「ダウンブローのパンチショットを覚えよ!」(モダンゴルフの祖・陳清波プロ)、「飛球線に未練を残さない」(早打ちマック・佐藤精一プロ)――。日本ゴルフ界の基礎を作った名手たち9人が、その技と心と名勝負を語った1冊『ゴルフは人生を教えてくれる 鈴木規夫先達を訪ねる旅』(聞き手・鈴木規夫/構成・「書斎のゴルフ」編集部/日本経済新聞出版)。後編は、名手8人のゴルフ道に迫ります。

前編 「ゴルフの名手に聞く 尾崎将司プロの生みの親、藤井義将プロ」

日本ゴルフ界の名選手を訪ねる

『ゴルフは人生を教えてくれる 鈴木規夫先達を訪ねる旅』(聞き手・鈴木規夫/構成・『書斎のゴルフ』編集部/日本経済新聞出版/2012年5月刊)。国内20勝を挙げた鈴木規夫プロが、日本ゴルフ界の礎を築いた名選手たち9人を一人ひとり訪ね、その技と心と名勝負を1冊にまとめたインタビュー集(本書は2023年10月現在、品切れ・重版未定です。古書店、インターネット書店、図書館などで入手することができます)(写真:スタジオキャスパー)
『ゴルフは人生を教えてくれる 鈴木規夫先達を訪ねる旅』(聞き手・鈴木規夫/構成・『書斎のゴルフ』編集部/日本経済新聞出版/2012年5月刊)。国内20勝を挙げた鈴木規夫プロが、日本ゴルフ界の礎を築いた名選手たち9人を一人ひとり訪ね、その技と心と名勝負を1冊にまとめたインタビュー集(本書は2023年10月現在、品切れ・重版未定です。古書店、インターネット書店、図書館などで入手することができます)(写真:スタジオキャスパー)
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 マスコミの取材は受けないと言われていた「玄海の荒法師」から鈴木規夫プロが話を聞いてくれた帰路、鈴木プロからそうした日本ゴルフ界を切り開いてきた大先輩を訪ねていこうという提案が出された。ゴルフの歴史を振り返ることも重要な使命と考えていた私にとって、編集する『書斎のゴルフ』に先達たちの話を連載できることは願ってもないことであった。

 この頃、カナダカップ(現ワールドカップ)に優勝して戦後のゴルフブームを巻き起こした中村寅吉プロが2008年に亡くなり、尾崎将司プロを育てた林由郎プロが介護施設に入り、杉原輝雄プロも闘病中で、鈴木プロからすれば、大先輩たちに会う時間はそれほど残されていないと感じていたのかもしれない。鈴木プロは「トイチ」のニックネームで強靱(きょうじん)なゴルフを見せた戸田藤一郎プロを尊敬していたが、その戸田プロが69歳の若さで亡くなって以来、いろいろなことを思われているのだと想像できた。

「那須の小天狗」小針春芳プロ

 こうして次にお会いした先達は「那須の小天狗(てんぐ)」と呼ばれた小針春芳プロだった。小針プロが当時もなおクラブプロとして所属していた名門リゾート、那須ゴルフ倶楽部に鈴木プロと向かった。大正生まれの小針プロはこのとき89歳だったが、真っ黒に日に焼けたかくしゃくとしたゴルフ人だった。

 小針プロは那須ゴルフ倶楽部が開場したときにキャディとなった。ゴルフがやりたくて木を根っこごと掘り出して削り、布を巻いてグリップにしてボールを打った。まるで漫画「プロゴルファー猿」である。上手な人のヘッドの動きを注視してゴルフを学んだそうだ。つまりはどのように振ればスクエアインパクトができるかにこだわったというわけだ。

小針春芳氏(写真:『書斎のゴルフ』)
小針春芳氏(写真:『書斎のゴルフ』)
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小針春芳(こばり・はるよし)
1921年4月24日、栃木県生まれ。クリークの名手であるとともに、どこからでも寄せてしまう寄せの技術と、勝負強いパッティングで日本オープン2勝など数多くのタイトルを手にしている。

 「那須の小天狗」と呼ばれたのはあまりにパットがうまかったから。シャフトに巻き付けたグリップの革はよくペロリと外れ、それを巻き直しながらラインを読む姿にすごみがあった。多くのプロが、小針プロが必ずロングパットを沈めてしまうことに恐れを抱いたという。小針プロは練習グリーンで毎日一日中練習してグリーンを何枚もはげさせてダメにしたそうである。

 印象に残ったのは次の言葉だ。「アプローチのミスは心のスタミナを奪う」。それだけにパットだけでなく、アプローチも猛練習したのである。日本オープンゴルフ選手権2勝を挙げた小針プロは2019年4月19日に亡くなった。97歳だった。

モダンゴルフの祖・陳清波プロ

 先達を訪ねる旅、3人目は美しいワンピーススイングで日本オープンなど数々のタイトルを獲(と)った陳清波プロ。1931年に台湾で生まれ、日本の川奈で修業し、石井茂プロからスクエアグリップを習ってワールドカップに出場。そこでベン・ホーガンを見て、自分のグリップが間違っていないと自信を持つことができたという。

 特にアイアンショットの鋭さが陳プロの武器で、それはダウンブローから培われたものだった。さらにその武器から生まれるパンチショットがアゲンストでもしっかりコントロールされる必殺ショットになったわけである。

陳清波氏(写真:『書斎のゴルフ』)
陳清波氏(写真:『書斎のゴルフ』)
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陳清波(ちん・せいは)
1931年10月1日、台湾生まれ。美しいワンピーススイングで1959年日本オープン優勝など60年代を中心に活躍。スイング理論をまとめた「陳清波のモダンゴルフ」はゴルファーの聖書となる。シニアになっても強豪ぶりを発揮し、日本プロゴルフシニア選手権や日本プロゴルフグランドシニア選手権で優勝。

 鈴木プロは陳プロのそのパンチショットを中学生のときに目撃。憧れの戸田藤一郎プロもパンチショットの名手であり、鈴木プロもいつしかパンチショットの名手になった。というわけで、この対談では、「アマチュアもパンチショットを覚えよ」という陳プロの言葉の後、2人は陳プロがいる久我山ゴルフの練習場でパンチショットの競演をしてくれたのである。

 なお、陳プロは今も背筋がシャンと伸びた92歳、健在である。

 4人目の先達は「鬼軍曹」こと石井朝夫プロ。1923年に伊豆の富戸で生まれ、母一人の家庭を助けるために川奈でキャディをしながら、プロになった。が、すぐに太平洋戦争が始まる。21歳で徴兵され、「職業は?」と聞かれ、敵国のスポーツを職業とは言えずに黙っていたらボコボコに殴られたという。生き残って郷里に戻り、再びゴルフを始めたのだ。

 印象に残っている話はグリップのこと。「右手は箸を持ち、左手はお椀(わん)を持つだろう。それはゴルフのグリップでも同じよ。まずは左手をお椀を持つように親指の腹でグリップのやや右側を押さえる。ベン・ホーガンはそれをシャンパングラスの中身をこぼさないように押さえると言っている。こうすればしっかり握れるんだ」。石井プロはこのグリップでワールドカップに出場したとき、アーノルド・パーマーやジャック・ニクラウスよりも飛ばしたのである。

 白髪のダンディー、石井プロは2022年1月、98歳で大往生を遂げた。

 先達を訪ねる旅、5人目はパワーゴルフの元祖、杉本英世プロ。26歳の若さで日本オープンに優勝、その5年後に日本オープン2勝目を飾り、この年は日本シリーズも制して6勝を挙げた。杉本プロも川奈で生まれ育ち、大柄で体力に満ちあふれたプロゴルファーだった。「ビッグスギ」のニックネームで外国選手に劣らぬ飛ばしでPGAツアーにも日本人として始めて参加、海外でも名を馳(は)せた。

 「リー・トレビノやチチ・ロドリゲス、ヘイル・アーウィンなどにかわいがってもらった。英語はできなかったが、ボディーランゲージで何とかなった。でもRとLから始まる単語は発音が違うと何度も注意されたね」

 そんな杉本プロは、私が新米記者兼編集者だったときに取材をさせてもらった恩のある人。そのときに私が書いた古いムックを見せると、「おお!」と言って持っていってしまった。私が初めて書いた大事な宝物だったが。

 1938年生まれの杉本プロは現在85歳。いつか「宝物」を返してほしいものだ。

「早打ちマック」佐藤精一プロ

 6人目は「早打ちマック」こと佐藤精一プロ。1932年生まれ、我孫子ゴルフ倶楽部のキャディからプロになり、34歳で日本オープンに初優勝した。その後、関東プロや日本プロゴルフ選手権も制す。テンポの速いスイングが持ち味で、現在91歳、元気にコースに出ていると聞く。

 身長は161cmと小柄だが、飛距離は出た。一緒に回ったことのある鈴木プロは「佐藤さんはすでに40代も半ばだったけど、パワーフェードでドッカーンと飛ばしていたのにはびっくりした」と語る。「俺は不器用だったから飛ばさなきゃと思った。毎日2時間走って重いクラブをブンブン振る。44インチで450gのパーシモンで飛ばしまくったさ」と笑顔で応じた。

佐藤精一氏(写真:『書斎のゴルフ』)
佐藤精一氏(写真:『書斎のゴルフ』)
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佐藤精一(さとう・せいいち)
1932年9月10日、大分県生まれ。我孫子ゴルフ倶楽部のキャディからプロになり、その後、袖ヶ浦カンツリークラブに所属、34歳で日本オープン初優勝と苦労の末に日本一となった。その後、関東プロ、日本プロも制す。テンポの速いスイングが持ち味で「早打ちマック」と呼ばれる。

 印象的だったのは「飛球線に未練を残さない」の言葉。アマチュアは飛球線に未練があって真っすぐに飛ばしたいと思う。だから飛ばないし曲がる。「思い切って低く左に振りきればいい」と佐藤プロは言い切るのであった。

 7人目は「ゴルフの貴公子」と呼ばれた河野光隆プロ。1941年生まれで65、66年と日本プロで2連覇を成し遂げた。兄は日本オープンを制した河野高明プロであるが、取材した2010年に亡くなってしまった。光隆プロは「逆転の光隆」として有名で、65年の日本プロは最終日に65を出して逆転優勝した。

 「常に旗を目指した。調子の波に自分を乗せ、乗ったらずっと乗り続ける。それを可能にするのはパット。長い距離でも入れる気で練習した。そのうち本当に入るようになるもんだ」

 そう語る河野プロは今年82歳。今もなお柔和な笑顔と甘いマスクの貴公子である。

 8人目は鈴木プロとペアを組んで78年のワールドカップを戦った内田繁プロ。さっそく内田プロが「お互いかみさんをハワイに連れてきて、夫婦同伴で試合した。これまでのゴルフ人生でも最高に楽しい思い出だったよ」と語り、鈴木プロも「内田さんは明るくてさわやかでおしゃれ。私の憧れでした」と言い、2人は和気あいあい。楽しい対談になった。

 内田プロの奥さんは大企業の重役令嬢で学習院大学卒の才媛。「何でプロゴルファーと結婚したのか」と鈴木プロが問えば、川奈に遊びに来ていた彼女にゴルフを教えることになって恋の花が咲いたのだという。真面目に練習する内田プロの人柄が認められて結婚したのである。この結婚で奮起して万年2位を返上して中日クラウンズに優勝した。奥さんは勝利の女神でもあったのだ。

 「フックグリップのドローボールで飛ばしていたけど、それをスクエアグリップのフェードボールにした。ボールをコントロールできるようになって勝てるようになったんだ」

 地面に1本の線を引いて線の外側をきっちり掘れるように打つ。それも手が血まみれになっても振り続けた。スイングが縦振りとなり、正確でパワフルなフェードが打てるようになった。内田プロは現在86歳。生まれ故郷の伊豆の伊東で幸せに暮らしている。

「見る人を楽しませなきゃ」安田春雄プロ

 先達の旅の最後は派手なアクションと言動で人気の安田春雄プロ。2005年に肺がんとなり余命1年の宣告を受けたが、手術と抗がん剤、放射線治療で克服、取材をした10年にスターツシニアで復活優勝を遂げた「奇跡の人」でもあった。片方の肺を取ったが、取材したときにはその肺が再生してきたと言って大笑い。私は安田プロの精神力に恐れ入ってしまったのである。

安田春雄氏(写真:書斎のゴルフ)
安田春雄氏(写真:書斎のゴルフ)
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安田春雄(やすだ・はるお)
1943年1月19日、東京都生まれ。師匠は中村寅吉プロ。18歳でプロ入りし、初優勝は68年の中日クラウンズ。その後、ダンロップ、日本プロゴルフマッチプレー選手権など国内15勝。

 安田プロは25歳のときに中日クラウンズで初優勝。そのとき3歳上の鈴村久プロとプレーオフになり、両者一歩も引かない戦いで決着が付いたのは9ホール後。1時間40分に及ぶ壮絶な試合を制したのである。ガッツあふれるプレーでミスしてもすぐに取り返すバウンスバックが持ち味。熱狂的なファンが増えていった。中日クラウンズは2年後も制し、80年には日本プロマッチプレーに優勝、国内15勝を挙げている。海外でも実力を発揮、フィリピンオープンなど3勝を挙げている。

 印象に残った言葉は「プロなら見る人を楽しませなきゃ」である。今のおとなしい男子プロに聞かせたい言葉であった。肺がんを克服したスター、安田プロは、現在80歳、日本ゴルフ殿堂入りを果たしたが、今もシニアの試合に出場、「生涯現役」と息巻いている。

 このように『ゴルフは人生を教えてくれる』は日本のプロゴルフ界を支えてきたレジェンド9人の貴重な資料でもある。いずれの方の話も「ゴルフは人生そのもの」という格言そのものの、素晴らしいものだった。このコラムを読まれる読者の皆さんにぜひとも読んでほしい人生の書だと思う。

 ちなみに2023年の今、9人のうち3人が亡くなっている。ご冥福を祈るとともに、お会いして素晴らしいお話を聞かせていただいたことに感謝したい。もちろん、聞き手役になってくれた鈴木プロには大変お世話になった。この場をお借りして、再度お礼を申し上げたい。