ブルース・エドワーズは、30年間にわたって名ゴルファー、トム・ワトソンの専属キャディとして活躍した。ワトソンとブルースは名コンビだったが、ブルースは49歳の若さでこの世を去ってしまう。「書斎のゴルフ」第5回後編は、ブルースの友情と愛、早過ぎる死を描いた感動のストーリーを、『天国のキャディ 世界で一番美しいゴルフの物語』(ジョン・フェインスタイン著/小川敏子訳/日本経済新聞出版/2006年10月刊)から紹介する。
前編 「トム・ワトソン専属キャディ 世界で一番美しいゴルフの物語」
不屈の闘志でキャディをやり抜く
ブルース・エドワーズとトム・ワトソンが運命の出会いをした1973年、ワトソンは勝利こそなかったもののPGAツアーのシード選手になった。若い2人は確実に実力を上げていった。翌74年、ワトソンは全米オープン最終日のスタート時点で首位。惜しくも優勝は逃したが、経験を積めばメジャーでも勝てることを示した。しかもその2週間後にPGAツアー初優勝を成し遂げる。この年、ワトソンは賞金ランキング10位となった。
その翌年の1975年、ブルースは初めてワトソンのキャディとして優勝を体験する。このときのブルースの喜びようは半端ではなかった。というのも、前年のワトソン初優勝のキャディはブルースではなかったからである。この年、ワトソンは全英オープンに初優勝、ついにメジャーを制したのだが、ブルースはパスポートがなく渡英できなかった。テレビにかじりついていたブルースは歓喜と共にじだんだを踏んだのである。
しかも、77年のマスターズ優勝もブルースはバッグを担げなかった。83年までマスターズはハウスキャディを使うことが義務づけられていたからである。この大会では当時の絶対王者、ジャック・ニクラウスとの一騎打ちをワトソンが制したのだが、7月の全英オープンでもワトソンはニクラウスを大接戦の末に下した。ワトソンが「新帝王」と呼ばれることになった大会だったが、ここでもブルースはワトソンのバッグを担ぐ栄誉には浴せなかった。
ワトソンは1977年から80年まで4年連続でPGAツアーの賞金王となった。もちろん、ブルースのサポートが実を結んだ結果でもあるが、80年の全英オープン3勝目も81年のマスターズ2勝目もブルースはキャディを務めてはいない。
全英オープン「奇跡のチップイン」
「メジャーでも僕が担いでワトソンを勝たせたい」
思いは募る。そしてチャンスは巡ってきた。82年の全米オープン。会場はワトソンがスタンフォードの学生時代に早朝ゴルフを何度も行っていたペブルビーチだった。
初日、2日目とショットが定まらなかったワトソンはラウンド後の練習でスイングに開眼。恒例の「これだ!」が思わず出て、3日目に会心のショットで首位に並ぶ。迎えた最終日、帝王健在とニクラウスが猛追、16番でついにワトソンを捉えて首位に並ぶ。17番は言わずと知れた海に向かって打つ美しいが至難のパー3。大勝負がかかったこのホールで、ワトソンのボールは飛び過ぎてグリーン奥の深いラフに消えた。ピンは近く、「寄らない」とニクラウスでさえ思った状況だった。
ところがライを見て、わずかにボールが見えることからブルースは思う。
「このボールはまだ生きている。トムなら寄せられる」
ワトソンを見て言った。「頼む」と。ワトソンはブルースの顔を見てきっぱりと言った。
「練習ラウンドで何度もやったライだ。入れてやる」
果たしてワトソンの打ったボールはふわりと上がり、グリーンを転がってピンに当たった。ガシャンと音を立ててカップに入ったのである。ワトソンはクラブヘッドを空に向け、グリーンを駆け回った。そして、ブルースに言った。
「ほら、言っただろう! 入れるって」
このバーディで勝負あった。ワトソンとブルースのコンビは初めてメジャーを制した。
このショットは後に「奇跡のチップイン」といわれ、ゴルフ史に残る名場面となった。ニクラウスは「あのチップインは1000回打って1回入るかどうかだ」と唸(うな)った。
ワトソンはこの年、全英オープン4勝目を果たし、翌83年も全英を制してこの大会5勝目。84年は惜しくもマスターズ優勝を逃して2位となるものの、全英オープンも優勝争いをし、ツアー3勝を遂げて5回目の賞金王に輝いたのである。
ところが、85年から突然ワトソンはスランプに陥った。86年は2年連続未勝利に終わり、賞金ランキングは20位と大幅に後退してしまうのだ。愚痴ひとつこぼさなかったワトソンの心が折れた。「スイングの感覚がなくなった」とこぼしたのだ。
そしてこう言った。「ゴルフをしても楽しくないんだ」と。
しかも得意のパットまで決まらない。ショットも悪く、パットもひどい。ワトソンはブルースを見て忍びなかった。そして、こう言ったのだ。「他のプレーヤーのバッグを担ぐべきだ」と。
ずっと一緒にやってきた盟友のまさかの発言。ブルースは他のプロのキャディになることなどまったく考えていなかった。しかし、ワトソンは試合を休むようになった。こうなると、他のプロがブルースを放ってはおかない。フレッド・カプルスやペイン・スチュアートといった名手たちが声をかけてくる。とうとうワトソンが休んだときだけという条件でキャディをすることになる。
これを見た当時世界ランキングNo.1のグレッグ・ノーマンがブルースに専属契約を持ちかけた。ブルースがワトソンに相談する。ワトソンは「キャディもビジネスだ」と言い、「それが君のためだ」と言った。優しいワトソンらしい言葉だったが、きっと断腸の思いだったろう。
ブルースは、それまでキャディという仕事をビジネスと考えたことはただの一度もなかった。しかし、ワトソンからそう言われればやるしかなかった。アメリカだけでなく、ヨーロッパや中東、アジア、オセアニアと世界中を特別待遇で回るノーマン。普通のキャディならできない素晴らしい体験であり、収入もすこぶる高かった。しかし、ブルースにはそんな生活が肌に合わなかった。強烈な個性を放つノーマンは、ブルースの穏やかな性格とはマッチしなかったのだ。
トムの隣でゴルフコースを歩きたい
こうしてブルースは再びワトソンのキャディに戻った。まだスランプから脱し切れていないのにである。ワトソンはブルースのサポートでゆっくりと回復した。そうした4年後の96年、ワトソンはついにPGAツアーで優勝を成し遂げる。実に9年ぶりの復活優勝だった。
この2年後にも優勝を果たすが、50歳になってからのワトソンは戦いの舞台をシニアツアーに移し、2001年にはシニアのメジャー大会である全米プロシニアを制したのである。グランドスラム大会の中で唯一獲(と)れなかった全米プロを、シニアの大会とはいえ獲得できたことにワトソンもブルースも喜びはひとしおだった。
ところが、その翌年の02年にブルースがALS(筋萎縮性側索硬化症)を発病してしまうのである。最初はせきが出るだけだった。タバコが問題なのかと思うくらいだった。しかし、やがてろれつが回らなくなった。疲れているせいかと思ってみたが、おかしい。酒を飲んでいないのに酔っ払ったように口が回らないのだ。ワトソンは身体検査を受けるように忠告したが、ブルースは聞き流していた。
そんなある日、驚愕(きょうがく)の出来事がワトソンの前で起きる。いつものようにグリーン上でマークしたボールをブルースにポンと放ったときのこと。そのボールを取れずに落としたのである。
ブルースの手を見ると親指と人さし指の間の筋肉がげっそりと落ちていた。ワトソンは自分の主治医がいる病院に行くことを命じた。「言い訳は一切するな」と言って。
病院で検査を受けると、不治の病ALSであることが分かった。ワトソンは治療法を探しに病院を駆け巡る。治療法がないなら開発すればいいと、ALSの研究費を集める募金活動も行った。
03年、ワトソンはマスターズで予選落ちを喫した。このとき、ブルースは「また来年がある」とワトソンに言った。ワトソンには来年があってもブルースにはないかもしれない。余命1年の宣告を受けたブルースにとって最後のマスターズになることは間違いないことだった。
だからワトソンは全英オープンで奮起した。初日、ワトソンは奇跡的なチップインイーグルや超ロングパットなどを決め、首位に立った。54歳のワトソンは、何とかブルースに元気を出してもらいたいと奮闘したのである。ワトソンは奇跡的な1日を終えて、涙を流した。「ブルースの目を見た途端、もう、ありがとうって」。
ブルースは痩せ衰えていた。それでも、必死にバッグを担いだ。それもその年の最後の試合までずっとである。ブルースの精神力はすごいものだった。もう足が痛くて歩けないのに、キャディバッグを背負い、グリーンを読む。
ワトソンは言う。
「私がパットに自信を失ってからは、いつもブルースが読んでくれた。彼のライン読みは最高だったから」
ブルースは言う。
「僕はゴルフコースを歩くのが好きなんだ。それもトムの隣で一緒に歩くのが。どうでもいいような話をしながらね」
しかし、そのシーズン最後はカートに乗ってのキャディとなった。それはキャディ、ブルースの最後を意味していたと言ってもいい、悲しく痛ましいことでもあった。
翌04年のマスターズが始まる前日、ブルースはベン・ホーガン賞を授与された。肉体的なハンディや重い病気でありながらゴルフ界に貢献した人間に与えられる賞である。ブルースの不屈の闘志がたたえられたのだ。
その授賞式から数時間後の翌日朝、ブルースは息を引き取った。その日はマスターズ初日。ワトソンはブルースのいない寂しさと亡き面影をフェアウェイに見ながらプレーを行った。涙が滲(にじ)んだが、それでも幸せだった。
「だって僕らはいつも一緒だったから。それは、この先もずっと変わらないんだ」
