『ゴルフは人生を教えてくれる 鈴木規夫先達を訪ねる旅』(聞き手・鈴木規夫/構成・「書斎のゴルフ」編集部/日本経済新聞出版)は、日本ゴルフ界の礎を築いた名選手たち9人を一人ひとり訪ね、国内20勝を挙げた鈴木規夫プロが聞き手となって1冊にまとめたインタビュー集。尾崎将司プロの生みの親である藤井義将プロ、「那須の小天狗(てんぐ)」と呼ばれ小技が絶妙だった小針春芳プロなど先達たちのゴルフ人生から、ゴルフの楽しさ、奥深さを知ることができる1冊だ。
名手たちが語る技と心と名勝負
『ゴルフは人生を教えてくれる』は、日本ゴルフ界の礎を築いた名選手たち9人を一人ひとり訪ね、鈴木規夫プロに聞き手となってもらい、『書斎のゴルフ』で連載したものを1冊にまとめたインタビュー本である。ゴルフ好きの読者の皆さんだけでなく、多くのゴルフ評論家やジャーナリストの皆さんから、日本ゴルフ界にとって非常に素晴らしい本であると絶賛されたものだ。今回、この本を紹介するにあたり、鈴木プロと共に偉人たちに出会ったときの裏話をしてみたいと思うがいかがだろう。
偉大な名手たちの話を聞いてもらった鈴木規夫プロは、1974年から約10年間、「九州の若鷹(わかたか)」として大活躍した選手である。76年全英オープンでは予選から挑戦して本選に出場し、日本人として初めてトップに立ち、日本人は当分勝てないと言われた三井住友VISA太平洋マスターズで79年にトム・ワトソンを撃破して優勝、翌80年には尾崎将司プロを制して2連覇を成し遂げた。マスターズやワールドカップにも出場し、国内ツアー16勝を挙げるなど、83年に急性肝炎にかからなければその後もまだまだ活躍できた名選手であった。
現役ツアー生活から引退した2010年頃、鈴木プロは日本ゴルフツアー機構の理事をされていた。何かの用事で同機構を訪ねた私は偶然、鈴木規夫プロと出会った。80年の太平洋マスターズ、某ゴルフ雑誌の新入編集部員となった私は先輩に連れられてこの試合を見に行っていた。鈴木プロの恐れを知らない強烈なパンチショットがピンを刺し、尾崎将司プロを倒して勝利したのを間近で見た記憶は、私の脳裏に永遠に焼き付いた。
憧れの鈴木プロに出会えた私は興奮してそのときのことを話した。話が進むうちに、『書斎のゴルフ』の編集長であった私は、尾崎将司プロの生みの親である藤井義将プロを取材したいという望みを漏らしていた。
鈴木プロはニヤリと笑い、「だったら私がインタビューしましょう」と言ったのである。当時、藤井義将プロは誰が頼んでも取材を受けないプロとして定評があった。「玄海の荒法師」と綽名(あだな)される藤井プロは苦労の末に日本オープンゴルフ選手権覇者となった人で、九州では誰もが恐れる首領(ドン)であった。その首領に鈴木プロが話を聞いてくれるというのである。
「本当ですか? 本当にやってくれるのですか?」と思わず私は聞き返した。
そんな私を見て、鈴木プロはすぐに部屋にあった電話で藤井義将プロに話をし、インタビューのアポイントを取り付けてしまったのである。現役時代のショットと同様の歯切れの良い仕事の進め方に、私はすっかり鈴木プロの虜(とりこ)になってしまった。
藤井義将プロ、日本オープンにかける
こうして鈴木プロと一緒に私は藤井プロに会うことになった。藤井プロは麻生飯塚ゴルフ倶楽部の所属プロだった。コースに行くと麻生太郎元首相が藤井プロに挨拶をしているところだった。このコースは麻生太郎氏の父である麻生太賀吉(たかきち)氏の強い要請で、藤井プロがボタ山(石炭を掘り上げたときに出た土を積み上げた山)を美しいゴルフコースにデザインしたものだった。
取材した2010年当時、藤井プロは81歳だった。「玄海の荒法師」も今や柔和な笑顔でもって私たちを迎え入れてくれた。51年生まれの鈴木プロは当時59歳で大先輩を前に少々固くなっていた。それも藤井プロからいきなり「規夫は今何をしている?」と名前で呼ばれ、「田舎に引っ込んでいてはダメだ。中央に住め」、さらに「体に気をつけていたらどれだけの選手になったことか」などと言われ、鈴木プロはいきなり先制パンチを浴びてしまったのである。しかし、藤井プロは笑いながら、「俺は自分の話をするのは苦手だが、規夫の頼みなら仕方ねえな」と言って、何でも聞いてかまわぬという態度になったのである。
藤井プロの話は、若い頃に日本黎明(れいめい)期の偉大なアマチュア、赤星四郎氏からゴルフの基本を教えてもらったことから始まった。私はいきなり日本ゴルフ史の真っただ中に放り込まれたようで目が丸くなっていたと思う。
藤井プロは福岡の和白から関東の名門、霞ヶ関カンツリー倶楽部に移り、そこで研鑽(けんさん)を重ねた。猛練習で手が腫れ、手とクラブをタオルで巻き付けて縛り、ひたすら打つ。血がにじみ出て、球を拾う段になると、血がダーッと腕に流れ、ようやく腫れが引くという毎日だったそうだ。
スタンスを大きく広げ、豪快なスイングで飛ばした藤井プロ。目指す日本オープンもすぐに勝てそうだったが、惜しくも2位ばかり。精神が弱いからだと言われ、鍛えるために真っ暗闇の山の中で座禅を組んだこともある。ようやく勝てたのが71年、藤井プロは42歳になっていた。勝てたきっかけは池の鯉(こい)である。鯉が優雅に泳ぐ姿を見て心が落ち着き、いつもイライラしていた試合前の緊張が解け、戦う気持ちが整ったという。
尾崎将司プロのゴルフ転向を手助け
話の最後は私が最も鈴木プロに聞いてほしかった尾崎将司プロのことだった。尾崎プロの最初のゴルフの師が藤井プロだと言われていたし、西鉄ライオンズのプロ野球選手だった尾崎プロをプロゴルファーに転向する手助けをしたとも言われていた。事実はどうだったのか。
ある日、藤井プロのもとへまだプロ野球選手だった尾崎選手がやってきた。「玄海の荒法師」の前で尾崎選手は緊張し、「プロゴルファーになりたい」とは言い出せなかったそうだ。『書斎のゴルフ』でも『ゴルフは人生を教えてくれる』にも書かなかったが、このとき尾崎選手は藤井プロの前でおいおいと泣いたという。言えない気持ちが涙になったのだ。尾崎プロの名誉のためにこのことは伏せようと鈴木プロに言われたが、今なら書いてもいいだろう。藤井プロは尾崎選手の胸の内を知り、プロゴルファーになる橋渡しをしたのである。なぜ、尾崎選手は藤井プロの弟子にならなかったのか。
「まだ西鉄との契約が残っていたし、九州から離れるほうがよいと俺は考えた。それで関東に行けと。知人であった林由郎のもとへ行かせたのだ」
尾崎選手は妻子も置いて習志野に行った。そこで血のにじむ努力をして大スターになったのだが、そのきっかけを作ったのは藤井プロであった。
「俺は尾崎に何一つ教えてはいない。一度、大スランプに陥ったときに俺のところにやって来たことがある。俺の前で走ったり練習したりしていたが、あのとき同様、よう俺に悩みは打ち明けられない。しかし、あいつはメタルウッドとツーピースボールで曲がりを抑え、復活した。俺には再び天狗になったように見えたがの」
とはいえ、ゴルフ界に空前のブームを巻き起こした尾崎プロを自分の息子のようにかわいがっていることは分かった。
「あいつは人に感謝せんといかん」と言った藤井プロ。尾崎プロが自分の前に顔を出して何か言ってほしいと思っているようだった。
藤井プロは取材から5年後の2015年2月26日、心不全で亡くなった。享年85歳だった。
(後編に続く)


