大学の新しい基本方針「UTokyo Compass」において、対話や多様性を重視する方針を打ち出した、東京大学第31代総長・藤井輝夫さん。その背景には、藤井さん自身のキャリアの転機で出合った3冊の本があった。
これまでの研究生活を振り返ったとき、自分でも大きな転機だったなあと思うのは、理化学研究所の研究員だった30代前半の頃。当時の私は、新しいことを成してやろうという思いを抱きつつ、地道な実験作業をコツコツ繰り返していました。
そんな日々のなかで出合い、心つかまれてしまったのが、今回紹介する3冊の本です。
『二重らせん』 (ジェームズ・D・ワトソン著、講談社ブルーバックス)は、DNAの二重らせん構造の解明に至るまでを、当事者であるワトソン博士がつづったドキュメンタリー。研究者同士の競争や駆け引きなど、世紀の発見の舞台裏にワクワクしたことをよく覚えています。1950年代のこの発見がのちの分子生物学の基盤となり、現代の生命科学の発展につながりました。
『マリス博士の奇想天外な人生』 (キャリー・マリス著、福岡伸一訳、ハヤカワ文庫)は、PCR検査を開発したマリス博士の自伝。ウイルスや細菌のDNAを大量に増幅させるPCRは、新型コロナウイルス感染症の診断に使われて身近になりました。でも、開発した人物の素顔はあまり知られていないのではないでしょうか。この実にユニークで破天荒な人物像に触れると、科学はさらに身近になるかもしれません。
そして、「抗体の多様性生成の遺伝学的原理の解明」で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進さんに立花隆さんがインタビューした 『精神と物質』 (利根川進、立花隆著、文春文庫)。仮説と検証を積み重ねて真理に近づいていく醍醐味を手に取るように味わうことができる1冊です。
それにしても、分子生物学者でもないのに、「おすすめ本」がすべて分子生物学の本なのはどういうわけなのか。
それは、私の研究領域の変化と大いに関係があります。
研究者としての行き場を失う
研究者としてのスタートは、海中ロボット研究からでした。
工学部の船舶工学科を出て大学院へ。海中ロボット研究で博士号を取り、すぐに東大生産技術研究所に企業の寄付研究部門の客員助教授として採用されました。ここまでは海中ロボット一筋でかなり順調に歩んできたと思います。ところが、ちょうどその頃バブルが崩壊。1年半ほど担当していた企業の寄付研究部門は閉鎖され、私は、研究者としての行き場を失ってしまいます。
研究を続けられる場所を求めていろいろな方に相談し、情報を集めました。そのなかで、理化学研究所(以下、理研)がポスドク(博士研究員)を公募していることを知り、応募。なんとか雇ってもらうことになりました。
でも、理研には海中ロボットの研究ができる部門はなかった。しかも、私の所属は化学工学研究室。主任研究員の先生からは、「海中ロボットではない何か新しい研究を立ち上げるように」と言われてしまったのです。
さあて、どうしようか。
いろいろ考えた末、行き着いたのは、バイオロジーに生かせるようなマイクロテクノロジー(半導体の微細加工技術)をやろうということ。海中ロボットをやっているときに、マイクロテクノロジーを使ってマイクロマシンをつくる技術が既に出てきていました。その応用として「ミクロの決死隊」みたいな発想で、血管の中に入っていく極小ロボットなども構想されていました。
自分のこれまでやってきた技術とバイオロジーをどんなふうに融合させたらいいのか。
さまざまな研究者の集まっている理研で、当時大きな成果を上げていた分子生物学分野の研究の1つが、無細胞系タンパク質合成でした。細胞を使わずにDNAにコードされたタンパク質を人工的につくるというもので、これをマイクロテクノロジーと組み合わせたら、面白いのではないかとひらめきました。
つまり、非常に小さい入れ物をつくり、その中でDNAからタンパク質をつくれるようにしたら、それは細胞みたいなものを人工的につくることになるのではないか、と。ここから着想したのが、現在の私の専門でもあるマイクロ流体デバイス研究です。
領域を超えるとイノベーションが起きる
これは、マイクロサイズの流路構造の中に分子や細胞などの極微量の液体を入れ、混合、反応、検出などの化学操作を行う装置で、バイオや化学工学、医学など幅広い分野での応用が可能な技術でした。この研究はまったく新しい分野で、今でこそ大きい研究分野になっていますが、1995年当時は研究している人が世界中にほとんどいませんでした。
私がこの研究にたどり着くことができたのは、海中ロボットをやってきたという立場で、バイオロジーの視点を取り込むことができたからだと思います。
領域を踏み出したことで、ずっと生物をやってきた人とは異なる視点を持つことができた。領域を超えたときに、新たな技術の組み合わせが着想され、イノベーションが起きることを身をもって学ぶことになりました。
とはいえ、着想を得てすぐに研究を立ち上げられたわけではありません。
何しろ、生物学は大学の教養課程でちょっとかじっただけ。しばらくはひたすら分子生物学の勉強と実験に打ち込む必要がありました。でも、理研には専門家が大勢いましたから、あちこち聞き歩き、多くの研究者から直接たくさんのことを教えてもらいました。
翌年は研究員になれたので、ポスドクを雇う立場になりました。そこで、生化学が専門のポスドクを雇い、話し合いながら新しい研究分野を立ち上げていきました。
そんななかで、たくさんの本を読みました。興味の対象は、マイクロ流体デバイス研究に直結する分子生物学に…。
ノーベル賞受賞者の言葉の共通点
PCR検査を開発したマリス博士は、本の中で「ノーベル賞なんて、まったく偶然の積み重ねさ」と言っています。利根川先生も、「世界というのは何億年にもわたる偶然の積み重ね、試行錯誤の積み重ねであって、自分が成果を出せたのは『運が良かった』」と振り返ります。
これらの言葉は、「ノーベル賞は狙って取れるものではない」というふうにも読めますが、私はこの言葉の背景にあるのは、大きな存在に対峙した人ならではの謙虚さではないかと思うのです。
自然というものはものすごく多様で、ものすごく複雑で、圧倒的にすごいものであり、自分がたまたまそのほんの一部を理解することができたことは本当に運が良かった、そうおっしゃりたいのではないか、と。
この圧倒的に大きな存在を前にしたときの謙虚さ。それは普通に生活しているなかで感じることは難しいかもしれないけれど、読書を通して私たちはそれを追体験することができます。
何かを成し遂げた人のつづった本に触れることの意味は、こんなところにあるのではないかなと思うんですよ。
取材・文/平林理恵 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/洞澤佐智子