その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は山下一仁さんの『 食料安全保障の研究 襲い来る食料途絶にどう備えるか 』です。

【はじめに】

問われる食料危機への対応

 2027年に中国の習近平国家主席が台湾統合のためになんらかの行動を起こすという見方が高まっている。最近の国際情勢の変化で注意しなければならないのは、誰も想定しなかったロシアのウクライナ侵攻のように、われわれはこれまでの常識や予測が通じない不確実性の時代に突入していることである。国際社会では、欧米の民主主義への信頼さえ揺らいでいる。われわれの隣には、中国、ロシア、北朝鮮という独裁者が支配する国がある。これらの独裁者は合理的な行動や意思決定を行わない可能性がある。このように行動するだろうというわれわれのシミュレーションが独裁者には当たらない可能性が高い。しかし、どのような事態になろうとも、飢餓が生じないような対策や体制を整えておくことは国家の役割である。想定外の事態が生じても、国民を餓死させるわけにはいかない。

 わが国は、戦中・戦後と未曽有の食料危機を経験した。同様の食料危機が生じた場合に、この貴重な経験や知識は役に立つはずである。しかし、80年前のことであり、米麦の配給制度など、この時の政策に関する知見は今の政府にはほとんど残っていない。戦中・戦後の物資が乏しい状況に対処するため、企画院や経済安定本部という各省の上に立つ総合官庁が存在したことを知っている官僚は、今では少ないだろう。この時代を生き延びて、その記憶がある人も、90歳を超えている。

 もちろん、当時と現在では、取り巻く状況は異なっており、過去の政策をそのまま適用することは適切ではない。当時と現在の状況を分析・整理し、当時と比べて有利な点と不利な点を比較検討することによって、現在の日本において食料安全保障に最善の政策を研究する必要がある。ただし、決定的に不利な点が二つある。戦時中はコメ消費の8割は自給し2割をタイなどから輸入していた。その輸送船をアメリカに攻撃されて日本は万策尽きた。しかし、現在日本の食料自給率は38%に過ぎず、カロリー摂取の6割も海外に依存している。次に、戦後の食糧難はアメリカからの食糧援助によって救われた。しかし、シーレーンが破壊されると、アメリカからの援助は届かない。これらをどう克服したらよいのだろうか?

食料・農業政策への誤った理解の広がり

 食料安全保障を検討する際に大きな問題がある。それは、食料・農業政策がウソと矛盾の塊になっていることである。国際的な食料問題についても、農林水産省や専門家と称する人から間違った認識が示されることが少なくない。国内の農業、農家、農村は1960年以降、ドラスティックに変化した。コメは簡単に作れる作物になったし、農家は貧しくてかわいそうな存在ではない。農村では農家は少数派になっている。こうしたファクツを多くの国民は知らない。農政当局などによって、多くのウソやフェイクニュースが語られても、農業から離れて久しい国民は批評する知識も能力も持たない。そのウソやフェイクニュースの多くは、国民のためではなく特定の既得権のための農政上の目的をカモフラージュしているのである。

「令和のコメ騒動」の背景

 2024年、令和のコメ騒動と言われるコメ不足が起きた。農林水産省は、民間備蓄は十分あるので需給は逼迫していないとして、備蓄米の放出を拒否した。しかし、2024年7月末の在庫は前年同期より40万トン少ない82万トンと、近年にない低水準(前年の3分の2)だった。すでに、在庫から相当な量がコメ不足に充当されていた。在庫には金利や倉庫料の負担が伴う。在庫はできる限り持たないに越したことはない。それなのに在庫を持っているのは、継続的に特定の実需者に供給しなければならないなどの特別の理由があるからである。在庫があってもスーパーマーケットでの不足を埋めるために直ちに使えるものではない。

 自由に在庫が処分できるのであれば、米価が高騰しているのだから、卸売業者は在庫から小売りに販売するはずである。現にスーパーマーケットの棚にコメがないのだから需給が逼迫していないわけがない。実は、JA農協(農業協同組合)と農林水産省は3年前から減反(生産調整)を強化してコメ生産を減少させ、米価を5割も引き上げることに成功していた。備蓄米を放出することで、彼らの成果である高米価を下げてしまうことを恐れたのである。農林水産省は、その政策動機をカモフラージュするために民間在庫は十分あるというウソをついたのだ。

 農林水産省は2024年産の新米が供給されるとコメ不足は解消するというが、それならなぜ新米が出回った後もコメの値段(米価)は下がらないのだろうか? 米価は需要と供給で決まる。米価が下がらないのはコメ不足が続いている証拠ではないのか? 新米の供給で短期的にスーパーマーケットの棚にコメが戻っても、それは本来後で食べるコメを早食い(先食い)しているだけなので、翌年の端境期にはまた不足にならないだろうか?

 食料安全保障についても同じである。食料難の時代、苦しい経験をしたのは農家ではなく都市生活者だった。食料自給率の向上は本来消費者の主張なのに、これを最も熱心に唱えるのはJA農協をはじめとする農業団体である。農業団体は善意で多額の広告費を払って主張しているのではないのに、国民はこのおかしさに気が付かない。穀物価格の上昇によって、農林水産省は盛んに買い負けると主張する。しかし、日本が買い負けることはあるのだろうか?

廃止されていない減反政策

 2014年、安倍首相は減反を廃止すると国民にアピールした。マスメディアもそのまま報道した。これが政権浮揚のためのフェイクニュースだと気付く人は少なかった。しかし、減反とは「農家に補助金を出してコメの供給を減らして米価を高く維持する政策」である。減反廃止が本当なら米価は大きく低下する。農民の大抗議運動が起きるはずだが、そのようなことは起きなかった。農業界以外で「おかしいのでは」というシンプルな疑問を発することができる人は少なかった。しかし、この時の政策変更の当事者だったJA農協だけでなく農家も、これが減反の廃止ではなく強化だとわかっていた。JA農協の傘下にある日本農業新聞は、減反の廃止ではないと農林水産大臣の発言を引用しながら報道していた。安倍首相の主張どおり「減反を廃止」したが、米価は下がらなかった。それどころか、2024年には農林水産省やJA農協による減反の強化が功を奏して米価は上昇し、1995年に廃止された食糧管理制度時代の高米価の水準をも上回った。アメリカの大統領だけではなく、その盟友だった日本の首相もフェイクニュースを流したのだ。残念ながら、マスメディアも含め減反は廃止されたと思っている人が多い。

 農政にはウソだけでなく矛盾も多い。水田を水田として利用するからこそ、水資源の涵養や洪水防止などの多面的機能を発揮できるのに、水田を水田として利用しない減反補助金が50年も支払われている。この矛盾に、国民は気が付かない。コメ生産を維持するには、農家のために米価を維持しなければならないと主張されるが、その手段としてコメ生産を減少させる(減反である)ことは目的と矛盾していないだろうか?

 市場に介入することで大きな歪みも生じる。農林水産省は減反実施のための転作作物に困って、あられ・せんべい用、輸出用、米粉用、飼料用などのコメを転作作物と位置付け、主食用米とこれらの用途の価格差を転作(減反)補助金として支払ってきた。コメをコメの転作作物としたのである。同じコメが用途によって一物五価となっている。このため主食用以外の安いコメを購入して主食用に横流しして利益を得るという事件が起きている。

 長年農政を見てきた専門家でもこれらに気付かないで騙されることが多い。今の農政は、ウソ、矛盾や歪みだらけの伏魔殿のようだ。幸か不幸か、私は半世紀近く農政と付き合ってきた。名探偵ではないが、ウソや矛盾だけでなく、内部にいた者として、なぜ農政がそのようなことをするのかという動機についても指摘できる。

既得権に阻まれた効率的で収益性の高い農業の実現

 既得権の目的は何だろうか?

 戦後の農地改革は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の力は借りたが、農林省が発案し推進した。これが成功した後、農林省は戦前からのもう一つの課題である零細農業構造の改善に取り組もうとした。農業の構造改革である。これこそ、1900年に農商務省に入省した柳田國男(1875〜1962年)が最も重視した課題だった。規模が小さい農家は販売量が少なく十分な農業所得を上げられなかったからである。農家の規模を拡大して低コスト生産を実現できれば、農家の所得を向上させることができるばかりか、国民に安く食料を供給できる。〝農地改革から農業改革へ〞が農林省内の合言葉になった。その理想を実現しようとしたのが、1961年農業基本法だった。

 しかし、農地面積が一定で一農家の規模を拡大するためには農家戸数を減少させなければならない。これは農家戸数を維持したいJA農協から優良農家の選別政策と強硬に反対された。逆に米価の引き上げで多数の兼業農家を維持したJA農協は、兼業収入(給与所得)や農地の転用利益を活用し預金量100兆円を超える日本有数のメガバンクに発展した。しかし、JA農協が栄える一方で、効率的で収益性の高い農業経営の実現は妨げられ、農業・農村は衰退した。

 最近では、農業人口が減少するのでコメの生産は需要を満たさなくなるという主張が公共放送で大々的に報道された。しかし、それが本当なら、生産を増やさなければならないのに、なぜ政府は生産を減らす減反を推進するのだろうか? 過去30年間で農業就業者人口は7割も減少したのに農業生産額は1割減っただけである。ファクツに反する。農家の6割がコメを作っているのに、農業生産額に占めるコメの割合は16%に過ぎない。コメについては、まだ農家が多すぎる。公共放送の裏に、農家戸数、特に零細なコメ兼業農家を維持したいとするJA農協の意思が働いているのではないだろうか。

農業保護でも日本はガラパゴス化

 農業基本法に代わる1999年の食料・農業・農村基本法は2024年に見直された。これは食料安全保障のために行うとされたが、長年農業政策の中核となってきた減反政策は、食料安全保障を著しく脅かすものなのに、検討すらされなかった。減反を廃止すべきであるという意見は審議会で無視された。

 減反を廃止して米価を下げても、欧州連合(EU)のように政府から主業農家に直接支払いをすれば、農業に影響はない。現状では農業所得がマイナスとなっている零細な兼業農家も、主業農家に農地を貸せば、プラスの地代収入を得ることができる。それなのに、どうしても米価を高く維持したい特定の利益集団のために農政は運営される。価格支持より直接支払いが好ましいのは、世界の経済学者のコンセンサスであり、世界農政の潮流なのに、日本の農政だけはガラパゴス化している。

 既得権益を維持・確保するために、農業は歪められてきた。減反・高米価政策によって、本来退出するはずの零細な農家が大量にコメ農業に滞留した。政治家はJA農協によって組織された農業票を無視できない。2024年、コメ不足の最中に開かれた自民党総裁選、立憲民主党代表選、衆議院選挙でも、コメは争点にならなかった。

ファクツとロジックに基づいて食料安全保障のための政策を提言

 私は1977年農林省に入省直後、米麦の戦時統制法だった食糧管理法(1942年制定)の解釈・運用・改正に携わった。また、1980年代には内閣官房・総合安全保障関係閣僚会議担当室に出向して、食料だけでなく日本の安全保障全般にも関わった。1993年には、ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉において、WTO(世界貿易機関)農業協定の最終ドラフティング交渉に参加し、日本が最も重要視した、コメの関税化の特例措置や輸出制限を規律する規定の導入に努力し成功した。この交渉に参加したのは世界で10名だけだった。その後も、EU、WTO、OECD(経済協力開発機構)やAPEC(アジア太平洋経済協力)などの協議や交渉に参加するなかで、国際的な農産物貿易の実情や各国の食料・農業政策について理解を深めた。食料安全保障政策の研究のために、他の人が得られないような貴重な経験や知識を積み上げることができたと思う。

 食料危機を煽るだけでは、問題の解決にはならない。台湾有事などに備えるためには減反を直ちに廃止すべきだが、それだけでは国民を飢餓から守ることはできない。本書の目的は、戦中・戦後の食料事情とそれを解決するために工夫された政策を分析し参考としながら、台湾有事などでシーレーンが破壊され、わが国への食料やエネルギーの輸入が途絶した場合にも、国民を生存させるための政策を研究することである。その際、農政当局や既得権者のウソや矛盾に邪魔されず、またこれらを排除して、ファクツとロジックに基づき、真に必要な食料安全保障政策を提示したい。

2024年12月
山下 一仁


【目次】

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