「潜在成長率が上がらずに超金融緩和を続ければ、副作用の方が大きくなる」。第一生命経済研究所エコノミスト、熊野英生さんが選ぶ「インフレ局面に読みたい本」2冊目は、 『金利と経済 高まるリスクと残された処方箋』(翁邦雄著/ダイヤモンド社) 。経済学者の岩田規久男さんとの論争で注目された翁さんの理論は今も説得的。インフレ政策の出口を考察する上でも欠かせない本です。
日銀時代、岩田さんの議論の「練習台」に
1990年代前半、金融政策を巡って「翁ー岩田論争」と呼ばれる議論がありました。経済学者の岩田規久男さんが、「日銀が貨幣供給量を増やせばマネーストック(経済全体の通貨量)が増え、インフレ圧力を高めることができる」と主張したのに対し、当時、日本銀行の職員だった翁邦雄さんが「日銀がコントロールできる貨幣量は限られている」と反論したのです。
これについては、個人的な思い出があります。日銀には新人・若手職員向けに「理論研修」の時間があり、当時入行して間もなかった私も出席しました。その講師の一人が岩田さんだったのです。最前列の席に並ぶ職員に議論を吹っかけながら、日銀の在り方を問う講義スタイルでした。経済紙・誌上で日銀批判を繰り広げるのはその後のこと。今にして思えば、我々はいい練習台だったのかもしれません。
そんな岩田さんに、日銀きっての理論家として対峙したのが翁さんです。その後、岩田さんは日銀副総裁に就任され、黒田東彦総裁と共にご自身の理論に沿ったインフレ政策を推し進めたことは周知の通り。この点だけを捉えれば、先の論争の軍配は岩田さんに上がったように見えます。
発展を続ける翁さんの理論
しかし、学問的には、岩田さんの理論が論争時点で止まっているのに対し、翁さんの理論はその後もずっと発展を続けている印象があります。すでに70歳を超えておられますが、常に新しい発想を取り入れる姿勢には敬服するばかり。まさに金融界における「知の巨人」だと思います。
著書の『金利と経済』からも、そんな発展のプロセスの一端を読み取れます。刊行は2017年なのでやや古いと感じられるかもしれませんが、そんなことはありません。日銀がマイナス金利政策に踏み切ったのは、刊行前年の2016年1月から。なぜそこに至ったのか、それがどのような功罪を生むか、日本経済全体の状況も含めて極めて理論的に解説・展望したのがこの本です。
キーワードは「自然利子率」
この本を貫くキーワードは「自然利子率」。これは景気を加速も減速もさせない中立的な金利水準を指し、中長期的には経済の実力を示す「潜在成長率」とほぼ一致するといわれています。世界的に低下傾向にありますが、日本もずっと低いまま。これが日本経済のボトルネックであるとしています。
それを量的緩和やマイナス金利などの金融政策で持ち上げようとしても無理があるし、むしろ副作用が大きい。もっと自然利子率そのものを高めるような、例えば少子化対策や高齢化に対応したイノベーションが欠かせないと説くわけです。
それはともかく、今日の日銀が抱える大きな課題は出口戦略です。資源価格の値上がりや円安によるコストプッシュ型のインフレ傾向を受け、そろそろインフレ政策からの転換を迫られることになりそうです。
しかし、それが難しい。インフレ政策は登山のようなもので、登るときは“期待”もあって容易ですが、引き返す道は遭難しやすいのです。雲行きが怪しい中で麓(ふもと)まで無事にたどり着けるのか、安全な下山ルートはあるのか、これからますます不安にさいなまれることになるでしょう。その不安を取り除く一つの方法は、入り口に立ち返って検証すること。そこで、実務的にも学問的にも精通した翁さんの知見が頼りになるわけです。
21世紀以降の経済の大きなテーマは「不確実性」です。同書でも触れていますが、専門家でさえなかなか先行きを読むことはできません。ただしそのなかでも、対処する手段はあります。それが一定レベルの知識と情報を持つこと。五里霧中でさまようことは恐怖でしかありませんが、状況を把握できるような手掛かりや道標があれば、取りあえず落ち着いて考えることができそうです。
何が分からないかを知る大切さ
評論家の小林秀雄は『学生との対話』(新潮文庫)の中で、「分からないことを質問できるようになれば、それは分かったと同じことだ」という意味のことを述べています。まったくその通りで、少しでも分かる部分があれば、逆に何が分からないかが見えてきます。そして、分からないなりに、ある程度は推論を立てて見通すことができるようになります。その分かる部分を学ぶ上で、同書は絶好の教科書と言えるでしょう。
なお、金利とは何か、債券とは何かということをもっと基礎から知りたいなら、『本当にわかる債券と金利』(大槻奈那、松川忠著/日本実業出版社)をお薦めします。マイナス金利の話から世界の債券市場の話まで、網羅的にバランスよく解説しているので、金融の知識を初歩から学ぶにはちょうどいいと思います。また、著者はいずれも実務家なので、マーケットのプロの考え方や日々の取引の息遣いまで伝わってきます。
ちなみに、私はかつて金融機関の担当になったとき、業界で名著といわれている『東京マネー・マーケット』(東短リサーチ株式会社編/有斐閣選書)を繰り返し精読し、複数ある金融市場の仕組みを勉強しました。テキスト選びも大事ですが、こういう反復練習が、後に大きな糧になるような気がします。
取材・文/島田栄昭 写真/木村輝