30年間にわたってトム・ワトソンの専属キャディを務め、その誠実な人柄とユーモアで「キャディ界のアーノルド・パーマー」と呼ばれた男、ブルース・エドワーズ。ツアー39勝をあげたワトソンの隣には、栄光のときも失意のときも、常にブルースの姿があった。48歳になる直前、ブルースは医師から余命1年と宣告される――。「書斎のゴルフ」第5回前編は、早すぎる死を迎えた名物キャディの生涯を描く、感動の全米ベストセラーを紹介する。
不治の病に冒されたブルース・エドワーズ
プロゴルフのトーナメントを見ると、プロの世話を焼いている人間がいることが分かる。大きくてかなりの重さのあるバッグを肩に担ぎ、プロの傍らを遅れずに歩きながら、ボールの所に行けば、ライを確認し、風を読み、グリーン周りの状況を把握し、ピンまでの距離を正確に測る。
プロの質問に迅速に答え、必要とするクラブを渡す。ディボット(ショットを打った際に削れた芝)を直し、バンカーを均(なら)すこともある。グリーン上ではボールを拭き、パッティングのラインを読み、距離を測る。ボールマーク(グリーンにボールが落ちたことでできた穴)を修繕したりもする。キャディバッグの中からプロに飲み物を渡し、タオルを渡し、傘やレインコートを渡す。仕事はすこぶる多く、時間も長い。練習のときなどはプロがやめるまで何時間でもそばに付きっきりでいなければならない。それがキャディというハードな仕事なのだ。
収入は週に10万円くらいが基本給、後は賞金の5%、トップ10以内なら7%。優勝したら10%をもらえる。つまりついたプロが予選落ちをしたら基本給のみという厳しさだが、優勝すれば数百万円の収入になる。名うてのキャディは仕事もきちんとこなすし、プロを励ましたり、元気づけたりといった精神面のバックアップもできる。よって強いプロの専属キャディになれば、年収1000万円以上にもなる。それだけの価値があるというわけである。
とはいえ、キャディの平均年収は350万円くらいといわれていて、これだけの重労働なのだから安いと言っていいだろう。肉体労働と考えれば、もっと稼げる仕事はたくさんある。なので、キャディをする人間はプロになれなかった落ちこぼれか、よっぽどゴルフが好きな変人だろうといった穿(うが)った見方をされてしまうのである。
そんなキャディの仕事を一生懸命にやって、スーパースターのトム・ワトソンに気に入られ、30年間も一緒にトーナメントツアーを回った男がいる。今回の本、『天国のキャディ 世界で一番美しいゴルフの物語』(ジョン・フェインスタイン著/小川敏子訳/日本経済新聞出版/2006年10月刊)の主人公、ブルース・エドワーズである。
とはいえ、ただのキャディ物語ではない。彼は48歳になる直前、長年愛し続けた女性との結婚を控えた人生の幸福の極みにいるときに、不治の病に冒されたのである。病名はALS、筋萎縮性側索硬化症、俗にいうところのルー・ゲーリック病。そう、大スターだった大リーガー、ルー・ゲーリックが罹(かか)って帰らぬ人となった死に至る病なのである。
ブルースは医師から余命1年と宣告される。脳および脊髄の神経に障害が出て、筋肉が痩せ落ち、満足に話せなくなり、やがて体を動かすことさえできなくなり、最後は呼吸不全に陥って死ぬ。それも脳に異常がないために、意識ははっきりとしていて、じわじわと自分の体が衰退していくのをなすすべもなく見ているだけという恐ろしい病なのである。日本では1万人、アメリカでは3万人の患者がいるといわれている。となれば、人口比率から言えば、0.01%以下の確率の希有な病ということになる。「なぜに自分だけがそんな難病に罹ってしまったのか」と嘆くどころか、神様を呪ってもおかしくない病なのだ。
ブルースは歯科医師の長男として生まれ、両親からは医師か弁護士になるようにと言われていた。裕福な家庭に育ち、ジュニアハイスクールに上がったときにキャディのアルバイトをやった。夏の間だけの社会学習を兼ねたもので、キャディ育成プログラムで訓練を受け、何と夏休み最後にはプロトーナメントでプロゴルファーに付くキャディを体験したのである。しかも結果は6位タイ。13歳の少年が成し遂げた驚きの成績であり、このときの体験がブルースの人生を決めたと言っていい。
ブルースは言う。
「ロープの内側に足を踏み入れた途端、そこにプロゴルフの世界があった。緊張感漂う真剣勝負の世界が僕を虜(とりこ)にしたんだ。プロの一挙手一投足を間近で見られ、サポートできる。彼らと同じ空気が吸える。最高の仕事に思えた」
大学に進学できる頭脳を持ちながらも、ブルースは高校卒業と同時にプロのキャディになった。ブルースは落ち着かない子供で問題児だった。今でいうADHD(注意欠陥・多動性障害)であったわけで、机に座って勉強する学校生活は馴染(なじ)めなかった。戸外で思い切り空気を吸い、動き回れる仕事が向いていたのだ。しかもプロのキャディなら、毎週異なる場所に移動する。キャディはブルースの天職だとも言えた。
「大学で学びたいこともなかったし、うまくやっていけるとも思わなかった。PGAのツアーキャディはすごく魅力的だった」
運命の出会いはすぐに確固たる絆となる
1973年、新米プロキャディになった数試合後、ブルースはセントルイスでトム・ワトソンと運命的な出会いをする。その週に担ぐバッグがなかったブルースの前に、これまたまだまだ新米といえるまったく実績のない若きトム・ワトソンが現れた。ワトソンも自分のバッグを担いでくれるキャディを探していたのだ。
ブルース18歳、ワトソン24歳。ブルースはまだ1勝もあげていないワトソンを見ていた。まだ開花していないが優れた才能を見ていたといってもいい。この年の初頭に行われたハワイアンオープンで、ワトソンは長いパットを何度も決めていたのだ。「ドライバー・イズ・ショー、パット・イズ・マネー」である。パットがうまい選手は稼げる。プロキャディとしての嗅覚がワトソンの稼げるゴルフを見抜いていたのだ。
長髪にジーンズのブルースはワトソンの前に進み出た。
「よかったら僕をキャディに使ってくれませんか?」
ワトソンは青年ブルースの中に礼儀正しさと育ちの良さを見て取った。
「まずは1週間、試してみよう」
ワトソンは即座に言った。ブルースはそんなワトソンの気さくな人柄に引かれた。
そして、ワトソンの練習熱心さに驚いた。
「この人は本気でうまくなろうとしている」
ワトソンはブルースの頭の回転の速さとウイットに富んだ会話、そして何よりもキャディとしての仕事がずば抜けてできることを知った。しかも自分の速い歩きにまったく遅れずに歩けるこの若者を気に入った。
ワトソンは言う。
「僕が必要だったのはまず速く歩けること。重いキャディバッグを担ぎながら、息を切らさずに速く歩けるか。そしてピンまでの距離やグリーンの傾斜、ハザードの状況、風向きなどを即座に正確に答えられるか。それらのすべてがブルースは最高レベルでできた」
ワトソンはスイングも歩くテンポも速かった。それが彼のリズムであり、ナイスショットを生み出す鍵。キャディがもたもたしていたらそのリズムが崩れ、ミスが出る。しかもブルースはキャディとしての仕事も素晴らしかった。
「あの頃のキャディのほとんどはバッグを運ぶだけの担ぎ屋だった。しかし、ブルースは違った。私が求める以上の情報を提供してくれたんだ」
ワトソンとブルースがタッグを組んだ初めての試合は6位という上出来の成績だった。試合後、ワトソンはブルースに自分の愛車の鍵を渡した。
「火曜日の午前9時にモントリオールで会おう」
その言葉は、次の試合でもキャディを頼むということである。強くなると信じられるプレーヤーから信頼を勝ち得た。ブルースはそれが何よりもうれしかった。
ブルースはキャディ仲間のビル・リーヒーと交代で、昼夜ぶっ通しでクルマを走らせた。セントルイスからモントリオールの会場までの1900kmを40時間かけ、月曜の夕暮れ時にカナディアンオープンの会場に到着したのである。
ワトソンはそこに辛抱強さとガッツを見た。
「ブルースは私が猛暑の中を何時間練習しようと不平ひとつ言わない。日が暮れるまで練習して腹ぺこになっていたとしても何ひとつこぼさない。モントリオールまでクルマを移動させても、眉ひとつ動かさない。一言、『間に合わせます』と言ったんだ」
ブルースがワトソンに感じたことも一緒だった。
「トムはミスショットしてもひどいスコアになっても言い訳は決して言わない。どんなに暑くても寒くても雨でも風でも文句の一言もない。逆境になるときほど彼は強くなる。挑戦意欲が湧いてすごい集中力を発揮するんだ」
2人の息はぴったりと合った。運命の出会いはすぐに確固たる絆となったのである。
(後編に続く)
