その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は渡辺努さんの『 物価を考える デフレの謎、インフレの謎 』。「まえがき」をお届けします。

【まえがき】

 日本は、長く続いたデフレ(=物価下落)がようやく終わり、物価と賃金が毎年2%程度の速度で緩やかに上昇するインフレ(=物価上昇)に移行しつつあります。本書は、その移行の過程を眺めながら、「物価を考える」を実践したレポートです。

 私の実践は、最初に描いたシナリオどおりに事態が進展するという予定調和とはほど遠いものでした。最新のデータを入手して仮説と照らし合わせる、明らかな矛盾が見つかる、仮説を修正したり取り替えたりする。この繰り返しだったように思います。このレポートにすっきりしない部分があるとすればその試行錯誤のせいですし、このレポートに面白さを感じていただけるとすればそれも試行錯誤のゆえだと思います。

 試行錯誤の末に私がたどり着いた見方に賛成の方もご不満の方もいらっしゃるでしょう。しかしそこに拘泥するのではなく、たどり着くまでのプロセスを存分にご堪能いただければと思っています。

インフレはなぜ始まったのか

 本書では二つの問いを立てています。第一問は「インフレはなぜ始まったか」です。

 話は4年前に遡ります。パンデミックの波が日本にひたひたと近づきつつあった2020年の春、物価がこれからどうなるかというエッセーの依頼を受けました。当時は、飲食店はどこも閑散としていて、閉店も少なくありません。客の入りが悪いのですから物価も下落します。エッセーの依頼主はこの先、物価がどこまで下がってしまうのかを書いてほしかったのだと思います。

 ウイルスの正体がまったくわからず、日本経済にこれから何が起きるのかと、私自身も強い危機感をもっていました。そのときに私が出したメッセージは、パンデミックでインフレになるかもしれないというものでした。

 感染が怖いので消費者は焼き肉店に行かなくなる。そうすると焼き肉店の売り上げは落ち、価格も下落する。だからこれからはデフレ(物価下落)だ。当時、多くの人が考えていたのはこれでした。需要と供給で言えば、コロナ下で需要がやられてデフレになるという見方です。

 しかし焼き肉好きの消費者は、焼き肉店での食事の代わりに、スーパーマーケットでいつもより少し高級な牛肉を買って、自宅で調理することを考えるはずです。その牛肉はどうやって消費者の手元に届くかと考えを巡らすと、牛肉を生産する人たち、運送する人たち、加工する人たち、スーパーの店員さんなど、たくさんの働く人がかかわっていることに気づきます。

 そして、その人たちも当然のことながら感染を恐れます。将来、感染状況が厳しくなれば、働く人たちが職場に行くのをためらい、牛肉の供給が滞るのではないか。供給がやられればインフレが起きるのではないか。これが私の見立てでした。

 その見立てに強い自信があったわけではありません。それどころか、そんなことを言っている人は当時皆無だったので、恐る恐る書いたというのが正直なところです。ただ、感染が怖いのは人間であれば誰も同じなので、消費者(需要する人)だけでなく、労働者(供給する人)も行動を変えるはずという確信はありました。

 その後、2021年春になると、米欧でインフレが始まりました。起きていることはどうやら私の見立てに近く、物資や労働の供給に問題が生じ、それが原因となっているようです。

 それからさらに1年経った2022年春になると、日本でもインフレが始まりました。米欧ほど綺麗に私の見立てに沿っているわけではなさそうですが、それでもインフレの原因が需要ではなく供給にあるというところは、私の筋書きどおりでした。

 4年経っても同じ説を唱えているというのは進歩がないようで少々気が引けますが、私としては、最初の見立てに大きな狂いはなかったということが、米欧、そして日本のインフレで確認されたと考えています。

 あと10年もすると、中学や高校の教科書には、「新型ウイルスが世界を襲い、世界中の消費者・労働者たちが一斉に行動を変化させ、それが世界中の物価を引き上げた。日本もその渦中にあった」と記(しる)されるのではないかと思います。

デフレはなぜ終わったのか

 本書の第二問は「デフレはなぜ終わったか」です。インフレが始まったのだからデフレが終わるのは当然と考える人が少なくないかもしれません。しかし、インフレの始まりとデフレの終わりはまったくの別物です。

 現に私は、インフレが起こるかどうかにかかわらず、日本のデフレは早晩、終わる運命にあったと考えています。

 日本のデフレのキーワードは「自粛」です。企業は値上げを自粛し、労働組合は賃上げ要求を自粛する。この二つの自粛が延々と続けられてきました。しかし、あくまで「自粛」であり、誰かに強いられたわけではありません。原理的には、自分たちがやめようと思えばやめることは可能です。

 日本は30年間にわたって「自粛」をやってきて、そのアラが社会のいろいろなところに表れていました。また、自粛疲れもあったかもしれません。そうしたさまざまな要因が重なって、自粛をそろそろやめにしようという機運がじわじわと醸成されてきたというのが私の観察です。

 仮にインフレが来なかったとしても、こうした社会の内在的な力でデフレは早晩、終わったに違いない。インフレは内在的な力が発現するきっかけではあったが、それ以上のものではなかった──これが第二問に対する私のとりあえずの回答です。ただし、こちらは現在進行中の現象ということもあって、第一問に対する回答と比べると、正直自信がありません。

 米欧は日本より1年早くインフレが始まり、いまやインフレも終盤に差しかかっています。インフレが終われば米欧の物価上昇率は今回のインフレが始まる前の2%程度に戻っていくことでしょう。
 1年遅れで米欧に続くとすれば、日本の物価上昇率も下がっていきます。問題はどこまで下がるかです。米欧のように2%程度の具合のいいところで落ち着いてくれるのか、それとも、今回のインフレが始まる前の水準、つまりデフレに戻るのかの二択です。前者であれば、めでたく、デフレの終わりです。しかし後者であれば、デフレの再来です。残念ながら後者の確率はゼロではないように思います。


 デフレからインフレへの移行は前例がないだけに先を見通すのが困難でしたし、そのむずかしさはこれからもしばらくのあいだ続くことでしょう。先が見えず不安に感じる方も少なくないと思います。ただ、この移行は、これまで異常な振る舞いを続けてきた物価と賃金と金利が真っ当になるプロセスであり、起きていることは私たちの社会の正常化です。

 この移行の先に待っているのはいったいどんな社会でしょうか。皆さんはその社会でそれぞれどんな生活を送っているでしょうか。これが本書の第三問です。この問いに対する答案は私ではなく皆さんに作成していただければと思います。そのための材料やヒントをこれから平明なロジックと言葉でお届けしていきます。本書を読み終えたときには、これから私たちが迎える社会のイメージが鮮明になっていることと思います。どうか最後までお付き合いください!

【目次】

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