その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」をご紹介します。今日は井口耕二さんの『 アップルはジョブズの「いたずら」から始まった 』です。

【はじめに】

 スティーブ・ジョブズは2011年、56歳で亡くなり、次なる旅へと歩みを進めた。その直前、私は、初の公式評伝『スティーブ・ジョブズ』を世界同時発売するため、ふつうなら9カ月はかかる翻訳を3カ月で終わらせようと悪戦苦闘していたのだが、そのとき「お父さん、このごろ、いっつも怖い顔をしている」と言っていた中学生ふたりも、いまは社会人となり、それぞれが自立して暮らしている。

 そんな彼らの手によく握られているのが、iPhoneやiPadなどのアップル製品だ。中学や高校からの古い友だちと連絡するのもスマホやタブレットだし、仕事さえもスマホやタブレットでしていたりする。また、出歩くときの乗り換え案内や駅から目的地までの道案内もスマホなら、晩ご飯でも食べていくかとなったとき、自分の財布では行くのがきびしいが親ならこのくらいはと思うちょっといいお店をささっとみつけるのもスマホだ。音楽はネットの配信だし、お、そんなことまで知ってるのかと驚くと、こないだYouTubeの動画で見たと言われる。彼らデジタルネイティブの世代にとってこのようなデジタルツールは生活必需品であり、それらのない生活は想像さえもできないだろう。

 彼らは、物心がついたころからデジタルツールを手にしてきた。それを作ったのはだれかと尋ねれば、そんなの知らない、昔からあったじゃんと返ってきそうだ。

 十年一昔という。筆者のようなスティーブ・ジョブズと同世代の人間にとって、彼は一時代を築いた英雄なのだが、いまの若者にとっては“歴史上の人物”だ。彼が残してくれたツールが社会のすみずみにまで浸透し、暮らしをどんどん変えているのに、ジョブズの存在やその記憶は薄れつつある。ジョブズを歴史の殿堂に祭り上げておしまいにするのはもったいない。私はそう思う。彼の生き方には、我々がお手本にしたいヒントがたくさん隠されているからだ。

 ジョブズは、「自分の心に従う勇気」を一番大事にしていた。人が本当に力を発揮するのはどういうときか。大好きなことをするときだ。だから大好きなことをしよう、大好きなことを仕事にしよう、仕事を大好きになろう──彼はそう力説し、みずからも実践した。遊び心、いたずら心も忘れなかった。若いころから大好きなことだったからだ。

 未来を生きる若い人にこそ「自分の心に従う勇気」を持ってほしい。日本の職場は前例重視で、自分のやりたいように行動するのは難しい。それでは、新しいものなど生まれるはずがない。若い人には、若者らしい無謀さで大好きなことに突き進んでほしいし、中高年世代には、その芽を摘まず、若い人の可能性を信じて応援してあげてほしい。加えて、中高年世代には、自分が若い心を失っていないか、本当にやりたいことをやっているかと自問自答してみてほしい。ジョブズのように、いつまでも心を若く保つことはできるのだから。

 ジョブズの生き方をお手本にしてほしいと述べたが、彼の性格には、自己中心的で暴虐、残忍なダークサイドもある。だから、直接関わった人たちのジョブズ評も真っ二つに分かれてしまい、彼の人物像を適切に把握するのは意外なほど難しい。

 私は、翻訳者として、2005年の『スティーブ・ジョブズ 偶像復活』(東洋経済新報社)を皮切りに、『アップルを創った怪物』(ダイヤモンド社)、『スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン』『スティーブ・ジョブズ 驚異のイノベーション』『アップル 驚異のエクスペリエンス』『沈みゆく帝国 スティーブ・ジョブズ亡きあと、アップルは偉大な企業でいられるのか』『スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで 上・下』(以上、日経BP)、『ぼくがジョブズに教えたこと』(飛鳥新社)、『PIXAR<ピクサー>』(文響社)、さらに、ベストセラーとなった公式評伝『スティーブ・ジョブズ Ⅰ・Ⅱ』(講談社)と、ジョブズやアップルに関するたくさんの本に関わってきた。

 合計して数年も、さまざまな角度から見たジョブズ像に触れることで、ジョブズという複雑な人物の全体像があぶり出されたように思う。

 翻訳というのは、単に英語を日本語に書き換えるものではなく、原著者が書きたかったことが日本の読者に伝わるように日本語で新しい本を書くと言うべき作業である。さらっと読み流すようなことについても調べて裏を取るなど、ふつうよりずっと深く読むことにもなる。特に伝記の翻訳では、著者がジョブズをどうとらえ、どういう人物として描いているのかが大事なポイントになる。同一人物の伝記なのだから同じエピソードが描かれることも多いが、著者がジョブズをどうとらえているかで、エピソードの印象も大きく違ってくる。そしてそのとらえ方を重ねると、最大公約数とも言うべき共通する見方が浮かび上がる。また逆に、著者の個人的な考えである部分も見えてくる。ジョブズの翻訳をくり返すというのは、彼の人物像に対する理解を深めるプロセスでもあるのだ。

 本書はジョブズの生涯をまとめたものだが、そのなかには彼の良い面も悪い面も登場する。ぜひ、良い面は吸収し、悪い面は反面教師にしてほしい。たとえば本書の4章「ジョブズ名言録20」は示唆に富む話が満載で、参考にしていただくのがいいと思う(余談ながら、ジョブズにはこれはと思う言葉が多く、20件に絞るのは大変だった)。対して3章「未来への遺産編」には、部下に対するすさまじいパワハラも出てくる。性格と成果はセットで切り離せないのかもしれないのだが、あの面だけはまねしないでいただきたいと思ってしまう。「我々は、みな、先人の肩に乗せてもらっている。だから、先人の知恵になにかを加え、人類全体の流れになにかを加えることで、お返しをしなければならない」──ジョブズは、死の直前、公式評伝『スティーブ・ジョブズ』を書いてもらったウォルター・アイザックソンにこう語った。

 同じことを我々もしよう。ジョブズの肩に乗せてもらい、その知恵を活かして自分らしい人生を切り開く。その人生は、次代に伝えるなにかになるはずだ。未来を生きる若者も、若い心をいまだ抱く中高年世代も(若い心を失ってしまった人は取り戻せばいい)、さらには、私を含む老境の人も。人生という旅は続くし、「旅こそが報い」なのだから。

【目次】

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