フランス文学者で、渋沢栄一らの伝記作家としても知られる元明治大学教授の鹿島茂氏の選書による傑作自伝・評伝の1回目は、『知られざるスターリン』。スターリンは周りの人間をまったく信じない、疑心の塊のような人物で、情報収集や決断をすべて1人で行っていた。大層な読書家でもあり、政敵だったトロツキーの全著作も読破していた形跡がある。ロシアつながりでラスプーチンの異色評伝も紹介。(文中は一部敬称略)

 ロシア・プーチン大統領によるウクライナ侵攻で緊迫した国際情勢が続いていますが、近現代史上最悪の独裁者といえば、真っ先に思い浮かぶのが旧ソ連の最高指導者であったスターリンでしょう。独ソ戦を勝利に導き、戦後処理をめぐってはアメリカのルーズベルトやイギリスのチャーチルを相手に一歩も退かず、冷戦構造を形成。また国内では粛清に次ぐ粛清により、人々を恐怖で支配。数千万人が粛清されたといわれ、20世紀の負のイメージを象徴する人物です。

 スターリンに関する評伝や人物伝は多数あります。生前にソ連で書かれたものは礼賛本ばかりですが、死後のものは当然ながら批判本一色。どれほど残酷な人物でどれほど悪行を尽くしたか、競うようにつづられています。素材が素材だけに、いずれも遜色なく面白く読めます。

「スターリンはサイコパス。読書をたくさんしたからといって必ずしも善良な人間になれるわけではありません」
「スターリンはサイコパスといわれている。読書をたくさんしたからといって必ずしも良い人間になれるわけではありません」
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なぜたった1人で独裁体制を築けたのか

 そのなかで異彩を放つのが、『知られざるスターリン』(現代思潮新社)。悪行を挙げるばかりではなく、なぜたった1人で前代未聞の独裁体制を築くことができたのか、今まで注目されてこなかった資料を基に、その特異なキャラクターを浮かび上がらせています。著者はスターリンが独裁権力を握った頃に生まれたロシアの双子の歴史家で、1人は生化学者、もう1人は政治家でもあります。

『知られざるスターリン』(ジョレス・メドヴェージェフ&ロイ・メトヴェージェフ著、久保英雄訳/現代思潮新社)
『知られざるスターリン』(ジョレス・メドヴェージェフ&ロイ・メトヴェージェフ著、久保英雄訳/現代思潮新社)
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 同書によれば、スターリンは大層な読書家でした。ありとあらゆる本を、1日に500ページぐらい読んでいたらしい。面白いのは、政敵として追放したトロツキーの著作をすべてそろえ、しかもすべて読んでいた形跡があること。そのなかには、「なかなかいいことを言っている」といった書き込みもあるそうです。

 見方を変えれば、読書によっていくら知識・教養を身に付けても、行動が改まることはなかったわけです。最後まで疑心の塊で、他人をいっさい信用せず、人命をまったく尊重せず、ひたすら力と恐怖のみに頼る人物でした。またジョージア出身でありながら、ジョージアに過酷な弾圧を加えています。ロシア民族主義を煽(あお)るとともに自身の経歴を消し、個人崇拝につなげようとしたらしい。このあたりも冷徹そのものです。

 情報収集力や決断力も驚異的でした。科学から哲学まで、あらゆる分野について情報を自分1人に集約し、それに基づいて1人で判断を下し、関係部署にそれぞれ具体的な指示を出している。ナポレオンも似たところはありますが、情報収集については秘密警察長官フーシェという側近がいました。スターリンはそれを1人でこなしたわけで、独裁者としてより超人だと思います。

「下半身の話」が出てこない

 ただし、まだ謎な部分も多々あります。その1つが愛人や女性関係に関すること。歴史上の権力者は、たいてい多くの隠し子がいたり、家族に自分の後を継がせようとしたりするものです。

 ところがスターリンの場合、そういう話がいっさい出てこない。同書でもまったく触れられていません。そういう方面の意欲は本当になかったのでしょう。その意味では、歴史上の奇跡のような独裁者だと思います。世の中にはこういう人物もいたと知るだけで、視野が広がるのではないでしょうか。

「『真説ラスプーチン』は怪僧ラスプーチンの定説を翻しています」
「『真説ラスプーチン』は怪僧ラスプーチンの定説を翻しています」
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 同じロシア関連で挙げるなら、『真説ラスプーチン』(NHK出版)も面白い。ラスプーチンといえば、ロシア最後の皇帝ニコライ二世の皇后アレクサンドラに取り入り、国政にまで関与して帝国の崩壊を早めた“怪僧”、といった紹介がよくされます。しかし同書は、近年にオークションで発掘された秘密文書を基に、従来の定説をひっくり返すラスプーチン像を描いています。

 例えば1908年、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したとき、ロシア国内では同胞のセルビア人を救うべく戦争を仕掛けるべきだとの機運が高まります。しかし、ラスプーチンは真っ向から反対。やがてこの地で革命が起こることを予言していたそうです。実際、この地で1914年にセルビア人によってオーストリアの皇太子が暗殺され、それをきっかけに第1次世界大戦が始まったことは有名でしょう。

ラスプーチンは皇后の愛人ではない?

 ラスプーチンと親交のあったロシア帝国初代首相セルゲイ・ウィッテは、後に「ラスプーチンがいなければ、第1次大戦は1908年に始まっていただろう」と述懐しているそうです。文字さえ読めないラスプーチンがなぜ国際政治の先行きを読めたのかは謎ですが、それが宗教家の類推力というものかもしれません。

 また、皇后の愛人だったという定説にも異を唱えています。実は皇后はレズビアンで、その相手の女官がラスプーチンの愛人でもあったらしい。そのつながりで宮廷に入り込んだというわけです。

 著者は1936年生まれのロシアの歴史作家で、スターリンの評伝『赤いツァーリ』やニコライ二世の最期を描いた『皇帝ニコライ処刑』(ともにNHK出版)のような著書もあります。

取材・文/島田栄昭 写真/木村輝(鹿島さん)、スタジオキャスパー(書影)