その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はマイケル・ルイス(著)、小林啓倫(訳)の『 1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊(日経ビジネス人文庫) 』です。小林さんによる「訳者あとがき」をお届けします。

【訳者あとがき】

 本書は2023年10月に刊行された、Going Infinite: The Rise and Fall of a New Tycoon(無限を目指す:新たな大富豪の栄光と没落)の邦訳である。著者は日本でもお馴染みのマイケル・ルイス。本書は発表されるや否や米国で大きな注目を集め、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリスト第1位を獲得。エコノミスト誌、ニューヨーカー誌、ガーディアン紙といった有力紙誌の書評で絶賛された話題作である。また同著は2024年8月にペーパーバック版が刊行され、著者によるあとがきとして「サムをどう捉えるか(How To Feel About Sam)」と題された章が追加された。皆さんがお手に取っている文庫版は、このあとがきまで収めたものになる。

 最初に著者について触れておこう。マイケル・ルイスは米国の著名なノンフィクション作家で、これまで多くの作品を世に送り出してきた。マイケル・ルイスの新作だから、という理由で本書を手に取ったという方も多いに違いない。彼の代表作と言えば、ブラッド・ピット主演で映画化もされた『マネー・ボール』が挙げられるが、ルイスはもともと投資銀行ソロモン・ブラザーズでキャリアをスタートさせた人物であり、デビュー作の『ライアーズ・ポーカー』をはじめ、『世紀の空売り』、『フラッシュ・ボーイズ』といった極上の金融ノンフィクションを数々手がけてきた。その系譜に連なるのが本書『1兆円を盗んだ男』というわけだ。

 本書はルイスが2021年の末頃に、本作品における主人公とも言える「新たな大富豪」、サム・バンクマン・フリードに会いに行く場面から始まる。彼は元トレーダーで、暗号資産取引などで財を成し、自ら暗号資産取引所のFTXを立ち上げた人物だった。
 2009年に世界初の暗号通貨であるビットコインが登場すると、それを取引するための場所が必要になり、2010年代に入ると暗号資産取引所の立ち上げが相次いだ。FTXは開設が2019年と後発だったが、市場ニーズに合わせたサービスを提供することで成功を収め、多額の資金調達にも成功。バンクマン・フリードは瞬く間に億万長者となり、暗号資産界隈でも注目を集めるようになった。本書に登場する表現を借りれば、それはフェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグに匹敵するほど。しかしあまりに急に表舞台に出てきたためか、彼の多くは謎に包まれていた。ルイスはそんな彼の素性を、とある人物から頼まれて探りに来たのだった。
 そしてルイスは、この奇妙な人物に一瞬で興味を抱く。それから彼を追い始めるのだが、タイミング良くと言ったら不謹慎だろうか、取材開始からおよそ1年たった2022年11月、FTXは突如として破綻する。しかもバンクマン・フリードには、巨額の詐欺の容疑もかけられた。そうした状況下で出版された原著は、まさにタイムリーな本として、米国で大きな話題となった。本書はこの壮絶なFTXの破綻、そしてサム・バンクマン・フリードの失墜という大事件を軸に、彼はいったい何者だったのか、なぜ30歳にもならない若さで「大富豪」になり得たのか、手にした大金で何をしようとしていたのかを描ききっている。

 本書で重要となるキーワードのひとつに、「効果的利他主義(EA:Effective Altruism)」がある。これは今、米国のテック業界で宗教と呼ばれるほどの普及を見せている思想で、限られたリソースを最も「効果的」に活用することで、他者の幸福を最大化することを目指すという考え方だ。本文中にも説明がある通り、1970年代に哲学者ピーター・シンガーが唱えた「浅い池」と呼ばれる思考実験が基になっている。多くの人は、子どもが浅い池で溺れているのを見たとき、たとえ自分の新しい靴がダメになってしまうとしても、迷わず池に飛び込んでその子を救うだろう。ならば遠くで苦しんでいる子どもを救うために、自分の持つ靴、すなわち資産を、援助のために送るのが正しい行いのはずだ―この考え方から、他人のために自分の資産を使おう、そのために資産を増やすことにも取り組もうという思想にまで発展していく。
 それが効果的利他主義という形で具現化されたのは、2000年代に入ってからだ。本書にも登場するトビー・オードやウィリアム・マッカスキルといった人々がこの思想を体系化し、さらに「お金をたくさん稼いで寄付してくれる人」の予備軍を集めるため、有名大学の優秀な若者を精力的に効果的利他主義にリクルートしはじめた。そうして効果的利他主義を信奉するようになった大物の1人が、サム・バンクマン・フリードだったというわけだ。
 これまで巨大な金融詐欺事件を起こした犯人たちは、私利私欲のためにカネを奪った。しかし効果的利他主義者であるバンクマン・フリードの行動は、それほど単純に理解できるものではない。そのためか、ルイスは本書において、バンクマン・フリードに対して時おり同情的な姿勢を見せている。

 原著が出版された後の2024年3月、一審の判決が下され、サム・バンクマン・フリードは詐欺と共謀に関する7つの罪により、25年の実刑判決を受けた(ただし4月に彼の弁護士から控訴の申し立てが行われている)。裁判を担当したルイス・カプラン判事は、彼が「恐ろしい犯罪に手を染めたことを一言も反省していない」と述べている(カプラン判事がサムとその「悪事」をどのように捉えたかについては、新たに追加されたあとがきで解説されているのでご参照いただきたい)。また、本書でも解説されているように、米国でサム・バンクマン・フリードへの批判が強くなったのは、彼の人格や人物像に関するセンセーショナルな報道があったからだとも言える。日本では金融詐欺事件としては報じられたものの、サム・バンクマン・フリード個人についてはさほど報じられなかった。彼は本当に「巨悪」だったのか。
 ルイスが膨大な取材を基に描いた本書を読みながら、皆さん自身で考えてみていただくのも面白いだろう。

 最後にひとつ、邦題のサブタイトルにも関連してくる本書のキーワードについて説明しておきたい。それは「クリプト(crypto)」という単語の訳し方だ。
 クリプトとは「隠された」や「秘密の」を意味する古代ギリシャ語のクリプトス(kryptós)に語源を持つ接頭辞で、それに「書く」という意味のグラフィア(graphia)が続くことで、暗号学や暗号化技術を意味する「クリプトグラフィー」という単語が生まれた。すると「クリプト」自体が「暗号の」という意味も持つようになり、そこから「クリプトカレンシー(暗号通貨)」や「クリプトアセット(暗号資産)」といった造語が生まれる。その結果、現在では単に「クリプト」と言うだけで、暗号通貨や暗号資産を指すようになった。
 暗号通貨と暗号資産は似ているが少し異なる。もともとビットコインなどを指す言葉として「暗号通貨」という表現が使われていたのだが、技術の進化により、「通貨」の範疇に収まらないものが増えてきた。そのため、より大きな概念として「暗号資産」という言葉が使われるようになったのである。原著では「暗号通貨」と明示的に記されている箇所もあったが、単に「クリプト」と表記されていることが多かった。その場合、大半は「暗号資産」と訳したが、文脈上「暗号通貨」と訳している箇所もある。
 またお気づきの通り、邦訳のサブタイトルには「仮想通貨」という言葉が使われている。これは日本の場合、「暗号資産」を指すときにも「仮想通貨」と表記される場合が多く、この呼び方が定着していることから、採用することを決めた。この辺りは、本書の内容を瞬時に伝えるための工夫と考えていただきたい。

 ぜひ、このマイケル・ルイスの新たな傑作となる本書を、日本の読者の皆さんにもお楽しみいただけたら幸いだ。

小林啓倫


【目次】

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