアート思考だということではない。相違点を理論的に定義して、対比的な形で議論を膨らませることが目的である。
 例えば、マツダは「クルマはアート」のテーマを掲げるが、デザイナーは自分たちをアーティストだとは思っていない。デザイナーであることに変わりはないが、本書で定義するアート思考の心意気でデザインしているのである。
 なお、本書も売れることよりも、長期間にわたり読まれることを目指して、アート思考で取り組んだつもりである。そのため例えば第Ⅱ部は、SEDAモデルとアート思考の専門的・理論的な議論を展開しているが、マツダ・魂動デザインに関して知りたい読者は、その個所を飛ばしても問題はない。
 本書は、マツダと前田氏の取り組む姿勢をアート思考として代弁した部分が主体である。つまり、巻末リストの皆様のご協力がなければ実現できなかった。特に、広報本部の町田晃氏とデザイン本部の田中秀昭氏には、今回の調査に関わるアレンジ全般と内容に関わる有意義なコメントをいただいた。ご多忙ななか、時間を取っていただいた皆様には、心より感謝を申し上げる。また今回も編集をお願いした、日経BP日本経済新聞出版本部の堀口祐介氏にも、いつもながらお礼を申し上げたい。

  2020年11月

延岡 健太郎

【目次】

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