世界中から依頼が絶えない超人気建築家、隈研吾氏の人生の血肉となった本、3冊目は、吉田健一の『ヨオロッパの世紀末』。高校時代に修道院で読み、その独自のヨーロッパ観に魅了される。「文明とは優雅と諦念」というメッセージはその後の建築家の仕事にも生きていく。(文中は一部敬称略)

高校時代、「黙想の家」で出合う

 カトリックの男子校に通っていた高校1年のときに、吉田健一の『ヨオロッパの世紀末』(岩波文庫)を読みました。読んだ場所も鮮明に覚えています。東京・石神井のイエズス会修道院で開かれていた「黙想の家」に参加したときです。「3日間、誰とも口をきいてはいけない」という“修行”がそれで、友人から「なんか、すごいらしいぞ」と聞いて、やってみようと思ったのです。

 そのときの指導者は大木章次郎さんという、カトリックの世界では怖くて有名な神父でした。大木神父は特攻隊の生き残りで、「あなたたちは『死』に直面したことがない」という言葉を彼の口から聞くだけで、高校生の僕らはビビッてしまう。その怖さたるや、半端じゃなかった。神父は後に日本を飛び出して、ネパールで学校を建てたりされたのですが、まさに伝説的な存在でした。

 

 今の10代だったら、1分でもスマホから切り離されたら、生きていけないと思いますが、長い「黙想」の時間で触れたのが、吉田健一のヨーロッパ観でした。言わずと知れた吉田茂の長男であり、幼少期からイギリスで教育を受け、ケンブリッジ大学を中退。同時代の知識人の中でも、際立ってユニークな経歴の持ち主です。知識と思考は洗練を極め、ひねくれ具合も超一流。そんな人物による、このエッセーを一言でいうと、これもやはり僕の人生のテーマである「近代批判」なんですね。

カトリックの学校では、反面教師として西欧文化を知りました
カトリックの学校では、反面教師として西欧文化を知りました

ヨーロッパの産業革命を批判

 この本で批判される「近代」は、18世紀半ばから19世紀にかけて、ヨーロッパで興った産業革命です。吉田の言によると、「大体二千年ばかりの歴史でヨオロッパが最もヨオロッパだったのが十八世紀」ということで、そこではギリシャ、ローマ時代から続く純粋な精神、人間が人間として存在する自由が息づいていた。ところが、産業革命という機械中心主義が興ったことで、人間性が抑圧されて、おかげで19世紀という時代は最悪のものになってしまった。その抑圧に対抗するものとして、19世紀末にアンチの風が吹いたという見立てです。

 例えば、アルチュール・ランボーのような破天荒な詩人は、そんな時代背景の中で登場するわけです。ランボーは若くしてパリ、ロンドンの文壇で大成功しましたが、世間の価値とか、都市のうわべの華やぎとかをさっさと見捨てて、貿易商人としてアフリカに渡り、砂漠を放浪した末に、早世しました。まさしく世紀末的な感性で、そのようなアンチな生き方は、10代の僕をどうしようもなく魅了しました。

 本の中にはポー、ワイルド、ボードレール、ニーチェ、プルースト、ヴァレリーと19世紀末を彩った芸術家たちの名前がちりばめられていて、70年代という時代に、厭世(えんせい)的な気分を抱える高校生には、甘い毒のようでもありました。それを、総理大臣という世俗の代表選手のような人の息子が書いている、という点がまた最高でした。

『ヨオロッパの世紀末』(吉田健一著/岩波文庫)
『ヨオロッパの世紀末』(吉田健一著/岩波文庫)

19世紀末に現れた「優雅と諦念」

 この本で描かれる吉田のヨーロッパ観――文明とは優雅と諦念のことである――というものは、僕の中にずっと残り続けました。文明とはピカピカと輝くものではなく、陰影を背負った先に到達する、明るい諦めの境地であり、文明人とはその陰りと明朗さを同時に持つものだ、と。18世紀ヨーロッパの人間性は、産業革命でいったん失われてしまったが、しかし、19世紀末に一段と洗練された状況で、文明として現れたということなのですが、このひねり方こそが優雅と諦念の産物ですよね。

 吉田健一は、日本にあって真のインターナショナルな人物で、ヨーロッパをむやみに信奉することもなく、また日本とヨーロッパを対立軸で語るのでもなかった。そして、日本文化の中にある優雅と諦念についても、言及し、認めた。そこが文明論として秀逸だと思います。

建築家の仕事は「諦めること」が基本

 そんな吉田のヨーロッパ観が、なぜ、今に至るまで僕の心に残り続けているかというと、僕たち建築家の仕事って、「諦めること」が基本だからなんです。

 予算がないのは当たり前。場所や素材の制約は、限りなくあるし、法律も厳しい。敬愛するクライアントに巡り合っても、互いの命は限りあるものですし、建築という堅固な物質だってある日突然、壊されておしまいになる。言ってみれば、どういうふうに諦めるかが問われる職業で、さらに、そこから永遠につながるものを求められる。そういう矛盾にさいなまれるのが建築家なのです。

吉田健一の「優雅と諦念」というフレーズは建築の仕事にも役立っています
吉田健一の「優雅と諦念」というフレーズは建築の仕事にも役立っています

 読んだときはまだ10代ですから、優雅と諦念が建築という世界でどう役立つかなんて、分かりっこありません。ただ、10代で「諦念ってカッコいいんだ」と感銘を受けたことは、その後の人生に明らかに役立ちました。その一つに、日本ならではの木造建築を、西洋の石の文化に気後れすることなく、世界にぶつけられたことがあると思います。

 実際、この本で描かれる「ヨオロッパの世紀末」みたいなものを、日本は歴史の中で何度も繰り返しているわけです。平安末期や千利休が生きた時代なんて、まさにそうです。利休による「わび」「さび」は、物質的、成り金的なものに対する否定で、日本にはもともとそういうアンチ近代の精神がある。

 建築でいうと、重厚でデコラティブな石造りではなく、ましてやガラスやコンクリートの超高層タワーでもなく、木造のボロ家を美しいと愛(め)でる感性。それこそが、世界の建築界で埋もれずに闘っていくための、強力な武器になっているのです。

 梅棹忠夫の『サバンナの記録』、上野千鶴子の『家父長制と資本制』、そして吉田健一の『ヨオロッパの世紀末』。僕の挙げた3冊は、一見、脈絡がないのですが、僕の中では全部「アンチの精神」でつながっていますね。

取材・文/清野由美 写真/木村輝

“隈建築”はどのようにして進化を遂げたのか

隈研吾氏が設計した国内の見るべき作品50を紹介。それぞれの魅力をキーワードで分類、カラーイラスト満載。専門的な解説、本人のロングインタビューも収録。旅先のガイドブックとしても使える一冊。

宮沢洋(画文)、日経BP、2640円(税込み)