その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はダニエル・ゴールマン、ケアリー・チャーニス(著)、櫻井祐子(訳)の『 ゾーンに入る EQが導く最高パフォーマンス 』です。
【はじめに】
あなたのオプティマルゾーン
想像してほしい。もしあなたがテニスの2022年全米オープン3回戦に出場するアイラ・トムリャノビッチだったら、どんな気持ちだろう? 対戦相手は、すでに引退を表明しているセリーナ・ウィリアムズ。ウィリアムズが敗れれば、これが彼女にとって現役最後の試合になる。ウィリアムズはグランドスラム大会のシングルス優勝歴23回を誇る、押しも押されもせぬテニス界のレジェンドで、この日は絶好調だ。おまけに世界最大のテニス専用競技場に集まった2万4000人の大観衆は、明らかにウィリアムズに肩入れしている*1。
観衆のほぼ全員が「ウィリアムズに熱狂的な声援を送り」、オンラインではさらに数百万人が観戦している。「これほどのざわめきと、ウィリアムズへの地鳴りのような声援、トムリャノビッチがサーブをミスしたときの不作法な喝采、観客席のセレブたち、ウィリアムズに寄せられたビデオメッセージ」を思い浮かべてほしい。
だがトムリャノビッチには秘密兵器がある。彼女の最初のコーチだった父親(ハンドボール元プロ選手でヨーロピアンリーグの優勝経験者)に教わった、集中して心を落ち着かせる方法だ。「父親が教えたのは、映画『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』でケビン・コスナー演じるピッチャーが、完全試合[野球で打者を一度も塁に出さずに勝利すること]を狙うために取った方法である。キャッチャーのミットに一点集中し、スタジアムのほかのすべてを頭から追い払うのだ」。トムリャノビッチは父の助言通り、鋭い集中を保った。
彼女は試合後にこう語っている。「コートに入ったその瞬間から、周りを見回すこともほとんどありませんでした。自分の小さな殻に完全に閉じこもっていたんです」。トムリャノビッチはこの強烈な集中を3時間以上も保って、自分史上最高のテニスをし、ウィリアムズを3セットで下したのだ。
彼女の名勝負は、いわゆる「フロー」の実例だ。フローとは、1つのことに極限まで没頭し、最高のパフォーマンスを発揮できる状態をいう。これからくわしく説明していくように、これほどまでに集中すれば、誰でも最高の力を出せる。フローでは精神状態も重要だ。心が乱れていると、意識を集中できない。だからこそ、世界の一流アスリートは、「ゲームは心理戦」だと言うのだ。彼らが戦う相手は技術が横並びのトップアスリートばかりだから、精神状態と集中が勝利のカギを握る。
ただ、「フロー」はふだんの生活にめったに起こらない、「とらえどころのない」とさえ言えるできごとだ。そこで本書では、より現実的で達成しやすい状態をめざしたい。それは、あなたにとって重要な何らかの基準で、生産的な「よい日」を過ごした、と満足できる状態だ。これを「オプティマル(最適)」状態(ゾーン)と呼ぼう。
トムリャノビッチのような圧倒的な偉業にばかり注目すると、誰もが自分なりに満足のいくパフォーマンスを発揮できる、オプティマルゾーンに入るための手がかりや条件──とくに鷹(たか)のような集中──に目が向かなくなってしまうのではないかと、私たちは考える。
可能な限り最高のパフォーマンスを発揮すること──何であれあなたにとってトムリャノビッチのテニスの名試合に相当する偉業を達成すること──を自分に課せば、完璧主義に陥り、疲れ果てて燃え尽きやすくなってしまう。つねに最高のパフォーマンスを発揮し続けるなど、できるはずがない。だがその一方で、つねに「自分なりのベストを尽くす」ことはできる。フローの状態をひたすらめざせば無理をしてしまうが、自分なりのベストを尽くすことは、より現実的な目標になる。
この「オプティマル」方式は、子育てでよくいわれる、「完璧な親をめざさなくていい、自分にできる範囲のことをすればいい」というアドバイスと重なる。フローという理想の状態をめざせば、「完璧主義者のベスト」という、高すぎる基準を自分に課すことになる。これに対して、オプティマルゾーンを基準にすれば、つねに自分に厳しくあたる代わりに、リラックスして楽しみながら仕事ができる。自分を責める頭の声を黙らせて、目の前のタスクに集中できるのだ。
本書の第Ⅰ部では、数百人の働く人たちが記した、「よい日」を過ごした時の内面の状態を考察した日誌をもとに、オプティマルゾーンとはどういうものかを示したい。続いて、そのような内面の状態が「外からどう見えるか」を、職場パフォーマンスというレンズを通して考えていこう。
私たち著者の2人は心理学者として、確かな研究成果を考えの指針としている。そうした研究をもとに、オプティマルゾーンに欠かせない要素が、自分の感情を知的に活用する能力、すなわち感情的知性[Emotional Intelligence:EI。日本ではEQと略されることが多いため本書でもそれに倣った]だと考えるに至った。
私たちにとって大きな発見となったのは、仕事のパフォーマンスを「外から」測る指標が職場で働く人々が報告する「内面」の体験とつり合っていることだった。この発見が、EQが最高のパフォーマンスへの「扉」になる、という気づきにつながった。EQに関連する能力(最近ではいろいろな名称で呼ばれている)は、オプティマルなパフォーマンスのカギを握る──これが私たちの結論である。
本書では、EQに関するここ数十年間の科学的発見をもとに、オプティマルゾーンとはどういうものなのか、なぜその状態でいることが難しいのかを考えていこう。フロー状態の驚異的な至高体験よりも、「満足度の高い日を過ごすこと」が、達成感と充実感を味わい、燃え尽きを避けるためのカギなのである。
EQが、このオプティマルゾーンに入るための能力や資質をさまざまなかたちでもたらすことを見ていきたい。本書では、フローに入るための予測不可能な要因がそろうのを漫然と待つ代わりに、より簡単にオプティマルゾーンに入れる実践的な方法をお教えしよう。
なぜ「今」なのか?
本書は著者の1人であるダン(ダニエル・ゴールマン)が、30年近く前から温めてきた「直感」の集大成であり、裏づけである。その直感とは、「EQはベストな自分になるための指針となる」というものだ。ダンのEQに関する5冊目の著作となる本書は、この最初の直感を裏づける多くの研究をもとに書かれている。
ダンともう1人の著者ケアリー・チャーニスは、EQに関する最初の学術論文が1990年に発表されると、その数年後に、「組織におけるEI研究コンソーシアム(CREIO)」を共同創設し、その後の25年間にわたり2人で共同代表理事を務めた。CREIOの使命は、企業や組織の実際的なニーズに科学的手法を用いて応えようとする、信頼性の高い学術研究を振興することにある*2。
CREIOは、企業や学校などの組織でEQを活用しようとする専門家と、そうした試みを方法論的に支援する学術研究者を結びつけることをめざしてきた。
創設から25年以上経った今では、そのような研究が数多く存在する。EQの概念が生まれて間もない頃は、「EQが仕事のパフォーマンスやリーダーシップに与える影響を裏づける証拠はほとんどない」という(正当な)批判もあった。しかし今では数々の研究により、EQがあらゆる状況、とくに自己コントロールや共感、社会的スキル、ストレスからの回復力(レジリエンス)などが求められる状況で、成果を上げるために欠かせないことが示されているのだ。
本書は、そうした数々の研究を紹介し、活用するために書かれた。第Ⅰ部では、優れたパフォーマンスを発揮するときに、私たちの内面では何が起こっているのか、その状態に至るためにEQがどう役に立つのかを見ていこう。
第Ⅱ部では、EQを実際に活用するために必要な能力について、現時点でわかっていることをアップデートしていきたい。ここではEQの4領域である「自己認識」「自己管理」「共感」「人間関係管理」を構成する、EQの基本要素をくわしく説明する。
第Ⅲ部では、私たちの生活のとくに重要な側面である、「最高の状態で働くこと」に焦点を当てる。個人として、リーダーとして、チームの一員として、オプティマルなパフォーマンスを発揮する上で、EQがどう役立つのかを見ていこう。EQはこれらすべての状況でパフォーマンスを高めることがわかっている。そして、研究が明らかにした、EQによって職場パフォーマンスが高まった状態が、オプティマルゾーンと驚くほど似通っていることを示したい。また、誰でもできる、EQ能力を高める方法も合わせて紹介しよう。それから、EQが組織文化のDNAにまで浸透した、「高EQ組織」になるとはどういうことなのかを説明する。
最後の第Ⅳ部では、EQの未来を論じる。EQ能力と、知的能力やその他の感情に関わる能力とを組み合わせることで、私たちを待ち受ける不確実な未来によりよく対応できることを示そう。
現代社会では、EQを正しく活用することがますます急務となっている。一例として、昨今は無礼な言動がウイルスのように蔓延している。機内で乗客が暴れて逮捕された、といった報道が後を絶たず、SNSではヘイトスピーチが拡散されている。学校では喧嘩やいじめが横行し、生徒や学生が鬱(うつ)や強い不安を感じることが増えている*3。第Ⅲ部で見ていくように、EQのスキルセットは、現代の厳しいビジネス環境における決定的な強みとなる。EQは個人の生活だけでなく、社会全体でかつてないほど必要とされているように思われる。
2.CREIOは、企業や学校などの組織でEQを活用しようとするさまざまな専門家と、そうした試みに方法論的スキルを適用できる学術研究者とを結びつけることをめざしている。CREIOのウェブサイトwww.eiconsortium.org.を参照のこと。本書執筆中の今、ロブ・エマーリングがディレクターに就任したところである。
3.ジョージタウン大学医療政策研究所の子どもと家族センターによれば、不安症と診断された子どもは2016年から2019年までの間に27%、鬱と診断された子どもは24%増加した。行動・素行障害の子どもは2019年から2020年までの間に21%増加した。
【目次】


