オーディオブックをはじめ、ニュースなど多彩なポッドキャストも楽しめるAudible。12月に新たに配信された村上春樹氏の紀行文『辺境・近境』(新潮社)では、俳優の永山瑛太さんが朗読を担当しています。物心ついた頃から村上春樹作品を愛読してきたという瑛太さん。作品に対する思いや、『辺境・近境』のレコーディングの裏側について聞きました。

昔から村上春樹さんの作品は好きでいくつか読んできたんですが、ハルキスト…、というわけではないですね。そう名乗るのは、あまりにもおこがましい。ハルキストのレベルがあるとしたら、僕はハルキストのハの字の1画目にも達していないくらいでしょうか(笑)。
ただ、小学生の頃から村上春樹さんのほか、村上龍さん、大藪春彦さん、星新一さん、筒井康隆さんと、質の高い小説を読む機会には恵まれていました。
近所に本が好きな親戚が住んでいて、小説入門のような感じでいろいろな本を家に持ってきてくれていたんですよ。それを兄がよく読んでいて、「面白いから読んでみたら」って。
そこで初めて村上春樹さんの『風の歌を聴け』を読んだんです。正直その時の自分には、面白いという感想は浮かばなかったし、理解というところにも到達できていなかったと思います。
それで「その作品の映画もあるよ」と人から聞いて、レンタルビデオショップに借りにいきました。すると、僕のイメージしていたものと全然違ったんですよ。それが面白いなと思うと同時にものすごい違和感も覚えたんです。僕が本を読んで感じた形容できないような感情、それを映像にするとこうなのか、と。
その頃の僕は、俳優を目指していたわけでも、もちろん小説家を目指していたわけでもないのですが、文章が映像になるということに強烈な違和感というか、「あの文章がどうしてこうなったんだろう」って、ものすごく興味を持ったんです。そこから、小説というものを読むようになりました。
僕は今、運良く俳優という職業に就けているわけですが、あの経験は今に至る原点だったのかもしれません。
僕自身が村上春樹に。俳優として収穫があった朗読体験
『辺境・近境』は、20代の頃にちらと読んだことはあるのですが、今回、朗読を担当して、さまざまなことを発見しました。
まず、小説じゃないから「余白」がないんですよ。せりふもなくて全部村上春樹さんの言葉でぎっちり埋まっている。なので、朗読するとなると、たった1人で村上春樹さんと向き合っていかなければなりません。
普段ドラマや映画の役作りをするときって、自分にいろいろなパーツを加えていくような作業をするんです。この人は、「何を抱えて生きているのかな」「どんな服を着ているのかな」「どんな話し方をするのかな」「何が癖なのかな」と、自分なりに解釈して、現場に持っていって監督と相談しながら役を作っていきます。
それが今回は村上春樹さんの一人称で旅がずっと続いていく。しかも狭いブースの中に、ほぼ軟禁状態で閉じ込められて(笑)。6日間、合計35時間。無音の中で、自分の声と息遣いしか聞こえてこないんですよ。否応なしに、村上春樹さんと、果ては自分と向き合わざるを得ない状況に追い込まれました。これは試練でした。
朗読を続けて4時間くらいたつと、集中力が切れて無の状態が訪れるんですが、すると、自分のなかにすうっと村上春樹さんが入り込んできたような感覚になるんです。
村上春樹さんと一緒に旅している感覚、そして僕自身が村上春樹さんになる感覚。一種のゲシュタルト崩壊のような精神状態になったんですよ。とても不思議な感覚でした。
実はこの収録は、一つの役が終わって、次の役の撮影が始まるまでの間に行ったのですが、そのタイミングで収録できたのは、俳優としてすごくいい経験でした。この自分と向き合う時間を持つことが、一番いいリセット方法なのだということに気付いたんです。

声に出すと分かる村上春樹の巧妙なトリック
驚いたのが、文字を目で追って読むのと、声に出して読むのってこんなにも違うものだということ。
全国に『辺境・近境』をすべて声に出して読んだ人は、僕以外にそんなにいないんじゃないかなと思うんですけど、ぜひ声に出して読んでほしいと、切に思います。
紀行文なので、村上春樹さんの主観でしか物事が語られていないですよね。文章が淡々と流れていくので、正直、メキシコとかモンゴルの話は重くてつらかったのですが、声に出して読んでいると、いつの間にか小説を読んでいる感覚になっていました。そこが村上春樹さんのオリジナリティーのなせる業だと思うんです。

声に出してみると分かるのですが、実は、日常的に使わないような日本語がいっぱい使われているんですよ。目で追っていると、すっと入ってくるのですが、声に出すとものすごく読みづらい部分がたくさんあるんです。これは朗読しないと気が付かないと思います。
これは、きっと、村上流のエンターテインメント性にあふれたトリックです。この読者の興味を引き立てるトリックが、いろいろなところに細かく仕掛けられているんだなって気付きました。
紀行文ですら、読者の想像力が試される村上ワールド
巻末のあとがきともいえる「辺境を旅する」にも書かれていましたが、村上春樹さんは、旅の間に文章を書くことはせず、小さなノートに、気になったことを単語だけとか簡単なメモを取るようにしているそうです。そして、あえて1〜2カ月寝かせてから文章に起こす。
旅をするときに、撮影も録音もせず、その時の五感を研ぎ澄ませて、生身の肉体としていろんなものを感じるべきだと、そういうふうに考えていらっしゃるのだろうと思います。
そして、村上春樹さんだから、この紀行文ですら、もしかしたらどこか脚色されているところもあるかもしれない。村上春樹さんから「これをどれだけあなたの想像力で読めますか?」「あなたはどう理解しますか?」 と、投げかけられているような気がするんですよね。

取材・文/磯部麻衣 写真/鈴木愛子