赤星四郎と六郎は、日本のゴルフ黎明(れいめい)期に選手として活躍し、その後ゴルフ教師、またゴルフコース設計家として、日本のゴルフ界を大きく前進・発展させた兄弟だ。今回紹介する『赤星家のゴルフDNA』は、赤星四郎の娘である隅田光子さんが書き記した「覚え書きノート」を初公開したもの。留学先の米国からゴルフを持ち帰り、多くのプロゴルファーに正しいスイングと競技のスピリットを伝授した2人が、いかに日本のゴルフ界を導いたかが分かる内容だ。

ゴルフ黎明期を支えた大富豪、赤星家

 マニアックなゴルフ好きは赤星四郎と六郎兄弟の名をどこかで聞いたことがあるかもしれない。日本のゴルフ黎明期に選手として活躍し、その後ゴルフ教師として、またゴルフコース設計家として日本のゴルフ界を大きく前進・発展させた兄弟である。

 『 赤星家のゴルフDNA 』(隅田光子著/ゴルフダイジェスト社/2023年7月刊)は、赤星家の四男である四郎と六男である六郎の思い出を、四郎の娘である隅田光子が書き記したノートを主軸に構成されている。それに付随する形として、四郎と六郎のゴルフについて、当時のゴルフ雑誌『ゴルフ』と『ゴルフドム』より抜粋して、1冊に編集されたものである。この本の第Ⅰ部は光子の「父・赤星四郎の覚え書きノート」であり、第Ⅱ部は「赤星四郎・六郎のゴルフアーカイブ」となっている。

『赤星家のゴルフDNA』(隅田光子著)。赤星四郎と六郎は、日本のゴルフ黎明期に選手として活躍し、その後ゴルフ教師として、またゴルフコース設計家として、日本のゴルフ界を大きく前進・発展させた兄弟
『赤星家のゴルフDNA』(隅田光子著)。赤星四郎と六郎は、日本のゴルフ黎明期に選手として活躍し、その後ゴルフ教師として、またゴルフコース設計家として、日本のゴルフ界を大きく前進・発展させた兄弟
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 なぜなら、彼らの華々しい人生はまさにこの本のタイトル通り、赤星家のDNAがもたらしたものだと言えるからである。

 四郎と六郎の父、赤星弥之助は薩摩藩の名士、磯永孫四郎周徳の息子で薩摩の郷士・赤星十兵衛の養子となり、明治維新後に海軍の戦艦や大砲の輸入を手がけて巨万の富を得た人物である。国宝級の美術品の海外流出を防いだ収集家としても有名である。

 弥之助の兄は磯永彦輔で薩摩藩留学生として後の文部大臣・森有礼らと渡英、鎖国下のため長澤鼎と名を変えた留学生である。英国のあとで米国に渡り、カリフォルニアのサンタローザでワイナリーを興して成功、バロン・ナガサワと呼ばれる名士となった。ロナルド・レーガンが大統領時の演説にも出てきた米国に貢献した歴史的日本人である。

 四郎と六郎の兄である長男・鉄馬は1901年(明治34年)に中学を卒業するや、父から「日本人にもハイソサエティに属する人間がいることをアピールしてこい」とアメリカに送り出された国際人。もちろん、父の兄である長澤鼎を頼ってのことであるが、鉄馬はニュージャージー州の名門ローレンスビルスクールからペンシルベニア大学に進学して卒業、様々なアウトドアスポーツを日本に持ち帰った。

 特に生態系の研究の末にブラックバスを移入して日本に初めてスポーツフィッシングの概念をもたらしたことは有名で、ゴルフにおいては1913年(大正2年)開場の東京ゴルフ倶楽部の創立メンバーである。また朝鮮で牧場を経営し、昭和天皇の愛馬となる「吹雪」を献上。三男の喜介は米国留学後にこの牧場を五男の五郎と共に引き継いでいる。ちなみに次男の兵造は幼いときに亡くなっている。

 こうした父や叔父、兄たちを持つ薩摩隼人(さつまはやと)が四郎であり六郎であるという前提のもと、彼らのプロフィールを紹介していこう。

四郎は帰国後2度、アマチャンピオンに

 まずは四郎だが、彼は1895年(明治28年)に東京の鳥居坂に赤星弥之助の13人兄弟姉妹の四男として生まれる。中学を卒業するやアメリカに渡り、長男の鉄馬と同じローレンスビルスクールに入学、卒業後も同じくペンシルベニア大学に進学する。在学中は180cmの長身を生かしてアメリカンフットボールの選手として活躍、勉学・スポーツ・人気を兼ね備えたベストボーイに選出されている。

 帰国後1年間は兵役を勤め、その後スタンダードオイルに入社。ゴルフにも打ち込み、1926年(大正15年)と1928年(昭和3年)の二度、日本アマチュアチャンピオンとなっている。飛ばし屋でありながら小技にもたけ、裕福な薩摩の郷士の家風をもたらす気品漂うゴルフを行ったといわれている。

 四郎のゴルフコース設計は、1929年(昭和4年)に日本のその道のレジェンドと呼ばれる藤田欣哉と共に霞ヶ関カンツリー倶楽部の設計に携わったのが最初である。それを含め四郎は1971年に亡くなるまで国内26コース、台湾・中国で5コースを設計する。1930年(昭和5年)に英国からゴルフ設計家のチャールズ・ヒュー・アリソンが来日し、霞ヶ関CC東コースの改修を行った際、ゴルフコースにおける様々を学び、それを自身のコース設計に生かすことで、程ヶ谷カントリー倶楽部や桜ヶ丘カントリークラブなど数々の名コースを誕生させている。

 英国ランカシャー生まれのアリソンはオックスフォード大学で造園学を学び、建築設計などに携わったあと、大自然の中で自分の才能を発揮したいとゴルフコース設計家に転向する。そして、近代ゴルフコース設計の父と呼ばれるハリー・コルトと共に数多くの名コースをデザインした。日本に滞在したのはわずか2カ月半、来日はそのときただ一度だけだったが、今でも日本一を競う川奈ホテルゴルフコース富士コースと廣野ゴルフ倶楽部を設計し、しかもその当時世界屈指のコースといわれた今はなき東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを設計している。

 またアリソンは、四郎設計の霞ヶ関CC東コースや鳴尾ゴルフ倶楽部、茨木カンツリー倶楽部東コースの監修改造に携わった。故にそれらがまぎれもない名コースになったとも言えるのである。深いアリソンバンカーが目に付く特徴であるが、そのコース設計思想は自然との調和、戦略性、様式美といった哲学に基づいたもので、四郎や六郎をはじめとする日本のゴルフ設計家に多大なる影響を与えたのである。

本書の第Ⅰ部にある、赤星四郎の次女、隅田光子さんが書き記した「覚え書きノート」。アマチュアゴルファーがどのように草創期の日本のゴルフ界を導いたかが分かる(『赤星家のゴルフDNA』より)
本書の第Ⅰ部にある、赤星四郎の次女、隅田光子さんが書き記した「覚え書きノート」。アマチュアゴルファーがどのように草創期の日本のゴルフ界を導いたかが分かる(『赤星家のゴルフDNA』より)
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六郎は第1回日本オープンに出場し優勝

 弟の六郎は1901年(明治34年)に赤星弥之助の六男として生まれる。19歳でアメリカに渡り、兄たちと同じ高校を経てプリンストン大学に入学。在学中にゴルフを始め、後に全米オープンを制覇したシリル・ウォーカーに指導を受ける。

 1924年(大正13年)にパインハースト・リゾートで開催された大会で優勝。欧米人に引けをとらない185cmの体格で飛ばしまくった。帰国後、東京ゴルフ倶楽部と程ヶ谷カントリー倶楽部に入会、1927年(昭和2年)に第1回日本オープンに出場し、2位の浅見緑蔵プロにアマチュアながら10打差を付けて優勝する。日本オープン史上アマチュアの優勝は六郎だけである。何せ六郎は当時のプロを指導しており、安田幸吉プロは六郎を「ゴルフの先生」と呼んでいたくらいだから当然の結果だったかもしれない。

 六郎は敗血症で42歳の若さで命を落とすが、それまでにコース設計家としてアリソンが大改修する前の川奈ホテルゴルフコースを設計、そのアリソンから薫陶を受けて、我孫子ゴルフ倶楽部を四郎と共に設計し、単独で相模カンツリー倶楽部と鷹之台カンツリー倶楽部を設計するのである。これらは今もなお、名コースである。現存はしていないが、四郎と共に武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コースと藤澤カントリー倶楽部も設計している。また中国と朝鮮に4コースを設計している。

 ちなみに四郎と六郎の間には、先にも述べたように朝鮮の牧場を三男喜介と経営した五郎がいる。彼だけがアメリカ留学をせずに慶応義塾大学に進んだ。ゴルフの腕前は四郎や六郎と日本オープンのタイトルを争うほどで、李朝時代の陶磁器の収集家としても知られている。

 このような赤星家の四郎と六郎であるが、彼らのゴルフを離れた素顔というのはこれまでほとんど知られていなかった。それが表された貴重な文献となるのが四郎の次女、光子が書き記した「父・赤星四郎の覚え書きノート」であり、本書『赤星家のゴルフDNA』の第Ⅰ部なのである。

 また、四郎と六郎のゴルフに対する考えや技術、コース設計に至るまでの詳しい彼らの話がこの本の第Ⅱ部に掲載されている。

 本書のあらましはこのコラムの後編に書こう。

(後編に続く)

写真/スタジオキャスパー