世界的にインフレ傾向が顕著になってきた。一方、日本ではデフレ経済が長く続き、物価や金利の上がる場面を経験したことがない世代も増えている。そこで、第一生命経済研究所首席エコノミストの熊野英生さんに、来るべきインフレ局面に備え、読んでおきたい本を挙げてもらった。1回目は 『物価とは何か』(渡辺努著/講談社選書メチエ) 。
地震予測と物価予測の類似点
面白い本には、一般的な常識ではなく、「私はこう思うんだ」という著者の強烈な主張が盛り込まれているものです。『物価とは何か』はまさにそのような本で、この1年に私が読んだ本のなかで最も印象に残っています。
冒頭、岩井克人氏による「蚊柱(かばしら)理論」の紹介から始まります。蚊柱とは夏の水辺に現れる蚊の大群のこと。個々の商品価格は1匹1匹の蚊で、蚊柱は物価全体です。その上で、日本経済は蚊柱も個々の蚊も動いていないことが問題として論を起こします。
秀逸なのが中盤以降です。おそらく渡辺努さんしか語れない、目からうろこが落ちるような独自理論を次々と展開していきます。
例えば、なぜ日本の物価が動きにくいのかについて、地震予測と結び付けて説明します。ひとたび大きな地震が来ると、私たちはしばらく余震が続くだろうと予想しがちです。同様に、オイルショックのような大きなインフレ要因があると、多くの人がさらなる物価上昇を予想するようになります。そのことで実際、物価は上がりやすくなります。
もっとも、余震の場合は、頻度とともに地震のエネルギー(マグニチュード)が大きな影響を及ぼしますが、物価の場合は、エネルギー(値上げ幅)よりも頻度が重要です。たとえ少額でも、たくさんの数の商品やサービスが値上がりすると、社会にインフレのモメンタム(勢い)が醸成されていきます。
毎日のように利用するスーパーやコンビニの商品が次々に値上げをすれば、私たちは、他の商品もいずれ値上げするんだろうと想像します。消費者の物価上昇マインドは、こうしてつくられていきます。
この話は、日本銀行がアベノミクスの下で唱えてきたインフレ政策に対する批判です。どんなに中央銀行が超金融緩和政策を続け、期待インフレ率の上昇をアナウンスしても、物価は動きません。人々の物価予想を形成するのは、世の中の大きな変化やショックだからです。経済学の言葉で言えば、内生的な要因より外生的な要因の方が、要素として大きいと本書は説いています。
反対に言えば、今まで日本でデフレが続いてきたのは、各企業が価格改定に至るほどの大きなショックがなかったからです。企業にとっては値上げをしたくてもできない状況でした。若い世代は特に長年にわたってデフレしか知らず、物価が上がる実感を持てなくなっていたでしょう。そういう状況下では、企業も商品の価格を引き上げるのは難しかったのです。
潮目は変わったか
ところが、ここへきて日本経済に大きな変化の兆しが見られます。長らく続いた超金融緩和に加え、コロナ禍などをきっかけとした半導体の供給不足、米連邦準備制度理事会(FRB)の利上げ期待によるドル高・円安、ロシアのウクライナ侵攻によるエネルギーや食糧価格の高騰、ロシア産レアメタルの輸入停滞などが重なったことが主な要因です。そのために輸入物価が高騰し、これまで価格を抑えてきた企業も、ついに耐えられなくなりました。まさに、外生的要因によるコストプッシュ型のインフレが始まっています。
個人消費の内訳は、モノとサービスがほぼ半分ずつです。このうちモノの約25%は輸入品。つまり消費の12.5%は輸入品なので、この部分が軒並み高騰するとなれば、物価全体への影響は大きくなります。これは、長い間日本が直面したことのなかった事態です。
この状況に対し、日銀の黒田東彦総裁は、「コストプッシュ型のインフレは持続しない」という見方を示しています。長期のインフレ傾向は中央銀行が物価予想によってコントロールするものという自負があるからでしょう。ですから、日銀は金融緩和の継続姿勢を崩していません。長期金利を抑制するための「指し値オペ」(決まった利回りで国債を無制限に買う措置)を行ったのも、その一環です。
一方、本書の見立てが正しいとすれば、これからしばらく物価上昇の“余震”が続くはずです。実際、食料品をはじめさまざまな商品の値上げが相次いでいます。とりわけB to Bの分野では、数十年ぶりの値上げとなった例もあります。他社の値上げを見て、あるいは値上げを容認するような社会の空気を感じて、ようやく安心して値上げに踏み切れるといった連鎖反応が当面続くかもしれません。
だとすれば、日銀が目標として掲げる2%を超えてインフレ率が上昇するかもしれません。ついに「蚊柱」そのものが大きく動き始めるわけです。
理論もビジネスも
渡辺努さんは東京大学大学院の教授であると同時に、データ分析を専門とする民間企業、ナウキャストの創業者・技術顧問でもあります。また、大小さまざまなプロジェクトに積極的に携わっているそうです。そのためか、本書は理論と現実社会の距離感が近く読みやすい。しかも、物価に対する知見が極めて斬新です。経済学をある程度知っている人なら驚くでしょうし、詳しくない人でも直感的に理解しやすいです。
今、日本経済にどんな変化が起きているのかを整理し、これからどうなるかを考察するには最適な一冊だと思います。
取材・文/島田栄昭 写真/木村輝